近付く時
それを目の当たりにするのは、胸が締め付けられるようだった。
ラオエンが亡くなってからというもの、ゼルスは覇気がなくなってしまったよう項垂れることが多くなっている。
「セイント様」
それにこの男、ツヴァイも、悩みの種だった。
「勉学のお時間ですよ。ケイロス様がお亡くなりになり、新しい講師にはまだ不慣れでしょうが、どうか受講をされてください」
「私が勉学から逃げているような言い方は止してくださいな、知らないことを知るのはとても楽しいのですから、言われずともキチンと受講いたしますよ」
糸目の男が、薄く開いた瞼の向こう側から真っ赤な瞳を覗かせた。かつて城に居た、城を追放された宰相と同じ色。
「それは失礼を。いつその知識を振るう時が来るか、解りませんからね」
「まるで、陛下の崩御を願っているような言葉ね、口を慎みなさい」
「滅相もない、そう聞こえてしまったのならば謝罪いたします」
深々と頭を下げる青年に、表情が歪みそうになったのを堪えて無理矢理に微笑み、踵を返した。
解っている。当然だ。
どれだけ、どんな行動を起こしても、純血という一点で自身を嫌う者は現れる。
「だけど、今度は負けるもんか」
「セイント」
頭に血が登り過ぎていたか、目の前にヘーゼが居たことに気が付かなかった。へらりと笑いかければ向こうも微笑んでくれて、一緒に受講室へと入る。
人間と単独で戦って以降、勉学の時間にはこうして、ヘーゼが傍に控えてくれていた。
「ジェネロシタ達はどう?」
「キミの愛し人に随分と鍛えられているようだ、ボクもそろそろ護衛長の座を譲らなければならないかもね」
「ヘーゼがそこまで言うなんて! たった数年の事なのに、元々素質があったのかもね」
講師の先生が入ってきたことで、会話はそこで終わってしまった。今日は、政治学だ。
「セイント様、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
自分とは違う、より原色に近い青色の瞳。最期の時まで自分の事を案じてくれていた、先生とよく似た色。
知らず表情を和らげて、美代は小さく頭を下げた。
魔族の領土での、特異能力一族の新たな族長や友好国の国王側近、外交官長との交流にも、ヘーゼは積極的に着いて来てくれるようになった。始めは目を丸くし、真剣な眼差しを向けていたブラックも、族長として交流を取り纏めてくれている。
そして、二人きりでの会話をすることが増えているようで、美代はなんとなく疎外感を感じていた。
「次ノ全員集マッテノ交流会ハ、次世代ガ産マレタ後ノ、オ披露目カナ」
背後からダークに話しかけられ、振り返った。ソファを詰めると隣に腰を下ろし、離れた場所で話し込んでいるブラックとヘーゼに小さく笑っている。
「ゼルス様ハ、ドウナノダ」
「……近く。王位継承の儀を行うって」
「ソウカ」
「正直に言うと、怖い。……確証はないけれど、あの宰相の子が、城に紛れている」
僅かに顰められた眉を見て、今度は美代が小さく笑った。残っている焼菓子を一つ口に放り、頬杖をついて遠くを見つめる。
「まぁ、大丈夫だよ。前みたいに大人数で責められるわけじゃないし、そいつも私と一対一の時に嫌味を言ってくる程度だから。昔に比べたら可愛いよ」
「ソウイウ問題デハ、ナイダロウ」
「そうだねぇ……。そいつが結構やり手で、私以外の前ではすごく好青年だっていうことと、おそらく父親だろう宰相に似て、国政に関する手腕が長けているということ。
その二つの点で、周りからの信頼があるのは厄介かなぁ。下手に無視できないから」
眉をハの字に寄せているダークに、困った様に笑いかけ、グリーンジルコンに置かれている左手に視線を落とした。
触れると体が跳ねあがって、思わず背が跳ねた。
「ごめんダーク、指先が腫れているようだったから、治療術を掛けてあげようかなって……」
「ス、マナイ。驚イテ、シマッタ」
隠すように指を握りこみ、弱々しく笑った。伏目がちになりながらも、右手で頭を撫でてくれる。
「どうしたのセイント」
「ヘーゼ! 話は終わったの?」
腰を折るようにして覗き込まれ、美代は顔を上げた。ダークも目礼すると立ち上がり、ブラックへと目を向ける。
「うん、待たせてごめんね。戻ろうか」
