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8

 それから、模試に向けた勉強会が定期的に開かれることになった。幡屋高校の図書室には自習ができるスペースが確保されていて、啓太はてっきりそこへ行けばいいのだろうと思っていたのだが。


「まさか、ここへ来ることになるとはな……」


 怖気づいたように、その家の屋根部分を見上げる。大きな一戸建ての家屋。啓太が今まさに訪れようとしていたのは、何を隠そう、歌乃の住んでいる家だった。


「大丈夫。今日は両親とも、いないから」


「いや、そういう問題ではなく……」


 渋々といった様子で、啓太が家のなかに入る。どうして彼女の自宅にお邪魔することになったのかというと、単にこっちのほうが安全だからだった。歌乃は未だに異能を制御できていない。それはつまり、いつ、どんなタイミングで、彼女の変身が始まってしまうのか予測がつかないということだ。

 だから、誰にも見られることのない自宅で勉強したほうがいい――そういうことで、啓太は初めて同年代の女子の部屋に入ることになった。本当にひどい話だ。


「お手伝いさんとか、いないんですか」


「今はね。昔はいた。でも、私ももう子供じゃないから」


 昔はいたのか。家自体もかなり広いし、やはり相当裕福な家庭なのだろう。

 そこ座って、と言われたので大人しく従う。歌乃は制服のブレザーを脱いでハンガーに掛けていた。


「一人でいたって、寂しくないもの」


「……」


 クッションのうえに正座した啓太からは、歌乃の姿はちぐはぐに見えた。寂しくないなんて言っておきながら、どこか儚げな顔をしている。彼女の家は、遠く離れた公園で遊んでいる子供たちの声が聞こえてくるのではないかと思うほど、硬い静寂に満ちていた。

 歌乃の部屋はシンプルだった。何というか、白い。壁も白いし、床も白い。綺麗に整頓されている。日常的に使われない不要なものはきちんと収納されているから、余計なものは一つも目に入らなかった。珍しかったのは、隅にピアノが置いてあることくらいか。それ以外は、とても女子高生の部屋とは思えない。あまりにもスマートにまとまりすぎていて、逆に息苦しいくらいだ。


「そこ、違う。こっちの公式」


「あ、そうか」


 そんな落ち着かない空間のなか、啓太は必死に勉学に励んでいた。まずは一番の苦手科目である数学から。教科書と問題集、さらにノートを広げて、先ほどから歌乃に教えを乞うている。

 反対に歌乃はというと、勉強を始めてからほとんど問題を解いていないようだった。これまた白いローテーブルのうえに諸々の教材を並べてはいるのだが、手をつけようとする気配がまるでない。ずっと啓太のほうを見て、啓太が行き詰まると助言をしている。

 何か集中できないわけでもあるのだろうか。これでは専属の家庭教師のようだ、と口には出さないながらも思っていると、不意に歌乃が話しかけてきた。


「啓太って、文系?」


「……」


 何だそんなことか、と思いつつ啓太は頷く。


「はい」


「そう。私も文系だけど、数Ⅰくらいなら教えられるから、聞いてね」


「ありがとうございます」


「うん」


「……?」


 今の会話は何だったのだろう。変な会話だった。だって、啓太はもう歌乃に色々なことを質問している。そのすべてが数学に関することだ。だというのに、彼女はなぜ今更になってそんな許可を出してきたのか。強引だったというか、噛み合わない。

 つまり彼女は、無理やりにでも会話をしようとしている――?


「……はあ」


 啓太がそう考えていると、その答え合わせをするかのように、歌乃がさりげなく溜め息をついた。


「先輩?」


「ごめんなさい。私、大人げなかった。年上なのに」


「え――」


 突然謝られたものだから、啓太はどう応じればいいのかわからない。ただ瞬きを繰り返すだけの機械と化している。そもそも彼女は何に対して謝罪をしているのか。歌乃の表情は真剣だった。こちらが気圧されてしまうくらいに。


