2
それから少しして、啓太は焼き鳥を追加で頼んだ。白状すると、周囲の目線が痛くて味わっている余裕などまるでなかった。とはいえ飲み物だけで帰るのもどうなんだと躊躇われたのだ。
啓太がタレのついた鶏肉を頬張っていると、後ろからポンと背中を叩かれた。何かと思って振り向けば、大声で叫んだときに反応を示していた壮年の男だった。
「お前、すげえな。驚いたよ」
「あ、はあ」
「家帰って、ちゃんとした飯食えよ」
「はい、すみません……」
すっかり家出少年だと思われているらしい。まあ、こんな時間に居酒屋で一人焼き鳥を食べていれば、そう誤解されても仕方がないだろう。男は楽しそうに笑うと、会計を済ませて店を出て行った。
自分もそろそろ帰りたいのだが……そう懇願するようにキッチンの奥を見やる。すると啓太の願いが通じたのか、座敷席の角で男が立ち上がるのが確認できた。白い短髪に、ベージュ色のトレンチコート。間違いない。啓太の奇天烈な行動により全員の視線が彼に集中した。あの一瞬で、歌乃は平常心を取り戻せていたのだろう。
女子高生の面影など、百八十を超える長身にはどこにも残されていない。再び中年の男に成りすました歌乃は焦げ茶の革靴を履くと、外套に良く似合うクリーム色のショルダーバッグを肩にかけて、出口へ向かった。どうやら身に付けていたものまで男物に変化するらしい。
――俺も外へ出るか。
目標が場所を変えるつもりならば、こちらも同じように続くべきだろう。それに啓太は変に目立ってしまった手前、あまりこの場に長居したくはなかった。要は、恥の感情が限界を迎えていたというわけだ。通学用の鞄を手に取って席を立つのと同時に、ちらりと歌乃が利用していたテーブルを見る。
――結構飲んでるな、おい。
すっからかんになって奥の景色を映しているジョッキが二杯に、少し小さめのグラスがもう一つ……あれはハイボールか何かだろうか。その隣には、枝豆だとか揚げ出し豆腐だとかを盛り付けていた小皿があった。いや、飲み過ぎではなかろうか。
自分の助けがなければ、一杯目の時点で中身がバレていたかもしれないというのに。よくもまあ懲りもせず満喫してくれたものだ、と啓太は人知れず鼻白む。
「というかチョイスがおじさん過ぎるだろ」
「どうかしましたか?」
「ああ、何でもないです。えっと、いくらでしたっけ」
店員が言った金額をぴったり支払う。啓太のオレンジジュースと焼き鳥に対し、歌乃はビール二杯にハイボール、つまみに枝豆と揚げ出し豆腐。なかなかに渋い選出だ。歌乃のような外見なら、レモンサワーとかカシス何たらとかを好んで飲みそうなものだが。
「ありがとうございましたー」
取り留めもないことを考えながら店を出る。入ったときとは違い、今度はちゃんと挨拶してもらえた。
「しかし疲れたな……」
人混みから抜けたことで気も一緒に抜けてしまったのだろう。外へ出た途端、肩にどっと重たいものが伸し掛かったような感じがした。体中がだるい。柄にもなく悪目立ちなんかしてしまったせいで、心がひどく摩耗したらしい。火照った体に当たるひんやりとした夜風が気持ちよかった。
結局、歌乃の変身は何だったのか。啓太が会計をしている間に帰ってしまったようだし、周辺にもそれらしき姿は見当たらない。気にはなるが、これ以上尾行を続ける気力は残っていなかった。
とりあえず今日は家へ帰ろう――そう思って駅への一歩を踏み出した、その瞬間だ。
「こんばんは」
後ろから声を掛けられた。多分、初めて聞く声だった。それはそうだ。啓太が居酒屋の中で聞いたときは、彼女は男の姿に変わっていたのだから。
「……!」
振り返れば、案の定。店の外壁に隠れていたらしい彼女――暮坂歌乃が、啓太をじっと見上げていた。
