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津田に別れを告げて職員室を出る。そこまで時間はかからなかったから、外はまだまだ明るい。と、いち早く口火を切ったのは、意外にも歌乃だった。
「津田先生、前にいた高校で何かあったの?」
「え?」
「様子が変だったじゃない」
「ああ」
歌乃も同じことを感じ取っていたらしい。まあ、確かにあれは、ただ自身の過去を述べるにしては感情がこもり過ぎていた。彼女がそう勘繰るのも当然だろう。
だが、それに対して啓太たちが満足いく回答をしてやれる、というわけでもなかった。
「俺たちも、先生のことはよく知らないんですよねー」
青が両腕を上げて、伸びをしながら言う。三人は啓太を真ん中に、並んで廊下を歩いていた。
「そうなの? てっきり、二人には打ち明けているのかと」
「啓太も知らないよね?」
「知らない。まあ、そこまで深い付き合いをしているわけでもないので」
目線を左右に移動させながら、啓太が答える。すると歌乃はふうん、と淡泊に返した。
津田について、詳しいことを把握しているわけではない。啓太だって、彼女と出会ってから一年も経過していない身だ。
二人が初めて会ったときには、既に津田は異能の存在を知り得ていた。それから津田が、啓太や青が『持っている』ことを知って、今のように落ち着いたというだけだ。要は、医者と患者みたいなものだろう。津田は啓太が抱えている症例と似たものを目にしたことがあったから、こうして情報共有をしているだけに過ぎない。悩みを何でも打ち明けられるとか、気兼ねなく話せるとか、そういう関係ではないのだ。
「じゃ、俺は掃除当番があるから。またね、啓太」
無言で思考を続けていると、不意に青が列から飛び出した。すぐそこの階段を下りた先には、一年四組の掃除担当である図書室がある。どうやら彼は放課後の掃除に遅れて行くらしい。
「お前またサボってたのか」
「職員室、楽しいんだもん。俺を見る目がひりついてて」
変人だ。啓太は思わず顔をしかめる。
「付き合ってくれてありがとう、佐倉くん」
「いえいえ。あと、俺のことは気軽に青って呼んでください」
歌乃にも挨拶を済ませると、青はそれじゃあ、と階段を駆け下りていった。まったく、嵐のような男だ。
「青くん、いい子ね。掃除当番、サボっていたんじゃなくてあなたを気にかけて待っていたんでしょ?」
「まあ……いや、多分職員室にいるのが楽しいっていうのも本音ですよ」
「そうなの?」
「そうです。あいつ、そういうやつだから」
青の「女装」は校則で禁じられている。彼が男であると社会に告げられたから、女子の制服は着用できなくなった。では、どうして教師たちは青の放縦を黙認しているのか。それは、彼の成績に起因する。
青は幡屋高校一年のなかで飛び抜けて優秀な生徒だった。何をやらせてもそつなくこなす彼だが、特に群を抜いていたのは学業。定期テストも、模擬試験も、毎回二位に大きな差をつけたうえでのトップだった。まだ一年だというのに、既に何度成績優秀者として壇上で表彰されたかわからない。
彼は女装を教師たちに認めさせるため、最初の進路希望調査でとある国公立大学の名前を書いた。都内にある、日本一の大学。その日から、教師は青に注意をすることがなくなったそうだ。彼の進路希望には現実味があった。このままいけば、本校初の合格者を出すことができる――高校側の利益と青の利益が合致した瞬間だ。
青は授業が終わったら、さっさと家に帰ってしまうことが多い。多分、勉強しているのだろう。なぜかと言えば、自分が自分であるために。成績が落ちたら、自分が自分のままいられなくなるから。彼は天才肌だが、努力家でもあった。
それなのに彼は今日、掃除よりも時間を要したかもしれない啓太に付いてきてくれた。感謝、しなければならないだろう。もっとも、本人は絶対に認めたがらないだろうが。
「啓太?」
「えっ」
「どうしたの。階段のほうを見つめて」
「ああ、いや」
ぼうっとしていたらしい。我に返ったときには、目の前に歌乃の美貌が近づいていた。
「ちょっと先輩、近いですって」