「どうしたんですか、先輩」


「あなたが中途半端って、私が変な異能を抱え込んでいるせいでそうなっているのにね」


「……!」


「啓太の言う通りだと思ったの。本当にごめんなさい、勝手なことばかり言って」


 ようやく合点がいった。歌乃はずっと、あのときの言い争いを気にしていたのだ。啓太に対して中途半端だと言ってしまったことを後悔しているのだろう。だから彼女は啓太に謝ろうとしていた。勉強に集中できていないように見えたのは、ずっとその機会をうかがっていたからだったのだ。


「いや……」


 こうまで真摯に彼女から謝られては、自分の立つ瀬がない。啓太は握っていたシャープペンシルを置いて、歌乃と目を合わせた。


「俺にそういうところがあるのは、事実ですから。俺は優しくも、冷たくも、なりきれないんです。いつも中途半端で、誰かの心に土足で踏み込むようなことは、できない。いや、それどころか、綺麗な足でだって、他人の心には深く入り込みたくない」


 あのときの言い合いは、今でもはっきりと思い出せるくらいに覚えている。鮮明に。あなたと関わり合いたいわけじゃない。そう言ったときの歌乃の深く傷ついた表情が、脳裏に焼き付いて離れない。だから。


「俺こそ、さすがに言い過ぎました。すみません」


「……うん」


 歌乃が目線を下げて頷き返す。少し、気まずそうに。これで一応、仲違いの状態は終わったと言えるだろう。まあ和解したとはいっても、重苦しい雰囲気が漂い続けていることに変わりはなかったが。

 と、それを払拭したいという気持ちもあったのだろう。歌乃は、ある提案をした。


「……ねえ、啓太」


「はい?」


 顔を上げれば、優しい笑み。こんなに穏やかな表情もできたのかと、意外に思う。


「聞かせてくれない? あなたの異能――ううん、異能の原因となった、過去のこと」



 あのときも、同じような秋だった。卒業前最後の学校行事となる、合唱コンクールが迫っていたころ。


 啓太の通っていた公立の中学校は、二年から三年に進級する際にクラス替えがない学校だった。だから、去年とクラスの面子は同じということになる。自然、啓太のクラスは一致団結した。昨年の合唱コンクールで最優秀賞を取ることが出来なかったからだ。


 つまりは、前回のリベンジ。中学最後の一大イベントに後悔を残さないため、全員が力を尽くした。今年こそ必ず最優秀賞を取ってリベンジを果たすのだと、熱気は高まるばかりだった。


「……?」


 啓太が足を止めたのは、音楽室の前だった。ピアノの音が聞こえたのだ。扉を開けて中へ入ると、そこには見知った女子生徒がいた。


「あれ、矢船くんじゃん。どしたの」


 彼女はクラスメイトの××だった。××は陽気な性格をしていて、嫌味のない美人だったこともあり、クラスの中心的な存在だった。それもあって啓太は少し苦手意識を抱いていた。如何せん、漂わせている雰囲気が明るすぎるというか、何となくギャルっぽさが感じられる。


「いや、ピアノの音が聞こえたから。××、ピアノ弾けたんだ」


「そうだよ、これでも一応習ってるの。意外でしょ。まあ私、才能ないから下手なんだけど」


「そうか? うまかったけど」


「……え、それ本当?」


 本当、と頷く。××は驚いたように目を丸くしたあと、ピアノの前の椅子に座り直した。両手が鍵盤の上に置かれる。


「じ、じゃあもう一回弾く。ちゃんと聴けば、わかるかもだし」


 ××が演奏する。聞いたことのある曲だ。穏やかで、落ち着いていて。目をつぶって聴いていると物悲しい気分になって、どうしてか切なくなる。


「うん、やっぱりうまい。すごいよ」


 しっかりと演奏を聴き終わっても、啓太の感想が変わることはなかった。


「……ほ、本当に? お世辞とか、いらないからね」


 ××は立ち上がって、こちらへ距離を詰めてくる。


「本当だって。俺、何も楽器できないから。すごいよ。めちゃくちゃ上手だった」


「そ、そっか。……ピアノ、まともに褒められたの初めてだ」


「え?」


「ううん、何でもない。すごい嬉しい。ありがとう」


 余程褒められたことが嬉しかったらしい。××は顔を上気させて喜んでいた。

 それを見て、啓太も口角を引き上げる。苦手だと思っていたが、話してみると普通のいい人だった。これまで遠い存在だった××と対等に話すことができて、啓太も嬉しかったのだ。