上品な目鼻立ちをした、実に綺麗な女性だと思った。気が強そうに見えて、どことなく幼げでコケティッシュな色気もある。瞳がぱっちりとしているからか。まともに正面から直視して、改めて気付く。その頭骨に学年上位の成績が取れる脳が収まるのかと思ってしまうほどに、彼女は顔が小さかった。美しいという褒め言葉が陳腐なものに感じられてしまうくらい、本当に恵まれた外見だ。
「え、ええっと」
なぜ。彼女に見惚れるのも程々にして、啓太の回らない頭が必死に終わりのない思考を紡いでいく。彼女はなぜ、啓太に声を掛けてきたのか。そもそも、そこがおかしい。
歌乃からしてみれば、彼女は自分が男の姿に変身したところを目撃されていないと思っているはず。居酒屋で酒を飲んでいたのは無関係の白髪の男であって、歌乃は居酒屋に入ってすらいない設定のはずだ。
だから啓太が大声で叫んだことも知らない体である――と思われるのだが、それでは歌乃が啓太に声を掛けてきたことに説明が付かない。彼女がここで啓太に話しかけるのは、「私があの男の中身です」と打ち明けているようなものだった。
一体、自分は何と返せばいい。どういう返し方が最適なのか。ぐるぐる、ぐるぐると啓太の脳内で様々な考えが巡り巡って、一斉にショートしたかのようにすべての案が却下されていく。
「……そ、その、何か用ですか。俺、あなたとは何も、」
捻出された苦しげな言い訳。だが歌乃は、それすらも言い切る前に打ち砕く。
「お酒、飲めなくて残念だったわね」
「――⁉」
啓太の頭の中を、驚愕と確信が駆け抜けていく。
お酒、飲めなくて残念だったわね。その言葉を放った時点で、もう確定だ。歌乃は啓太が「ビール一杯ください」と叫んだのを知っている――つまり、自分はあの場にいたということを明かしている。あの店のなかに、彼女のような制服を着た女子高生はいなかったはずなのに。
そういうことか。啓太はようやく理解した。彼女には隠し通す気などさらさらないのだ。
もう「白髪の男が自分である」と暗に認めている。それどころか彼女は、啓太の意味不明な行動の真意に気付いていた。普通の人間には到底出すことが叶わないだろう大声。それを出せた啓太が『持っている』ことに、気が付いたのだ。
面倒だ。本当に面倒なことになった。やはり関わるべきではなかったのだ。歌乃の正体を暴こうと目論んでいたら、いつの間にかこちらの正体が暴かれそうになっている。まさに、ミイラ取りがミイラになった。
「……俺は、幡屋高校の生徒で」
「わかるわよ。その制服を見れば」
「で、ですよね」
ぎり。白いマスクの奥で、啓太が歯ぎしりする。誤魔化しは通用しないらしい。
「私がお店に入る前から、ずっと付いてきてたでしょ。ストーカーか何かかと思った」
「……すみません」
どうやら居酒屋に入る前から感づかれていたらしい。それは少し意外だった。てっきり、あの大声ですべて悟られたのだとばかり思っていたから。
「あなた、一年生よね。よく可愛い女の子と一緒にいる」
可愛い女の子とは、おそらく、いやほぼ確実に青のことだろう。啓太のように声を出さなくても、歩いているだけで人の注意を引き付けてしまえる彼のおかげで、既に存在は認知されていたらしい。いや、今回に至っては微塵も嬉しくなどないのだが。
「私は暮坂歌乃。あなたは?」
「俺は矢船啓太……です。暮坂先輩、校内でも結構有名だし、知ってます」
半分嘘みたいなものだ。彼女のことは今日知った。
しかし歌乃は興味なさげに目線を外して、
「そう。私もあなたのこと知ってる。知ってるだけだけど」
言ったきり、黙ってしまった。会話が上手いわけではない啓太は、「はあ」とこれまた興味なさげな返事をすることしかできない。
沈黙。意味のない、いや、意味のわからない沈黙。てっきり質問攻めにあうのだとばかり思っていたので、肩透かしを食らった気分である。
もしかして、このまま核心に踏み込むことなく帰れるのではないか。啓太はそう思って、後頭部を右手でさすりながら愛想笑いを作った。目元しか見えていないのが惜しいが、これでも啓太の精一杯の笑顔である。
