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プロローグ:獣を愛する者

動物が好きだ。


 いや、大好きだ。


 俺の名前は 相原直樹あいはら なおき、28歳の独身サラリーマン。動物を愛してやまない男だ。


 俺の家には 二匹の犬 と 二匹の猫 がいる。名前は 柴犬の「コタロウ」、ゴールデンレトリバーの「ルナ」、黒猫の「クロ」、三毛猫の「ミケ」。彼らは俺の家族であり、癒しであり、かけがえのない存在だった。


 仕事でどんなに疲れても、家に帰れば彼らが駆け寄ってくる。犬たちは尻尾を振って甘え、猫たちは気まぐれに喉を鳴らして擦り寄ってくる。そんな日常が、俺にとっての幸せだった。


 それでも、俺には 一つの夢 があった。


 ――もっとたくさんの動物たちと触れ合いたい。


 俺は子供の頃から 動物園 や 水族館 に通い詰め、珍しい動物と触れ合える アニマルカフェ も頻繁に訪れていた。


 けれど、日本で見られる動物は限られている。ライオンやゾウ、チーターやキリン……野生の姿をこの目で見てみたいと思ったことは、一度や二度ではなかった。


 そんな俺がついに決意したのが、 ケニアへのサファリツアー だった。


 人生初の海外旅行。英語もそんなに得意ではなかったが、こればかりは譲れなかった。


 有給を使い、ペットたちの世話は両親にお願いし、ついに俺は アフリカの大地へと足を踏み入れた のだった――。


ケニアのサバンナは 圧巻 だった。


 見渡す限りの 大草原。遠くにはキリンの群れがゆったりと草を食み、シマウマの群れが駆けていく。象が悠然と歩き、木陰ではライオンが昼寝をしていた。


 俺は完全に心を奪われた。


 「すげぇ……まるで夢の中みたいだ……!」


 ここに来るまでの長旅の疲れも吹き飛ぶようだった。


 俺たちはサファリツアーの車に乗り、広大なサバンナを巡っていた。ドライバー兼ガイドの男が片言の日本語で説明してくれる。


 「ライオン、あそこ。ねむる、でも 夜になると狩り するよ。」


 「あれはチーター。チーターは いちばん速い動物 ね。」


 「ハイエナはこわい、ライオンのエサとる。」


 俺はガイドの話を聞きながら、夢中で写真を撮っていた。


 そんな時だった。


 突然、 車が激しく揺れた。


 「えっ――?」


 ドンッ! という 鈍い衝撃音。


 「うわっ!」


 強い振動と共に 俺の身体が宙に浮く。


 その瞬間、俺の視界は回転し、背中から地面に叩きつけられた。


 ――痛みと衝撃で、視界がぼやける。


 「な、なんだ……?」


 ツアーの車が傾き、乗客たちの悲鳴が聞こえる。ガイドが何か叫んでいるが、言葉が理解できない。


 俺は 車の外 に投げ出されていた。


 体を起こそうとするが、頭がズキズキと痛む。足元は 赤い砂塵 にまみれていた。


 次に聞こえてきたのは――


 「グルルルル……」


 獣の低い唸り声。


 ――ライオンか? いや、ハイエナか?


 俺は息を殺しながら、ゆっくりと振り返る。


 そこには、黄土色の毛並みをした ハイエナの群れ がいた。


 数は 五匹。俺の方をじっと見つめ、獲物を観察するような目をしている。


 ――まずい。


 そう思った瞬間、体が動いた。


 俺は 走り出していた。


 「くそっ、ふざけんな! まだ死ぬわけには――!」


 しかし、転倒した衝撃のせいか 足が思うように動かない。


 そのまま、俺は 乾いた大地に倒れ込んだ。


 視界が暗くなり、意識が遠のいていく――


 (まだだ……まだ、たくさんの動物を見たかったのに……)


 その無念を抱えながら、俺の 意識は闇へと沈んでいった。


 ……目を覚ますと、 全身がふわふわとした布に包まれていた。


 いや、目を開けたつもりだったが、視界がぼやけている。何もはっきりと見えない。ただ、ぼんやりとした光の影が見え、それが揺らめいているようだった。


 (……俺は、死んだはずじゃ……?)