「なによ。別に変身したりしないって」
「そういうことじゃなく」
「はあ……?」
何を言っているんだお前は、みたいな表情を本気でしないでほしい。心にちょっとした棘が刺さる。
しかし歌乃は傷ついた啓太なんて露も知らずに背中を向けてしまう。
「じゃあ、私たちも帰りましょうか。行くわよ、啓太」
本当に傲岸不遜を一貫した女である。いや、傲岸不遜というと少し語弊があるか。彼女は他人を見下したりはしないのだが、どうも自分を棚に上げている感じがするのだ。いや、それはもう相対的には他人を見下していることになるのだが。
「……あの、さっきから思ってたんですが」
気分の落ち込みを感じながら、啓太はすらっとした背中に声を掛ける。
「何?」
「いや、どうして俺だけ呼び捨てなんですか?」
「ストーカーに敬称をつけてあげる優しさなんて持っていないわよ」
「ええ……」
「冗談だって」
歌乃がふふっと笑う。彼女らしい悪戯っぽい笑みだ。
「特に理由はないけど――」
啓太のほうを見ながら、後ろ向きに歩き出す。
「まあ強いて言うのなら、あてつけかしら」
「……?」
「ほら、早く。帰るわよ」
歌乃の流し目が啓太を捉える。彼女のあてつけという言葉の意味もよくわからないし、そのあとに言ったことも理解できない。
「俺たち、何で一緒に帰ることになってるんですか?」
「だって、また急に変身が操れなくなったら大変だもの。私はまだ、啓太たちみたいに完璧に異能を制御できているわけじゃないみたいだし。衆目を集めてくれる人がいないと」
「まるで俺が変質者みたいじゃないですか」
「ストーカーなんだから間違いじゃないでしょ」
「ええ……」
酷い言われようだ。確かにやったことは同じようなものだったが。
すると、なかなか歩き出そうとしない啓太を見て感情が害されたらしい。歌乃は顔を不機嫌そうに歪めると、また距離を縮めてきた。
「なに、嫌なの? こんな美少女と二人で下校できるのよ」
「いや、だから近いって……。ああもう、知らない間に見知らぬおじさんと歩いていることになるかもしれないのが嫌なんですよ」
「そんなこと起きないわよ」
「さっきと言ってること真逆なんですが」
「うるさいわね。いいから、さっさと歩く」
「はあ……」
結局はこうだ。歌乃の押しが強すぎて、啓太が引き下がる。まだ会ってから一日程度だというのに、もう何回同じような問答を繰り返したのだろうか。
水の流れに従う草舟のように、啓太は歌乃の左に並んで歩く。憂鬱だ。心の底から。他の男子ならば、啓太の立場を歯噛みして羨ましがるのだろう。ただ残念ながら、啓太にとって歌乃は「他人」でしかなかった。たとえ、同じ異能という荒唐無稽な存在を内に秘めていたとしても。
彼女は、他人でしかない。興味本位に首を突っ込んだのは悪かったと思っている。ただこれ以上の関わり合いは、他人から一歩引いていたい啓太にとって迷惑だ。
「……」
横を向けば、物憂げな表情をした歌乃がいる。普通であれば、学校一の美人と下校できることを喜ぶ一般的な人間であれば、気を利かせて何か声を掛ける。だが、啓太はそれをしない。
「……ねえ」
啓太はさりげなく息を吐く。はあ、と。気付かれないように。中途半端な聞こえないふり。
「先生の言っていたこと、啓太は信憑性があると思う?」
津田の立てている仮説が気になっていたらしい。まあ、それもそうか。彼女は異能を使えるようになって日が浅い。そう考え込むのも当然だろう。
「まあ、それなりには。信じてもいいかなとは思います」
「そっか。異能とは、自身のうちに潜む自己実現欲求の発露である――正直、心当たりはある」
独り言のように呟く歌乃。その顔は硬い。
「思い当たる節があるなら、まだ救いはありますよ」
「聞かないの?」
「え?」
「どんな心当たりがあるのかって。私がどうして年を取った男の姿に変身するのか、気にならない?」
「ああ……」
階段を下って、昇降口につく。一年と二年の下駄箱は別々の位置にあるので、自然と二人の会話が止まる。黒のスニーカーが不揃いな音を立てた。下駄箱の向こうからは、靴を置く音がしない。丁寧にローファーを置いているらしい。