「そ、それじゃあ、俺は帰らないといけないので。失礼しまーす……」
軽くお辞儀をして、踵を返す。さっさと帰ってしまおう。それがいい。
そうして啓太がそそくさと帰ろうとすると、
「さっきはありがとう」
「――」
「急に姿が戻っていったものだから、焦っちゃった」
背を向けた途端、歌乃が一気に核心に踏み込むようなことを口にした。啓太の足が止まる。
嫌な声色だ。これを言えば啓太は逃げられなくなると十分に理解している。後ろを向いているせいで確認できないが、今の彼女はきっと悪い笑みを浮かべているのだろう。やはり、タダで帰す気は毛頭ないらしい。
――まあ、そりゃそうか。
ふう、と息を吐く。鼻骨とマスクの隙間から、二酸化炭素が漏れ出て行く。
啓太は再び嘘の笑顔を作りながら、振り返った。
「あはは、何の話で――」
「あなた、何か知っているわよね?」
「え」
振り返ったときには、歌乃は既に目の前に立っていた。後ろを向いている間に距離を縮めていたらしい。声音も、表情も、硬い。まるで取り調べだ。
「少し前からこうなの。見たことも会ったこともない中年男性の姿に変身できるようになった」
「えっと……嫌だな、暮坂先輩は今も綺麗なままじゃないですか」
「……そうね」
歌乃が眉を寄せる。まともに取り合わない啓太に嫌気が差したらしい。
失敗したか、と思ったのも束の間。
「うわ⁉」
歌乃は咄嗟に啓太の腕を掴むと、そのまま強引に路地裏へ連れ込んだ。誰もいない暗がりのほうへ引っ張って、啓太を壁に押し付ける。
「ちょっと――」
瞬間、思わず息をのんだ。近いのだ。歌乃との物理的な距離が。目線を下に落とせば、すぐそこに彼女がいる。濁りのない宝石のような瞳。啓太の二の腕が、歌乃の細長い指に包まれる。白い首筋に、柔らかそうな唇。乱れた黒髪が、もう少しで素肌に触れそうだった。
「暮坂先輩、近……!」
だが、啓太が次に瞬きをしたあとには、暮坂歌乃は目の前から消えていて。
「あなたの声、あれは異常だった」
「――」
啓太の狐のような笑顔が剥がれ落ちる。
歌乃は一瞬にして男の姿に変わっていた。啓太の腕と肩をがっしり拘束しながら変身したのだ。今や啓太は、身長百八十を超す巨体に至近距離から見下ろされている。
「夜の居酒屋なのよ。場違いな格好と台詞だったとはいえ、あそこまで声が通るなんて有り得ない。まるで、雷が落ちたみたいだった」
重低音のような男の声で、歌乃が詰問する。獲物を射貫くような鋭い目つき。
「何か、知っているでしょ」
「……」
その迫力といったら、声と口調が噛み合っていないことを忘れてしまうくらいに凄まじいものだった。ここまでされたら抵抗することは難しい。啓太の目の前で変身するところを見せた。つまり、向こうはもう覚悟を決めているということだ。だったら、もう逃げられない。これ以上しらを切ることは不可能だと、悟った。
「……その異能、体臭まで変わるんですね」
「……!」
啓太が目線を逸らしながら言うと、歌乃は大きく目を見開いて飛び退いた。即座に姿を戻したあたり、気にしているらしい。林檎みたいに顔を赤くして、啓太を睨み付ける。
「私だって嫌なのよ、自分が臭くなるなんて」
「いや、暮坂先輩はいい香りでしたよ。その、おじさんのほうが」
「わかってる! 嗅ぐな、変態! ストーカー!」
さらに顔を真っ赤にさせながら怒る歌乃。つい先ほどまで冷静沈着に啓太を追い詰めていたというのに、随分な変わりようだ。泣く子も黙る鬼のような女かと思ったら、意外と可愛らしい一面もあるらしい。
「いや、あんなに近づかれたら自然と入ってきちゃうでしょう」
「マスクしてるくせに。馬鹿」
「……はあ」
啓太は頭の裏を掻く。
「俺も、これが何なのかまではわかっていないです」
自分の身に起きた謎の現象。今回の歌乃にも、それは当てはまる。これらが一体何であるのか、一切合切を解明して理解できたわけではない。ただ、知り得てはいる。
