5
翌日、昼休み中。啓太は青と弁当を食べていると、クラスメイトに呼び出された。誰かが啓太に会いに来ているらしい。青に一声掛けて席を離れる。一体誰が、と疑問に思う暇もなく、教室の入口に立っていた女子生徒と目が合った。
「啓太」
「……何の用ですか」
予想通りというか、嫌な予感が当たったというか。彼に会いに来ていたのは歌乃だった。彼女がわざわざ一年の廊下に上がってくるのは、これで二日連続だ。
「今日の放課後、空いてる?」
「……」
眉を寄せる。さっきまで食事をしていたからといって油断はしない。席を外す際、きちんとマスクを装備している。
「いや、空いてはないです」
「何かあるの?」
「いや、特には」
「じゃあ空いてるんじゃない」
「いや、空いてはないんです」
「どういうこと?」
啓太は億劫そうに答える。
「特に用があるわけではないけど、自分以外の誰かの用事に付き合う心の余裕はないってことです。だから、空いてはないです」
「そうなんだ。じゃあ放課後、校門前で待ち合わせね」
おい。前後の文が支離滅裂だろう。昨日もこんなやり取りをしたぞ。啓太の眉がひくつく。
「話、聞いてましたか?」
「ええ。啓太の心に余裕がないって」
「都合のいいところだけを切り取らないでください」
まるでマスコミだ。何ともたちが悪い。しかし歌乃は反省の意を示すどころか、不機嫌そうに腕を組んで、さも啓太が悪いかのように言ってのける。
「だって啓太、私が強引に話を進めないと永遠に付き合ってくれないんだもの」
「いや、大袈裟」
廊下を通りかかった隣のクラスの生徒が、凄い目でこちらを見ている。あの暮坂歌乃がどこの馬の骨とも知れない男と何て会話を、とか何とか邪推しているのだろう。いい迷惑だ。
「誤解を招くような言い方はやめてもらってもいいですか」
「招かれたら困るの?」
「ええ、とっても」
「じゃあ私がこれ以上あることないこと言い出す前に、早く認めなさい」
「……」
本当に面倒くさい。もう関わらないでほしい。啓太はその本音をごくりと飲み込んで、真実を吐くしかない。
「……放課後は特に用事がないので、空いています」
「うん」
歌乃が満足そうに頷く。
「それじゃあ、またあとで」
「ち、ちょっと待ってください」
歌乃があまりにも呆気なく、言ってすぐに去ろうとしたので、啓太が慌てて引き止めた。
しかし当の本人は不思議そうな顔で振り返る。
「何?」
「いや、それだけですか? 何をするのかとか、そういうのは」
待ち合わせ場所と時間を伝えただけで用件は言わないなんて、雑すぎるだろう。歌乃は啓太のことを暇つぶしに丁度いい遊び相手としか思っていないのか。いや、むしろその通りか。
そもそも歌乃はどうしてここまで啓太に執着するのか。変身の異能が制御できていないからって、さっさと家に帰ればいいだけだろう。昨日のように寄り道なんてすることなく真っ直ぐ帰れば、道中で変身が起こるリスクだって低くなる。
だというのに、彼女はなぜそうしない――そんな啓太の弱々しい反論も、どうせ歌乃という強敵の前では木端微塵になって終わりである。だから言わない。余計な争いは時間の無駄だ。
「場所と時間だけ伝えられても困るんですけど。俺は先輩の奴隷じゃないので」
「何をするのか、気になるの?」
「それは、気になりますよ」
「うーん……色々」
「色々?」
「そ。今日は家に帰りたくないの。だから色々する」
「だから何でそう誤解を招くような言い方をするかな……」
歌乃が変な言い方をするせいで、また別の生徒に怪訝な目を向けられた。もうやめてほしい。
彼女がなぜ啓太に付きまとうのかは知る由もないが、向こうがその気なら、こちらも手練手管の限りを尽くして接触する機会を減らすのみである。
「啓太?」