靴を履いて、外へ。校門はすぐそこだ。左を見れば、先に待っていたらしい。リュックを背負った歌乃が、啓太を見つめていた。同時に返答を待っている、そんな顔だ。
「……まあ、気にはなりますけど。でも先輩、言いたくなさそうだし。それに、同じ異能持ちだからって何でも打ち明ける必要はないでしょう。津田先生の件もそうですけど、青のことだって、詳しくは知らないですよ」
「そうなんだ。結構、ドライなのね」
「そうですか? 普通ですよ」
歩き出す。職員室に寄っていたから、また中途半端な時間だ。昨日よりは明るいものの。
「言いたくないことは言わずに、穏やかに過ごす。それが一番です」
「ふうん」
そうこう言っているうちに、学校を出て参道に入る。毎回思うが、本当に急な坂だ。
そして今は、隣を見れば暮坂歌乃がいる。ただでさえ疲れる帰り道だというのに、彼女も一緒となると気苦労が絶えない。と、啓太がちらりと見たのに気付いたらしい。
「なに?」
「ああ、いや」
周囲の目線によく気が付くものだ。
「坂がきついなあ、と」
嘘は言っていない。半分本当みたいな感じだが。
そういえば彼女の名字も暮坂だった。なるほど、言わんとしていることは間違っていない。
「そうね。確かに急な坂。歩道も狭いし、通学路にしては不便かも」
「ここって、平日の夕方でも人が多いですよね」
「参道だもの。すぐそこに成田山もあるし。立派な観光名所よ」
「そういうの、全然意識してなかったな」
成田山は開基一〇八〇年らしい。これだけ歴史も由緒もある大きな寺が近くにある高校も珍しいだろう。
「啓太は成田に住んでいるの?」
「はい。でも高校入学と同時に引っ越して来たので、まだあまり慣れていなくて」
「引っ越してきたんだ」
「父の転勤で。だから参道を歩くこと自体は新鮮です。タイムスリップしたみたいで」
「散歩するのに丁度いいわよね。休みの日とか。お店もたくさんあるし」
「お店か……全然行ったことないですね」
「そうなの? 青くんと行ったりしないのね」
「青と一緒に帰ることもありますけど、そういうのは別に」
というか、青があまり寄り道をしたがらない。さっきも言ったように、勉強時間の確保のためだろう。啓太も早く家に帰れるなら帰りたいタイプなので、必然的に店に入ったりすることはなくなる。
「へえ……男の子ってそういうもの?」
「さあ。まあ、青って何を考えてるのかわからないところがあるので」
啓太がそう言うと、歌乃はふっ、と鼻で笑った。
「あなたも大概よ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
啓太の仕返しが気に食わなかったらしい。歌乃は表情を楽しげなものから、むっとしたものへと一転させた。やはり、意外と感情に素直だ。
「私はそれなりにお店とか行くけど? ちゃんと。人並みに」
「はあ、そうですか」
とは言っても啓太には関係のないことだ。歌乃が感情に素直で負けず嫌いだろうが、店によく行っていようが、興味がない。
だが、素っ気ない態度を取ったのは失敗だった。暖簾に腕押し状態の啓太を見て、歌乃はさらに機嫌を損ねたのだ。ツンとした面構えで頬を膨らませている。
「それなら、この先に美味しい餡蜜屋さんがあるの。私が連れて行ってあげる」
「え、別にいいです」
「ほら、歩くのが遅い」
「今から行くんですか?」
「決まってるでしょ。私が行きたくなったの」
「俺に自由意志はないのか……」
選択を違えた。これなら愛想笑いの一つでもしておくべきだったか。歌乃の思い通りにさせておかないとさらに最悪なことになると、啓太は学んだ。
歌乃の言う餡蜜屋は、参道の険しい坂の途中にあった。途中といっても、普通であれば気が付かないような細い小道に逸れた先だ。まさに隠れ家的な甘味処というところか。受付には何人か客が並んでいる。平日でもこの盛況ぶりということは、結構な人気店なのだろう。
「わあ……!」
歌乃も目を輝かせている。確かに古民家カフェのようで洒落ているし――って、「わあ」?
「何ですか、その初めて来た人みたいなリアクション」
「え? 私このお店に入るの、初めてだけど」
「は――」
なんだと?