「現実世界じゃ有り得ない。でも魔法と呼べるほど劇的なわけじゃない――些細な、力。俺たちはこれを、『異能』と呼んでいます」
「異能――」
語感を舌の上で転がすように、歌乃が繰り返す。
「結構、そのままなのね」
「まあ、わざわざ新しく呼称を考えるほど大層なものではないので」
「確かに小さな力だけど、十分に非現実的だと思うわよ」
「まあ……それはそうなんですが」
啓太の体が揺れる。歩き出そうと重心を傾けたのだ。このまま止まって立ち話をしていても帰りが遅くなるし、体だって冷えてしまう。そう思って、何とはなしに足を前に出したのだった。
「幡屋高校にも、他に異能を持っている人はいますよ」
「そうなの?」
後ろから歌乃がついてくる。啓太は歩く速度を緩めるべきかと悩んだが、やめておいた。
「はい。一応隠してはいますけど。ただ、如何せん目立たない力なので」
「全然気が付かなかった」
早足で隣に並んだ歌乃は、「でも」と続ける。
「一つの高校に何人かいるなら、異能を持っている人の母数は多いんじゃないの?」
「さあ、どうなんでしょう。俺も詳しく知っているわけではないので、わかりません」
「謎が多い……というか、そもそも問題にもされていない感じね」
「世間に与える影響が小さいですからね。これで自在に炎が操れたり、重いものを動かせたりでもすれば、話は変わってくるんでしょうけど」
「そうね。……というか」
「暮坂先輩?」
歌乃が突然歩くのをやめたので、啓太は不思議そうな顔をして後ろを向いた。居酒屋の隣にあった路地裏から軽く歩いて、二人は既に成田駅に到着している。駅前のロータリーを通り抜けて、改札や券売機があるあたりで立ち止まっていた。
啓太のわざとらしい態度を見て、歌乃は再三苛立たしげに眉を寄せる。不機嫌そうな表情をしていても美人が台無しにならないのだから、たいしたものだ。
「暮坂先輩? じゃなくて。私、あなたの異能の話が聞きたかったんだけど。矢船くん」
「あー……」
やはりこの先輩、只者ではない。
「そういえば、そうだったかもしれませんね」
「このまま何も明かさずに駅まで歩いて、丁度よく切り上げるつもりだったんでしょ。残念だったわね。私、家近いから電車は使わないの。このまま改札前を抜けて真っ直ぐ歩いていくから、まだまだあなたと話せそう。矢船くんも徒歩通学でしょ? だって、電車通学のはずの私とここでお別れするつもりだったんだものね」
「……」
顔には出さない。ただ、心の中で軽く舌打ちをしたい気分だった。ちなみに彼女の言葉が本当なのであれば、啓太の帰宅手段は歌乃と一緒だ。甚だ不幸なことに。
「……それは誤算でした。成田に住んでいるんですか?」
「話を逸らさないでくれる?」
「……はあ」
啓太の憂鬱を形にした溜め息は、あっけなくマスクに吸収されて消えていく。『異能』のことだけを伝えて、あとはどうにか誤魔化して逃げ切ろうという算段だったのだが。それも上手くはいかなかった。やはり、この一枚上手な上級生には啓太の甘い奸計など通用しないらしい。
仕方がないだろう。もう本当に観念した。お手上げだ。啓太はなるべく人と関わりたくないから、個人的な情報を誰かに開示するのは好まなかった。だがそれも、意思決定の権利がこちら側にある場合のみの話である。
啓太は中途半端だった体の向きを直して、しっかりと歌乃の両目を捉える。そして、自身の秘密――啓太の異能を、告白した。
「一言で言えば、俺の異能は『声を張り上げる力』です」
「声を、張り上げる?」
歌乃が小首を傾げて聞き返す。まあ、そんな反応にもなるだろう。
「はい。普通じゃ出せないような、大きな声を出せるんです。居酒屋で叫んだのも」
「それで、さっき……」
