閑話 ~清算を~
昔に比べて、魔力が流れ出ていく速度が確実に上がっている。
ディスティの薬草もほとんど効果が得られなくなり、ティータの若者を交えた修練を見学する時には、魔 弾 盾を仕込んだ魔道具を持っていなければ、身を守ることも出来ない始末だ。
教えられることは全て教えた、長としての心得も伝えきった。頼もしい従者たちもいる、自身の両翼もまだ残っている。一族に対しての不安は何もない。
とっくの昔に限界が来ていても可笑しくなかったこの体だ。患っている疾患を思えば、生き延びた方だろう。
別れも済ませた。欲を言うならばバーナーや黒疾にも礼を伝えたかった。
しかし彼は行方知らずのまま、ついに見つけられず。黒疾からは盗賊なんざに礼を言うなと、簡単に別れを告げられて終わってしまった。
族長の継承も無事に終えた。あとはこのまま眠りにつくだけだと、思っていたのに。
唐突に、ベッドの脇に人の気配が現れて、薄く目を開いた。
「……本当に、混血の私よりも早く、眠ってしまわれるのか」
「ゼルス……?」
震える、掠れた声だった。視線を向ければ、国王らしくもない軽装でいる彼が、深く俯いて佇んでいる。
「せいぜい五百年程度しか生きられない私よりも早く。逝って、しまわれるのか……!」
「……手を、貸してくれないか」
自力では起き上がることすら出来ない体に苦笑して、呼吸を荒げながらベッドヘッドに寄りかかった。ゼルスは蒼白した顔で片膝を着いて座り、両手できつく、自身の手を握りしめてくる。
耄碌した目でも、濃い空色の瞳が揺れているのが、鮮明に見えた。
「私が。あんな愚かな真似をしなければ、貴方は、もっと、生きられたのか……」
普段の威厳はどこへやら。迷い子のように顔を歪め、体を震わせる彼の言葉に眉を顰めた。
「体に、心に負担を掛けなければ。貴方はせめてあと百年は、若長と共に、生きられたのか」
「それは無理だ。私は生まれ持ったこの疾患のせいで、早死にする運命からは逃れられんよ」
「しかし……! 私はあの時に、貴方に断罪されなければならなかった! それなのに!」
「お前はずっと、気に病んでいたのか」
撫でるというよりも、ただ頭の上に落とすだけになってしまった手に、ゼルスが顔を上げた。
「昔。まだ私がお前を憎み、恨み、討とうとしていた頃。セイントから、言われた言葉だが」
「あの子から?」
「私はお前に、感謝をしているのだ」
見開かれた目に口元を緩め、頭を胸元に引き寄せた。彼は背を震わせ、何をされているのか解らないと如実に伝える表情で見上げてくる。
「魔族の歴史の中で、これ程までに人間と交流を持てたことは、なかった。それに、これからも、そうしてくれると言うのだ。
長く迫害を受け、討伐対象だと言われ、隠れて生きるしかなかった我らが。こうして世界の一員となれたのは、元を辿ればお前のおかげだ」
ゆるりと首を振るゼルスは、子供のようだった。
彼にこそ、足りないものがあるのだと、もっと早くに気付いてやればよかったのだ。
「お前も随分と苦しんだだろう。もう、楽になってもいいのではないか」
「っ私は」
「あの子らと関わる切っ掛けとなったのは、お前だ。もし最初に、お前が自身の命を諦めていれば、何もかもが違っていたのだぞ。
セイントが神の子として旅をすることも、かけがえのない仲間たちと出会うことも、魔族や妖精族が人間と関わりを持つことも。……私とお前が出会うことも、なかった」
ゼルスの黒髪もそのほとんどが白髪になってしまい、目尻や口元のシワも、随分と深くなっていた。
これまでに、たったの一度も、こうして触れ合うことがなかったのを後悔するには、遅すぎる。
「だから。混血妖精を守るために奮起してくれて、セイントを守るための行動を起こしてくれて。本当に、ありがとう」
下唇を噛みしめて、それでも漏れ出る嗚咽を押さえ付けるためか呼吸を止めていた。トントン、と背を叩いてやれば短く息を吐き出し、それでも、奥歯を食いしばっている。
声を上げて泣くことも出来ない環境で育ってきたのかと思えば、思わず眉を下げてしまった。
「最期に、看取りに来てくれたのがお前でよかった」
「ラオエン様」
「よせよせ、止めろ。我々は対等だ、あの子から愛されて、愛し、手段は違っても守ろうと躍起になってきた同志だ。……お前はゆっくり来いよ、私は先に逝き、フラグーンに説教でもしようか」
体を起こしているのも、辛くなってきた。蹲るように倒れてしまえばゼルスが体を跳ね上げて、支えてくれる。
「ゼルスはいい子だったぞと。混血などという、偏見の目で見ていたお前の方が、愚か者だったんだ、と」
目が霞み、ゼルスの表情が分からなかった。それでもこれだけは伝えてやらなければと、もう一度、背中に手を回す。
「愛していたぞ」
「……!」
「またどこかで、会えることを願おう。我が親友よ」
全身から力が抜けていき、手がパタリと落ちた。焦燥に満ちた声で名を呼ばれるも、指先一つ動かせない。
瞼を閉じれば、もう何も聞こえなくなった。
ブラックは部屋の外で、ゼルスが声を張り上げて泣くのを初めて聞いていた。壁に寄りかかったまま目を伏せて、他に聞かれてしまわないよう魔力の壁を張っていく。
これまでに一度も亀裂を見せず、堅牢に囲われていた彼の心が露わになったのは、ラオエンが眠りにつくと伝えたときだった。
(私のせいだ)
表情にはおくびにも出さないで、心の中は嵐のように荒れ狂っていたのだ。
(負担を掛けなければもっと生きられた? 私はまだ生きてしまっているのに、どうして貴方が先に? まだ罪滅ぼしを終えていないじゃないか、どうして……逝かないで)
彼はまだ、自分の罪を、許していなかった。
彼が、どれだけ誘っても自分たちの集まりから一歩離れていたのは、そういうことかと。
このまま別れさせてはダメだと、壊れてしまうと思って、その場で美代に声なく話しかけて。
一人で眠りたいと言ったラオエンの傍に、問答無用で飛ばしてもらったのだ。
「……ごめんなぁ、ゼルス。もっと早く、深くまで覗いてやればよかった」
まったく。隠したいことは幾重にも壁を作って閉じ込めて、何も見せてくれないところはよく似た親子だと苦笑して。
「さようなら、父さん」
ブラックは目を閉じると、声が聞こえなくなるまで、その場に留まり続けたのだった。