「一度も言ってないじゃない、来たことがあるなんて」
「な……美味しい餡蜜屋というのは」
美味しい、の部分を強調して訴える。だが歌乃は目を合わせてくれない。
「あれは……クラスの子が話していたのを、耳にして」
「伝聞ごときに俺の自由意志は打ち砕かれたのか……」
「仕方ないじゃない。ずっと気になってはいたけど、あんなに狭い路地、一人で入れるわけないでしょ」
何だか知らないが逆ギレされた。何様なのだろう。しかし、一人で店に入る勇気がないことをこんなにも自信満々に言ってのける人は初めて見た。意外と小心者らしい。
「誰か誘って行けばよかったじゃないですか」
「だから誘ったじゃない、あなたを」
「何で俺……」
しかも誘ったとは。彼女は一度、国語辞典で「誘う」の意味を引いたほうがいい。
「だって私、友達いないし……」
「ああ……」
「なによ、その目は」
「二名様ですか?」
歌乃の人殺しのような目つきから逃げていると、店員が声を掛けてきた。気付けば列が解消されている。このまま歌乃のセンシティブな面に触れていると火傷でもしかねないので、啓太はそそくさと店の中へ入った。
座席に案内されてすぐに注文を済ませる。歌乃が餡蜜を食べると言うので啓太も同じにした。
「ねえ、私に友達がいないのって、どう思う?」
「それ掘り返すんですか?」
「いいから」
テーブルの下で足を蹴られた。まあこれは予想通りというか、随分と執着心が強い人だ。
「……いや、正直、どうでもいいですけど。誰かに友達がいないとか、いるとか」
「まあ、そうよね。私も同じ考え」
歌乃が外を見る。ガラスの向こうには、小さな日本庭園があった。
「別にいいじゃない。一人でいたって」
「……」
本心だろうか。お絞りで手を拭きながら、啓太はその綺麗な横顔を見つめる。
随分と――そう、随分と、寂しそうな横顔だ。
「でも異能のことに関しては、さすがに私だけじゃどうしようもなかった。だから正直な話、安心したの」
「安心?」
「啓太が私を見つけてくれたおかげで、異能のことを話せる人ができた。それまでは、誰にも打ち明けられなかったから」
相談できる友達が一人もいなかったのだろう。ただまあ、それをまた口にすると足でも踏まれかねないので、無難な言い方で返すことにした。
「不安だったんですか?」
「ええ。このまま姿が変わっていって戻れなくなったらどうしようって思ってた」
「少し意外です」
「そう?」
「いつも毅然とした感じだったから、不安なんてないものだと。……いや、俺が一方的に先輩のことを見て、勝手にそう感じていただけですけど」
他人から見たその人のイメージなんて、結局は「こうあってほしい」という印象の押し付けに過ぎない。だから歌乃が実は不安を抱えていたって、何らおかしくはないだろう。
啓太の言葉を聞いて、歌乃は少し意外そうに固まったあとで「そっか」と表情を緩めた。くしゃり。白い歯が覗く。気持ちのいい笑顔だ。
「それなら、成功かな」
「成功とは?」
「何でもない。私だって人間だもの、不安くらいあるわよ。しかも自分の体が知らない男の人の姿に変わるなんて、怖いに決まってる」
「まあ、それにしては楽しそうにビール飲んでましたけどね」
「う、うるさい! あれは、その、せっかくだから」
「せっかくで未成年飲酒か……」
歌乃の顔が茹蛸のように赤く染まる。腹立たしいのと恥ずかしいのが両方というところか。
「なによ! 大人の真似事くらい別にいいでしょ。啓太だって、私と同じ状況になったらえっちなお店とかに入るくせに」
「俺のことを何だと思っているんですか?」
「ストーカー」
「ストーカーは違法だけどえっちなお店は合法でしょう」
「やっぱり入るんじゃない」
「お待たせしました、餡蜜ふたつです」
「あ、ありがとうございます」
ここの店はタイミングがいい。さっきから助け船の連続だ。啓太が餡蜜の乗った器を受け取って、奥の歌乃に渡す。彼女がじとりと睨んでくるのは意に介さない。
気を取り直して、やって来た餡蜜を上から見下ろす。あまり期待はしていなかったのだが、確かにこれは美味しそうだ。白玉と寒天がたっぷり入っていて、その上に餡子や牛皮、レーズンや杏子などのトッピングが盛り付けられている。上から蜜をとろりとかけると、たちまち甘い香りが鼻腔を貫いた。
「いただきます」
マスクを外して木のスプーンを握る。いよいよ実食というとき、歌乃が驚いたように目をぱちくりさせているのが視界に入り込んだ。
「……なんですか?」
「あっ、いや」
まるで啓太みたいな反応だ。いや自分でそう思うのも何だが。
「ずっとマスクしてるから、何かコンプレックスでもあるのかと思っていたの。何の躊躇いもなしに外すから少し驚いちゃった。綺麗な口をしてるのね」
「はあ。ありがとうございます」
「……何でマスクしてるかって、聞いてもいい?」