 だから彼は、深く考えもせずに、そんな提案をしてしまった。


「そういえば、合唱コンクールの伴奏者ってまだ決まってなかったっけ。××も、立候補すればいいのに。せっかくピアノが弾けるのに、もったいない」


「え……いや、私なんかがやったら絶対だめでしょ。下手だし、みんなの足引っ張るって」


「そうかな。聴いた感じ、いけそうだったけど」


「あれはまぐれで……でも、パートリーダーが言うなら、そうなのかな」


 啓太は男声パートの副パートリーダーだった。中学三年の矢船啓太は、誰も立候補しなかったその座に、誰もやらないならと仕方なく手を挙げた。クラスを引っ張っていたパートリーダーが××と同じく中心的すぎたため、みなが敬遠したのだ。

 そうして啓太は首を突っ込んで。そうする必要のないところへ、突っ込んで。


「私、ダメもとでやってみようかな」


 引き出されたその一言をきっかけに、伴奏者は××に選ばれた。決め手は、副パートリーダーである啓太が推薦したからだった。最優秀賞獲得に向けて、熱が高まっていく。

 それから啓太は××とよく話すようになった。多分、彼は××のことが好きだったのだろう。抱いていたはずの苦手意識も、本番を迎えるころにはすっかり消えていた。彼女のピアノを褒める啓太、それに喜ぶ××。二人だけの放課後は、一瞬で過ぎていった。


「はい、水」


「……ありがと、啓太」


 本番前、××は会場の外で休んでいた。体調が悪いらしく、壁にもたれかかってぐったりしている。


「ああ、やばい。緊張する」


「大丈夫だって。××なら、できる。練習のときだって、ほとんどノーミスだったじゃん」


「それはそうだけど……私、めちゃくちゃ本番に弱いの」


 ああ、お腹痛い。××は呻くように言いながら、啓太が手渡したペットボトルの水を飲んだ。ごく、ごく、と透明な液体が次々と彼女の胃の奥へ流し込まれていく。いい飲みっぷりだ。

 と、そこで後ろからクラスメイトに呼びかけられた。もうステージへ向かう時間だ。


「行こう、××」


「……うん。ああ、もう、早く終わって」


 ××が髪を結んでポニーテールにする。そのときに生じた揺れで、彼女の膝のうえに横たわっていたペットボトルが落ちた。コロン、と軽やかな音を立てて、転がっていく。


「あー、待って待って。啓太、これありがとね。お金はあとで払うから」


「いや、いいよ。それより、頑張ろう」


「……うん」


 ステージへ歩く。合唱コンクールは近隣のホールを借りて行われる。つまり、場慣れしている学校の体育館などとはわけが違う。見える景色も、漂う独特な香りも、肌で感じ取れる質感も、何もかもが今まで練習してきた場所とは異なっていた。


 静寂。三十人ほどが三列に分かれて整列したあと、前に一人の男子生徒が出やる。指揮者だ。彼が右手を高く持ち上げる。目線が動く。ピアノの前に腰掛けた××とアイコンタクトを取っている。啓太から見てピアノは真横に位置しているから、たとえ首を動かしたとしても、××の姿は視認することができなかった。


 その奥にいるはずの彼女を意識して、意識して、指揮者の手を見つめて、一音目。

 呼吸。


「――」


 歌う。練習の成果を、すべて出し切る。今年こそ。そう誓って、ここまでクラス一丸となって頑張ってきた。いつもより早く学校へ来て、朝練をしたりもした。絶対に、リベンジを。

 これが終わったら、あとは受験をして、もう卒業だ。つまり、実質最後。ピアノの伴奏が流れる。××だ。大丈夫。きちんと弾けている。ミスもない。このまま、このままいけば。