「何でもありません。でも、できるだけ早めに切り上げてくださいよ。放課後には何もないけど、夜には青とゲームするって約束してるので」
「……そう。わかった」
ようやく歌乃が自分の教室へ戻っていく。去り際の表情が少し寂しそうなものに見えたが、多分気のせいだろう。遠ざかっていく背中を見送ったあと、啓太もクラスへ戻る。
「歌乃センパイ?」
卵焼きを頬張っていた青が目線を上げる。啓太はそれに「ああ」と答えてから、
「青、今夜ゲームしよう」
「……? いいけど」
可愛らしく箸をくわえたまま、青は小首を傾げた。
*
放課後、意外にも啓太はすぐに校門へと向かった。だがそれは、歌乃に唯々諾々と従うことをついに認めたというわけではない。少しでも早く、彼女より早く学校を出ることができれば、そのまま約束を忘れたふりをして帰ってしまえるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていたのだ。
だが、啓太が小走りで校門に到着したとき、彼の視界は絶望で覆われた。
「……遅い」
不快感の塊だ。啓太はそう直感した。既に魔の手は迫っていた。啓太よりも早く校門についていた歌乃が、やけにご立腹な様子でこちらを睨み付けている。
「別に待ち合わせ時間とか決めてないでしょ」
「そうだけど、遅かった」
はあ。啓太の憂鬱な溜め息がマスクの隙間から流れていく。歌乃と放課後を過ごすなんて、ただでさえ荷が重いのだ。これで遅刻による説教まで加わったら、啓太の身に降りかかる心労が尋常でない量になってしまう。
だが、どうやらそれは杞憂だったらしい。歌乃は右手を伸ばすと、走ってきたせいで乱れていた啓太の鞄の紐を肩の上に置き直してくれた。
「……どうも」
「うん」
歌乃と目が合う。その顔からは既に不機嫌さが消えていた。
「じゃあ、行きましょうか」
「だから、行くってどこに」
「本命のところはまだ開いてないから、とりあえず時間潰しね」
「人と会話をしている気がしない……」
歌乃が向かったのは、幡屋高校から少し歩いたところにある大型ショッピングモールだった。時間潰しのつもりらしいが、啓太にはどうでもいいことだ。歌乃が本屋に入ったので、あとに続く。
「本が欲しかったの。今読んでいるのがもう終わりそうだから」
「先輩、本読むんですね」
「ええ。啓太は読まないの?」
「あまり」
読書すること自体はそこまで好まないが、本屋の雰囲気は好きだ。落ち着いていて、どことなく紙の匂いがする。同じ理屈で図書館なんかも好きだった。声の大きい人間が強いこの世の中で、静かにしていることが美徳とされる。あのような空間がもっと多ければ、啓太のような人間はきっと生きやすいだろう。
「これ、面白そう」
歌乃が棚から一冊の文庫本を取って、裏表紙に書かれていたあらすじに目を通している。
海色と空色。綺麗な装丁だ。上空では太陽が照りつけていて、砂浜のうえに二人の男女が立っていた。
「どういう話ですか?」
「ボーイミーツガールね。二人の男女が出会って、駆け落ちをするみたい。色々な困難に直面しながらも、二人で幸せになるために海を目指すんだって」
「はあ」
駆け落ち。自分には到底縁のない話だ。啓太は興味なさげに息を吐く。
「先輩ってそういう典型的なやつが好きなんですか。もっとこう、エグめなものを好むのかと」
「私のことを何だと思ってるの? 好きっていうか、救われる気持ちがするのよ。こういう、夢物語みたいなお話を読んでいると」
「まあ、確かに夢物語ではありますよね。俺だったら、駆け落ちなんて絶対にしないし」
「そうなの?」
む、と啓太の頭の中で引っかかる。少し喋りすぎたか。歌乃の興味を引いてしまったらしいので、今の返しは失敗だ。とはいえ自ら口にしたのだし、すべて吐き出してしまうことにする。