「別に、構いませんけど」
「じゃあ聞く。何でマスクしてるの?」
「……」
ついさっきの啓太とは正反対だ。遠慮がない。話せば少し長いし、残念だが一旦餡蜜はお預けだ。啓太はお盆の上にスプーンを置き直す。
「俺にとってこれは、他人との境界線を確かなものにするための道具なんです」
空いた右手が顎に触れる。冷たい。先ほどまで外にいたからだろう。
「俺は、人の懐に入りたくない。入らないように、近づきすぎないように、距離を置きます」
「それは、あなたの過去に何か嫌なことがあったからで……それが原因で異能が使えるようになったとか、そういう話?」
「勘がいいですね」
「賢いでしょ?」
「はい」
啓太はおかしそうに微笑む。歌乃の推測は過去を見てきたかのように正しかった。
「先輩の言う通り――その過去の出来事のせいで俺は人と距離を取るようになって、目立たない振る舞いを心掛けるようになりました。言葉は、声は、恐ろしい。ナイフよりも簡単に人の内側に入り込んで、傷つける。異能が使えるようになったのは、それから少し経ったあとのことでした。軽率に人の心に踏み込んでしまうのが嫌だから、声は出したくない――そんな男が、声を張り上げる異能を身に付けたんです。皮肉ですよね」
「……そう。あなたも、色々あったのね」
「……ええ、まあ」
どこか重たい空気。自分のせいか。啓太はそれを払拭するように、一番上に乗っていた杏子にかぶりついた。ああ、勿体ない。こういう大事なものは最後に残しておくタイプなのに。
「でも聞いた限りじゃ、異能ってそういうものなんでしょう。自分が成りたいと望む、内なる自分――本当の自分を抑えきれなくなって、それが形を変えて異能として発現する」
「まあ、はい」
異能とはそういうものだ。それはわかる。ただ納得できるかと言われたら、難しい。自分の嫌な過去と関係していることに対して、そう上手く折り合いをつけられるわけがない。
だが歌乃は、あくまでも楽しそうに、未来の希望を語るかのように、啓太へこう問いかけた。
「じゃあ、マスクを外せるようになったら、何がしたい?」
「え――」
「だって、啓太は大きな声なんて出したくないのに、そんな異能が使えるようになったんでしょ? だったら、あなたは心の奥底ではそれを望んでいるってことじゃない」
先生の言う仮説が正しければ、だけど。と、歌乃は付け足す。
「だからあるでしょ、何かしら。マスクがなくなったら――他人との境界線が、消え去ったら」
「……」
そんなことは考えたこともなかった。もし、マスクを外せたら。他人との境界線を作る必要がなくなったら。自分は、何をしたいのだろう。人と関わって。踏み込んで。何がしたい。
「…………耳元で愛を叫ぶ、とか」
啓太は、小声で呟いた。そのフレーズの聞き慣れなさに、歌乃は首を傾げる。
「なにそれ?」
「いや、マスクがないまま耳元で愛を叫んだら、たとえ自分のことを好いていてくれる人であっても迷惑じゃないですか。痛いし」
「まあ、そうね。普通は愛を囁くって言うし」
「だから、その……俺がマスクを外すということは、自分との境界線を確かなものにしなくても安心していられる相手を見つけたってことでしょうから、いっそのこと相手を信頼して叫んでみたいな、と」
「……」
歌乃が黙り込んだのを見て、啓太は物凄く後悔した。そして同時に、今すぐ消えてなくなりたいような羞恥も抱いた。何が耳元で愛を叫ぶだ。ぱっと思いついたことを口にしただけとはいえ、あまりにも臭すぎるだろう。顔から火が噴き出しそうなほど恥ずかしい。
「い、いや、本当にするわけじゃないですよ。ただ、例えばの話というか。ほんと、マジで」
焦りで口調まで変わってしまっている。もう嫌だ。帰りたい。やっぱり来るんじゃなかった。
「あ、ううん」
だが、歌乃はそんな啓太を笑わなかった。いや厳密に言えば笑ってはいたのだが、それは決して啓太を馬鹿にしたような笑みではなく、どこか気品のある、みやびやかな笑みだった。
「別に引いたわけじゃないの。ごめんなさい」
照れたように、歌乃が目線を落とす。見る者すべてを魅了する、乙女のはにかみ。
「ただ――案外、ロマンチストなのね」
その美しい姿に、啓太は時が止まったかのような錯覚を抱いた。でも、口には出さない。
「…………からかってます?」
「そんなことないわよ。すごく、素敵だと思う」
歌乃があまりにも本気のトーンで言うものだから、聞いているこっちが恥ずかしくなってしまう。何と言うか、そういう直接的な台詞でも、彼女のような類まれな外見を有した人が口にすると様になってしまうのだ。
「見つかるといいわね。耳元で愛を叫んでも、怒らない人」
「……別に、求めているわけじゃないですよ」
啓太は赤くなった頬を誤魔化すように、ほうじ茶が注がれた茶器を一気に傾けた。