「――」


 指揮者が一瞬だけ溜めを作る。その直後、大きく腕を振り上げる。そこから、水を割るように、振り下ろす。最も盛り上がる箇所。変則的なリズム。曲中、最大の見せ場。


「――?」


 その瞬間、音が崩れたのがわかった。啓太の視線が揺れる。だが、違う。歌ではない。誰かが音程を外したわけではない。これは、伴奏だ。ピアノの音が狂った。ずれる。音が、テンポが、ばらばらになっていく。指揮者の手がぶれる。彼の動きから規則性が消失する。

 そのとき、啓太は理解した。××が、ミスをしたのだと。それも、一番ミスをしてはいけなかったところで。盛り上がったはずの音楽が、魅力的だったはずのリズムが、見せ場だったはずの箇所が、崩れて、崩れて、ぼろぼろに、ぼろぼろに、取り返しがつかなくなって、そして、


「……ぁ」


 音が、消えた。

 止まったのだ、演奏が。

 曲が、中断された。


「――」


 啓太の背中を、冷や汗が流れていく。

 その後、曲は何事もなかったかのように再開された。そしてようやく、啓太のクラスは長い出番を終えた。


「――××」


 啓太が急いで舞台裏に戻ったときには、××の姿は消えていた。最悪だ。最悪な状況だ。

 すると、遠くに××の背中を発見した。啓太は追おうとしたが、彼女は逃げ出してしまう。


「××!」


 外へ出る。本番前、二人が待機していたところを通り過ぎる。走る。彼女に何か言わなければ。早く追い付いて、声をかけなければ。走って、走って、早く。

 だが、現実はそう甘くない。


「――ッ!」


 啓太の視界が揺らいで、あとから襲ってきたのは激しい痛みだった。わき目もふらずに走っていたせいで、足元にあった段差が見えていなかったのだろう。啓太はそれに躓いて、前のめりに倒れたのだ。そして、膝を硬いコンクリートにぶつけた。


「いった……!」


 これでは痛くて歩けない。壁に手をつきながら何とか立ち上がったが、そのころにはもう、××はどこにもいなくなっていた。完全に見失ったのだろう。

 このとき、二人で話せていれば、何か変わっていたのかもしれない。

 結果発表のあとの空気は地獄のようだった。曲が中断するというあってはならないミスを犯したのだ、最優秀賞なんて取れるわけがない。残酷な結果を突き付けられたあとにクラスで集まっても、誰一人声を上げようとはしなかった。


「……」


 空気が重い。そのなかには、××の姿もあった。クラスの全員が彼女をちらりと見ては、すぐに目を逸らしている。あれは確かに××のミスから生じた失敗だった。だから、全員が××を責めるような空気を作り出していた。

 ミスなんて誰にでもある。だから責めてはいけない、そう思っていても、「あれは誰がどう見ても××のミスだった」という真実が、その配慮をかき消してしまう。


「私の、せいだよね」


 ××も限界だった。自責の念、クラス中から向けられる「察しろ」という隠された悪意の目。

 彼女はそれに、耐えられなかった。


「私の、せいで」


 自分で罪を認めている者に石を投げるほど、クラスメイトの性根は腐っていなかった。

 だから、全員が無言で命令する。「謝れ」「謝って、申し訳なさそうにしていれば、丸く収まるから」、と。


「ごめんなさい。ごめんなさい。みんな頑張ってたのに。ごめん、なさい」


「……」


「私が、みんなの努力を無駄にした。やっぱり私なんかが伴奏者をやっちゃいけなかった。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」


 啓太は、いや啓太も、それに耐えられなかった。自分の好きな女子が、ああまでして頭を下げている。顔を絶望に染めて、責任感と罪悪感で押し潰されそうになっている想い人の姿など。