「駆け落ちって、基本的には悪いことじゃないですか。でも、悪いことは蜜だから。一度それに手を出してしまったら、もう戻って来られなくなるんですよ。その快楽に取りつかれて、どんどん駄目になっていく」
ちら、と文庫本を見やる。表紙に描かれた海に本屋の照明が当たって、白く光っている。それが眩しくて、啓太は目を逸らす。
「駆け落ちなんてする男女は、絶対に幸せにはなれませんよ。そんな相手の心の奥深くにずかずかと入り込んでいくようなやり方、俺は好きじゃない」
「……ふうん」
歌乃がもう一度、本の表紙を見つめる。宝石のような黒の瞳に海が映る。
「私は、結構好きだけどな。駆け落ち」
「意外です」
「そう? いいじゃない、ロマンチックで」
「案外、少女趣味なところがあるんですね」
「……啓太、すっごいひねくれてる」
「悪いですか」
「ううん、別に。私も人のこと言えないし」
歌乃が意味ありげな面持ちで本の表紙をなぞっている。随分とその一冊が気に入ったらしい。
彼女が会計をしている間に店を出ようと、啓太は先に歩き出した。
「海か。もうしばらく行ってないかも。ねえ、啓太」
「先輩?」
歌乃が付いてきていないことに気が付いて、振り返る。
「それ、買うんでしょ。早く行きましょう」
「……! ええ」
歌乃が微妙な表情で頷く。不思議な顔だ。笑っているけど、何かを隠しているような感じがする。まるで自分に呆れて、嘲笑している――自分の考えたことが思っていた以上におかしくて、驚いているような。
「お待たせ」
歌乃の手には本の入った袋があった。彼女はそれをリュックの中に入れると、左手首に巻き付けた腕時計で時刻を確認する。
「ちょっと早いけど、まあいいわ。次に行くわよ」
「次?」
「そう。本命のところ」
啓太たちはまた少し歩いて、大通りから外れた静かな路地に移動した。静かとはいっても近くに線路が走っているため、定期的に電車が通過する音が聞こえてくる。その何とも言えない効果音をBGMに、二人は黙って足を動かしていた。
「……」
啓太は歌乃の半歩後ろを歩いている。
「あの、そろそろどこへ行くのか教えてもらえませんか」
「……」
歌乃は真っ直ぐ前を向いたままだ。
「いいから、黙ってついてきて」
「なんなんだ……」
突き当たりを右に曲がって、さらに奥へ。雰囲気的には路地というより住宅街に近い。しかし、こんな辺鄙な場所に何の用があるというのか。歌乃は家に帰りたくないと言っていたが、それも彼女の異能と関係があるのだろうか。
いや、仮にそうだったとしても、自分には関係がないだろう。啓太はそう思い直して、思考することを拒んだ。今はとにかく歌乃の拘束から逃れることだけを考えなければ。
「着いた。ここ」
不揃いな脳内言語を紡いでいる間に、目的地に到着したらしい。歌乃が振り返って、奥にある看板を指差す。そのとき、啓太の背中を冷たい汗が流れていった。
「いや先輩、ここって」
「バーよ。見てわからない?」
「わかりますよ」
わかるから言っているんだ。啓太はそう口調が荒ぶりかけるのを抑えて、もう一度その建物を見上げる。
路地の一角に建っているこぢんまりとした店。外観こそ控えめだが、店の所々を彩る装飾がいかにもな空気を漂わせている。ここは間違いなく、バーと呼ばれる類の場所だった。
「調べたら、五時からやっているのは近くでここだけだったの。まあお試しだし、ちょうどいいかなって」
「ちょうどいいって……また酒を飲む気ですか」
「うん。せっかく大人の姿になれるんだし、体験しておきたいじゃない」
何を言っているんだこの人は――そう呆れた言葉すら出てこない。この間あんな目にあったというのに、まだ懲りていなかったらしい。前回は居酒屋で、今回は洒落たバー。飽き足らず、また酒を飲む気なのだ。