 確かに、俺は ケニアのサバンナで事故に遭い、ハイエナの群れに囲まれた。

 最後の記憶は、倒れ込んだ大地と遠ざかる意識――。


 なのに、俺は今、生きている。


 しかも、体が 異様に小さい。


 腕を動かそうとするが、まるで 力が入らない。

 喋ろうとするが、言葉が出ない。いや、出るのは 甲高い泣き声 だけ。


 「おぎゃあああああ!!」


 (……え? 俺、今泣いたか?)


 驚いた。いや、正確には 自分の泣き声に驚いた。


 この声は間違いなく 赤ん坊の声 だ。


 次の瞬間、どこかから女性の声が聞こえた。


 「まあ! 元気な男の子ですわ!」


 甲高く、どこか上品な響きのある声。

 まるで 貴婦人 のような話し方だった。


 すぐに別の声が続く。


 「おめでとうございます、お嬢様。立派なご子息です!」


 こちらは少し年配の女性のようだ。落ち着いた口調で、敬意を込めた話し方をしている。


 俺を抱きかかえているのは 誰かの腕 だった。


 すべすべとした肌が触れる。柔らかく、温かい。

 その人は、俺を 優しく胸に抱きしめた。


 「……ありがとう。なんて愛らしい子なの……」


 かすかに震えた声。

 涙を含んだような、穏やかな愛情のこもった声だった。


 その人は、 俺の母親なのか?


 混乱しながらも、俺はぼんやりと考える。


 (待て待て……状況を整理しよう。)


 ――まず、俺は確かに 死んだはず だ。

 ――次に、俺は 目を覚ましたら赤ん坊になっていた。

 ――周囲の人間は、どうやら 貴族っぽい雰囲気 だ。


 (……つまり、転生したってことか?)


 そんな馬鹿な。

 転生なんて フィクションの中の話 だろう。

 けれど、俺の 小さすぎる手、 泣くしかできない体、 周囲の反応――。


 それを総合すると、どうやら俺は 異世界の貴族の赤ん坊に生まれ変わった らしい。


 ――いや、問題はそこじゃない。


 この世界に動物はいるのか?


 それが、今の俺にとって最も重要なことだった。


 転生してから数日が経った(らしい)。


 というのも、俺には 時間の感覚がほとんどなかった。


 赤ん坊の体は思うように動かず、話すこともできない。

 できることといえば、 泣くことと、寝ることだけ。


 最初はどうしても慣れず、思考だけが空回りしていたが、次第に少しずつこの生活にも順応し始めた。


 俺の世話をしてくれるのは 母親らしき女性と乳母。


 母親は 金髪で、とても美しい女性 だった。

 目元は優しく、俺を抱きかかえるたびに 微笑みながら頬を寄せてくる。


 「可愛い坊や……あなたの名前、早く決めなくてはね」


 俺を見つめながら、そんなことを呟いていた。


 乳母らしき老婦人は、口調こそ丁寧だが 母親よりも立場が低いように見えた。


 (どうやら、俺は そこそこの貴族 に生まれたらしいな……)


 貴族と言っても 王族 ではなさそうだ。

 母親は 「お嬢様」と呼ばれていた し、乳母や使用人たちの態度も 絶対的な忠誠というよりは、敬意を払う程度。


 つまり、俺の生まれた家は――


 それほど位の高くない貴族。


 (男爵家……せいぜい伯爵家くらいか?)


 もちろん、今の俺には この家の正確な身分は分からない。


 だが、身分ある家の生まれ であることは 間違いない だろう。


 そうなると、俺の今後の人生は 完全に貴族としてのものになる。


 (……なんだか、大変そうだな)


 けれど、俺が気になるのは この家の格式 ではない。


 俺が 知りたいのはただ一つ。


 この世界に動物はいるのか?


 いや、いるのは当たり前だろう。

 だが、俺が知りたいのは どんな動物がいるのか だ。


 この世界に ライオンやオオカミはいるのか?

 犬や猫はいるのか? 馬は? 鷹は?


 もしこの世界の動物が 俺の知るものと違っていたら……?


 そんなことを考えていた時だった。


 ふと、ベッドの横に 小さな影が飛び乗ってきた。


 「ニャー」


 ――猫、いた!!!


 その瞬間、俺の 転生への不安は吹き飛んだ。


 (この世界にも猫がいる! つまり、他の動物も……!)