明かしてしまえば単純な話だ。啓太が雷のごとき大声を出せたのは、そういう異能を持っていたから。普通の人間にはまず出すことができないだろうが、仮に出せたとしても、一瞬で喉が限界を迎えて焼き切れるような大音量。それを啓太は軽々と放つことができる。どういう原理でそうなっているのかは自分自身でもわからない。ただ、『異能』という謎の存在が啓太を拡声器いらずにさせていた。
「喉が痛くなったりとかは?」
マスクしてるし、と歌乃が口元を指差しながら言う。しかし啓太のマスクは、喉を労るためにつけられているわけではない。横に首を振って答える。
「そういうのはありません。多分。……いや、何度も使ったことがあるわけではないので、わかりません。酷使したら痛くなるのかも」
「正直ね」
「別に、強がる必要はないでしょ」
他意はない。ただ、歌乃はその言葉を聞いて瞠目した。なぜかは知らないが。
「……そうね。強がる必要なんて、ない」
歌乃の長い睫毛が揺れる。瞳の奥の感情を覆い隠すみたいに、下を向いて。
その含みを持たせた言い方に違和感を覚える。変だ。先ほどまでの強気な態度が嘘だったのではないかと思えるくらい、今の歌乃は弱々しい。
ところが、啓太がそれを追及する前に、彼女はそのまま歩き出してしまった。洗練された歩き方で啓太の横を通り抜けていく。なるほど、百合の花とは言い得て妙だ。とはいえ黙って美麗な後ろ姿を眺めているわけにもいかないので、啓太は追従するように横に並んだ。
「……俺の異能に関しては、そんなところです。本当に些細な力でしょう?」
「まあ、そうね。声の大きさは自由に変えられるの?」
歌乃が目線を寄越さずに問う。ええ、と啓太も同じように前を直視したまま返す。
「ある程度は調節できます。今も、少しだけ」
「マスクをしていてもやけに声が聞き取りやすかったのは、そういうことだったのね」
「はい。ただ、あまりにも大きい声を出すと、少しだけ気絶してしまうらしくて」
「えっ」
聞き捨てならない、とでも言いたげに歌乃がこちらを向く。
「気絶って、それ大丈夫なの? 異能なんかじゃなくて、やっぱり何かの病気なんじゃ」
不安そうな面持ちが視界の端に映る。案外、表情がころころと変わる人だ。
啓太としては、もっと冷徹で心の機微に聡くないタイプなのだと思っていたので意外だった。外見が恐ろしいほどに完成されているから、人間味を感じなかったというのもあるだろう。やはり人を見た目で判断するのは良くないらしい。
「いや、ただの疲労ですよ。声を張り上げるのって、体力を使うんです。あと、それだけじゃない何かも擦り減る」
「……擦り減る、ね」
囁くような声。
「まあ、何かを主張するのって、疲れるものね」
「……暮坂先輩?」
「なに?」
「いや……何でもないです」
「そう」
駅の構内を抜けて、長い階段を下りる。何となく気まずい沈黙が続いていると、不意に歌乃が話しかけてきた。
「……ねえ、その暮坂先輩、っていうのやめてほしいんだけど」
「え?」
「名字で呼ばれるの、嫌いなの。下の名前で呼んで」
歌乃って、と付け足す。やっぱり、よく表情が変わる人だ。ついさっきは啓太を心配してくれていたみたいだったのに、今はもうご機嫌斜めになっている。気紛れというか、気分屋というか、ただただ面倒くさいというか。まるで猫のような人だ。
「あー……」
啓太は考えるふりをする。
「じゃあ、先輩」
「……」
歌乃は返事をしない。その呼び方も、気に障ったのだろうか。
「……何か問題でも?」
「別に。じゃあ、私こっちだから。今日は助けてくれてありがとう」
歌乃の黒い髪がたなびく。彼女は別れる直前、どこか意味ありげな笑みを口元に浮かべて、
「これからよろしくね、啓太」
「……?」
そう、よくわからないことを言い残して去っていった。
「これで終わりじゃないのか」
これからよろしくね――まるで次があるような口ぶりだ。
今回が彼女と話す最初で最後の機会だと思っていたのだが。まさか、そうではないのだろうか。啓太の悪い予感は、翌日になって早速的中することになった。