「……俺は帰りますよ。未成年だし、リスクは負いたくない」
「それはだめ。お酒で酔ったら、また変身が解けちゃうかもしれないじゃない」
「だから俺に、今回も尻拭いをしろって? 冗談じゃない」
「あなたしか頼れる人がいないの」
「酒を飲まなきゃいいだけでしょう。そもそも、早く家に帰ればいい」
もう付き合っていられない。啓太は即座に踵を返して、その場から立ち去ろうとする。
だが、歌乃が後ろから啓太の制服の袖を掴む。
「お願い。家には帰りたくないの。夜に出歩いていると補導される可能性もある。だから私が変身して、大人の男の姿になっていたほうが都合がいい。……でも一人だと、また力が制御できなくなったときにカバーが効かない。だから、お願い」
あなたしか、いない。歌乃は最後に、消え入るような声でそう言った。
「……」
啓太はそれを、苦しそうな顔をした彼女を、見下ろす。歌乃は昨日、言っていた。突如として目覚めた自身の力に不安を抱いていたと。だから啓太と出会えて、正直なところ安心していたと。昨日の話や今の表情を見る限り、実際その通りなのだろう。
『……そうね。強がる必要なんて、ない』
『それなら、成功かな』
つまり歌乃は強がっていた。異能を発現しても、他人に悟らせることなく、強い暮坂歌乃で在り続けた。それは、とても大変なことだったろう。
「……どうして、家に帰りたくないんですか」
「……言いたくない」
首を振る歌乃。まるで今にも食われそうになっている野兎のような弱々しさだ。いつもは女帝のような振る舞いをしているだけあって、珍しいことこの上ない。
歌乃の懇願するような素振りを見て、啓太はついに抵抗する気が削がれてしまった。相も変わらず意志が弱い。自分で自分が嫌になる。
「今回だけですよ」
「啓太……ありがとう」
「勘違いしないでください。酒は禁止ですから」
「それは嫌」
「飲んだら津田先生に言いつけますよ」
「黙っていろ、啓太」
「うわ、なんか成りきってるんだけどこの人、怖い」
店に入ろうとしたときには、歌乃は既に男の姿に変身していた。何だか久しぶりに見た気がする。白髪に彫りの深い顔。何となく歌乃の面影があるような気がしなくもない……いや、ないか。本当に誰をイメージして変身体を作り上げているのだろう。それもまた、歌乃の無意識だけが知っていることなのだ。
「いらっしゃいませ」
トレンチコートを着た男のあとに続いて、啓太も店内へ入る。外から見えていた以上にちゃんとしたバーだ。カウンターの奥には何やらよくわからないボトルがずらりと並んでいる。
内装は思ったより広く、啓太と歌乃は隅のボックス席に案内された。テーブルの向こうに見知らぬおじさんがいるという違和感から意識を逸らしながら、啓太は適当にジュースを注文する。
「これじゃあまるで父と子だな……」
しかも店の雰囲気的には訳あり親子だろう。店員もそれを見越して、人目につきづらい奥のボックス席に案内したのかもしれない。どちらにせよ人の視線が集まらないという点ではありがたい。
「最近どうだ、啓太」
「乗ってこないでくださいよ……」
歌乃――もといダンディな雰囲気を醸した中年男性が、真剣な表情で語り掛ける。完全に啓太の父親に成りきっているらしい。確かに、雰囲気やオーラどころか外見や声まで合わせることができるなんて、たいした役者だ。異能を使っている時点でズルなのだが。
「彼女はいるのか?」
「いません」
「好きな女の子とか、できたか?」
「できてません」
「どんな女の子が、タイプなんだ?」
「楽しいですか?」
「楽しい」
にへら、と歌乃が笑う。男の姿のまま急に中身を出してくるものだから、見ているこちらとしては違和感の塊だ。無駄に重厚な心地いい低音が、鼓膜にまとわりついたようだった。