 転生よりも、貴族の生活よりも、何よりも――


 俺は、この世界の動物たちに会いたかった。


俺は、目の前の猫を凝視していた。


 (猫だ……この世界にも猫がいる!)


 それだけで、俺の心は少しだけ安心した。もしこの世界に動物が一切いなかったらどうしようかと不安だったが、どうやらそんな心配はいらなかったらしい。


 この猫は、俺のベッドにひょいっと飛び乗り、丸くなって俺を見つめている。


 白と茶色の模様が綺麗な猫だった。尻尾をゆらゆらと揺らしながら、のんびりとした雰囲気を醸し出している。


 (うわー、撫でたい……!)


 俺の手はまだうまく動かせない。赤ん坊の体というのは不便極まりない。せめて喋れるなら、「おいで」とか言えるのに……。


 そんな俺の心を知ってか知らずか、猫は小さく「ニャー」と鳴いた。


 (ああ、ダメだ。可愛い……)


 この世界に転生してから、赤ん坊としての無力感に悩んでいたが、今だけはそんなのどうでもよくなった。


 ところが、その穏やかな時間は 唐突に終わりを迎える。


 「まあ! またこの子ったら、こんなところに!」


 部屋の扉が開き、母親が入ってきた。


 俺をいつも抱きしめてくれる 金髪の美しい女性。母親は、猫を見つけるなり 少し困ったように笑って こう言った。


 「ほら、あっちへ行ってなさい」


 そう言いながら、軽く手を振る。


 猫は ピクリと耳を動かし、俺の顔をじっと見つめた後――


 「ニャー!」


 と鳴きながら、勢いよくベッドから 飛び出した。


 ……いや、飛び出した?


 俺は 目をパチクリさせる。


 確かに、猫はベッドから跳び降りた。

 でも、普通の猫ならそのまま床に向かって着地するはずだ。


 だが、違った。


 猫は そのままフワリと宙を舞ったのだ。


 (え……ちょっ……飛んでる……!?)


 驚いて目を凝らすと、猫の背中から 小さな羽が生えていた。


 白くてふわふわとした鳥のような羽。

 それを バサバサと羽ばたかせながら、猫はスムーズに空中を移動していく。


 俺は、口が開きっぱなしになった。


 (飛ぶの!? 猫って飛ぶの!? いや、飛ばないだろ普通!!)


 混乱しているうちに、猫はひとっ飛びで部屋の窓の外へと消えていった。


 俺は 人生で初めて、空を飛ぶ猫を見た。


 いや、違う。

 俺は今まで 猫は飛ばないものだと思って生きてきた。

 でも、この世界では 猫は飛ぶらしい。


 (まじかよ……まじかよ……!)


 俺は興奮で心臓がバクバクしていた。

 いや、猫が飛ぶって……やばくないか? 最高じゃないか!?


 「ふぇぇ……!」


 思わず 赤ん坊の声 で声を漏らしてしまう。


 自分でも驚くくらい 興奮していた。

 いや、これは興奮するだろ!?


 だって猫が飛ぶんだぞ!? 羽付きの猫が存在する世界 だぞ!?


 俺は この世界に転生したことを初めて心の底から感謝した。


 ――そう、あまりにも興奮しすぎてしまったせいで。


 じょわぁ……


 (あっ……)


 暖かい感触が広がる。


 そう、俺は 漏らしたのだ。


 興奮しすぎたのか、それとも赤ん坊の体の仕様なのか……いや、多分両方だろう。


 だが、俺にとっては とんでもなく屈辱的な出来事 だった。


 母親が俺を抱き上げた途端、顔を少ししかめて言った。


 「あら……もう、またお漏らししてるじゃないの」


 (う、うるせぇ……! 俺だって漏らしたくて漏らしたわけじゃねぇんだよ!!)


 しかし、赤ん坊の俺には反論の手段はない。


 母親は 優しく微笑みながら、俺の下に敷いてあった布をサッと取り替えた。


 まるで 息をするのと同じくらい手慣れた動き だった。


 (……くそっ、なんか虚しい……)


 飛ぶ猫に興奮したのに、最終的には お漏らしを処理される虚しさ。


 天国から地獄とはこのことだ。


 俺は、変えられた布の上でぼんやりと天井を見つめながら思った。


 (とりあえず……この世界、絶対に面白いわ。)

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