「ヘーゼ」
固い声音で呼ばれ、ヘーゼは姿勢を正して振り返った。ダークを傍に控えたブラックが、血の色の瞳をギラつかせながら、真っ直ぐに見ている。
「……無理をするなよ」
「ありがとう」
ふわりと微笑み返すのが珍しく、美代は目を瞬かせてしまい。
それでもヘーゼに手を引かれ、促されるよう帰国するのだった。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
一日のほとんどを、勉学が占めるようになってきた。
人間達との交流が始まってから取り入れられた外交のやり方や、戦術としての兵の使い方、他者の使役の仕方。
万が一の時に国を隠すための魔道具の作成や設置の方法など、国民を護るための勉学が中心だ。
ある程度の事は難なくこなし、知識として身に着けることが出来たと思う。
しかし苦手なものも当然あった。他人を駒として、使役することだ。
「セイント様、ケントニス様から伺っておりますよ」
真っ赤な目で射止められ、美代は微かに頬を痙攣させた。薄っすらと微笑んでいるツヴァイの姿勢は正しいけれど、どこか小馬鹿にしたような冷たさを纏わせている。
「そのようでは真の女王とは成れませんな。不安ならば、私にお任せくださってもよろしいのですよ」
「そのお言葉だけで、結構です」
「それはそれは、出過ぎた真似を致しまして。……陛下がお呼びです」
目礼し、さっさと横を通り過ぎようとした。
「私は父のような失敗は致しませんよ」
横切る間際に耳元で囁かれ、顔に嫌悪を張り付けて睨みつけた。
業務における導線も把握できている彼だ。今はこの廊下を、誰も通らないことを知っている。
「必ずや城を追われ失墜したマウ家の権威を、この手に取り戻して見せましょう」
「……貴方が貴方として優秀であるならば、自然と取り戻されるでしょう。元宰相、アストゥトのように私欲のままに振る舞おうというのならば、それを叶えさせるわけにはいきません」
「あらゆる面で信頼を受けている私を、お一人のお力で断罪できるというのならば」
他者には絶対に見せないであろう挑発的な笑みに、顔が熱くなるのを感じた。それでも深呼吸をすると数秒目を閉じ、柔らかく微笑みかけてやる。
「そうならぬことを、願いましょう。……それでは、失礼いたします」
ドレスの裾を緩く持ち上げ、足早にゼルスの寝室へと向かうのだった。
ベッドに横になり、静かに胸元を上下させているゼルスを見て目尻が下がりかけた。下唇を噛みしめて首を振り、脇に腰を下ろす。
「陛下、セイントが参りました」
「……きて、くれたか」
薄く目を開いて体を起こし、枝の様に細くなってしまった指先で頬に触れた。上から重ねるよう握りこめば、濃い空色の瞳にわずかばかり、光が宿る。
「政のほとんどを、お前に任せてしまって、すまない」
「陛下が不安に思われないよう、務めさせていただいています」
「私ももう、長くはないだろう。……一か月後に、王位継承を行おうと思う」
目を見開き、顔を深く伏せ、大きく息を吸い込むと迷いなくゼルスを見つめた。彼の表情は仄暗く、両手で頬を包み込んでやる。
驚いたように瞼が震え、くしゃりと顔を歪めると、心細い腕を背中に回して抱き締めた。
「愛しているよ、我が娘となってくれて、本当にありがとう」
「愛しています、陛下。……純血妖精族の、父の愚行を受けてなお、私の事を愛してくださり、ありがとうございました」
「何を言うか。お前のおかげで、私は救われたのだ」
額に口付けを落とされて、美代もお返しに頬へと口付けた。咳が出始めたゼルスの背を擦り、ゆっくりと横たえてやる。
「……名前を、呼んでくれないか」
目元が微かに、潤んでいるように見えた。覆いかぶさるように抱きしめて、白髪を梳くように指へと絡める。
「ゼルス」
「セイント、愛している、愛しているよ。……この言葉に、一切の偽りはない」
「えぇ、えぇ。解っていますよ」
「だから。……すまない」
目尻から一滴が零れ落ち、そのまま眠ってしまった。思わず呼吸があるかを確認してしまい、細く息を吐き出していく。
「ゼルス。今度は何を、謝るの?」
頬の筋を、布切れで触れながら拭い取ってやり、美代はもう一度だけ、頭を撫でるのだった。