 そのことに、その哀れな姿に、耐えられなかったのだ。

 だからその瞬間、啓太は踏み込んだ。


「俺の、せいだ」


「……!」


 クラスメイトの目線が集中する。


「俺、本番前に、冷たい飲み物を渡したんだ。××、ずっとお腹が痛いって言ってたのに。だからきっと、それで悪化して」


 汗が止まらない。笑顔を作る。嘘の笑顔を。××にそんな顔をしてほしくなかった。彼女は明るくて、朗らかで、笑顔が可愛らしい人のはずだった。それが今や、正反対だ。

 これ以上、見ていられない。だから啓太は踏み込んで、彼女を庇って、そして、


「……××を推薦したのも、啓太だったよな」


 誰かが、呟いた。

 その瞬間、矛先が、いや、生贄が、啓太に挿げ変わるのが感覚で理解できた。


 このなかで××や啓太が悪いと本気で思っている人間は、きっと誰一人いない。だって、人間なら間違えることもある。緊張だってする。今回のことは事故だ。仕方がないことなのだ。みな、それを理解していたはずだった。


 でも、誰か一人を生贄にして吊るさなければ、この悔しさを燃やして灰にすることはできなかった。誰かを犠牲にして、この沈んだ空気を払拭するしかなかったのだ。やり切れない思いを、エネルギーを、新たな標的へと向け直す。

 そして、××が放った言葉で、それは確かなものへと変わる。


「私、あれを飲んでから、もっとお腹が痛くなった」


 彼女の顔は、ぐしゃぐしゃだった。ごめんなさい、あなたを悪者にして、ごめんなさい。そう、必死そうな顔と、虚ろな目が言っていた。でも、私が救われるために、あなたはそのままでいてとも、言っていた。


「啓太……ごめんね。私……ごめん。ああ、あ……ごめん、なさい」


 両方だ、啓太は思った。

 ミスをしたこと、啓太を生贄にしたこと、彼女はどちらにも謝っている。それを悔いるとともに、心のどこかで安堵もしている。これで自分が殺されることは、なくなったと。

 啓太が悪いんだよと、啓太が悪いってことにする流れだよと、言い聞かせるように、見る。


「ああ」


 啓太は諦めたように、呟いた。


「俺が、全部悪い」


 それから、啓太はクラス内で孤立するようになった。ミスをした女子を伴奏者に推薦し、冷たい飲み物を渡し、最後の合唱コンクールをめちゃくちゃにした男として。


 誰も啓太が悪いと思っていなかった。むしろ、自分たちが啓太を無視していることが「悪いこと」だと、きっと全員が理解していた。彼らの性根は悪くなかったし、明るく、快活で、気のいい人間が多かったから。


 ただ、そのときからは、クラス内で啓太と接することはタブーとされた。誰かが決めたわけでもない。ただ、そういう空気のような決まり事が、できてしまった。


 心地よかったのだ。その決まった流れに身を任せている感覚は、無思考から来るはずだった焦燥や罪の意識を忘れさせてくれる。だって、悪いことは蜜だから。みんなその蜜を舐めながら、ひとりになった啓太を見て見ぬふりする。


 悪質な嫌がらせも、いじめもなかった。「孤立して責任を取ってくれさえすれば、それでいい」。皆が、自分でも気づかない心の裏側で、そう思っていた。そしてそれは啓太も同じだった。自分が静かにしていれば、クラスを荒立てることはない。死人に口なし。罪人は処され、閉鎖的な狭苦しい空間の中には平和が取り戻された。でも、きっと、一人は辛かった。


「風邪ヲ 予防シマショウ」


 そのころから、受験期だったこともあって、マスクをつけ始める同級生が増えた。それに従って、啓太もマスクをつけた。そうすると不思議と心が軽くなって、「他人に踏み込まない」という感覚が肌で理解できた。その確かな境界線がある気楽さから半永久的に外せなくなることも知らずに、啓太は真っ白なマスクに身を委ねた。


 知り合いが多い高校には行きたくなかったため、父親の転勤に合わせて遠い高校へ通うことにした。そして、啓太は成田市へ引っ越してくることになる。


 それから少し経ったある日、唐突に異能が発現した。きっと、「本当の自分」を押さえつけ続けているこの現状に、自分の知らないところで限界が来たのだろう。水位を上げたダムが、崩壊したのだ。マスクなど関係なしに、大音量の声を出すことができるようになった。


 矢船啓太は、望まれるままに声を上げなくなって、そして今、誰よりも大きな声を上げることができるようになった。あまりにも、あまりにも、皮肉な話だ。

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