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幡屋高校は、千葉県成田市にある私立の学校だ。クラスは一学年に七から八程度あり、啓太と青は四組に所属している。私立なだけあって本校舎はかなり設備が整っていて、傍から見れば大学のキャンパスのように見えなくもない。
「うわ……もう夜だな」
一日の授業を終えて啓太が外へ出たときには、既に空は暗くなっていた。部活動にも入っていない彼がなぜここまで長く学校にいたのかというと、クラスの担任から頼みごとをされていたからだった。クラスメイトが休みだったために委員会の仕事が残っていたのだが、それを代わりにやるよう言われたのだ。
「津田先生、優しそうに見えて結構容赦ないよな……」
担任には普段から助けられているところがあるので、断るわけにもいかない。何しろ休んだ生徒と同じ委員会だったし、特に啓太は担任の頼みを無下にできない特殊な事情がある。そうして半ば強制的に仕事を肩代わりしていたら、手伝ってくれていたはずの青もいつの間にか消えており、こんな遅い時間帯に一人で帰る羽目になってしまった。
いや、青はどこに行った。まあ、消える前の態度からして、面倒になって帰ったのだろうが。彼らしいといえば彼らしい。
「こんなに暗いのか」
校門を出ると、真っ暗な道が目の前に広がった。一応ぽつぽつと街灯が立ってはいるものの、生徒が安心して帰路につくにはいささか心もとない。放課後に残って部活をやっている生徒はこんな道を歩くのか――そう不安になりながら坂を下っていると、
「……あ」
一転、今の短い距離が嘘だったかのように明るい通りに出た。人もそれなりに多い。道の両脇にずらりと店が連なった古風な街並み――成田山の表参道だ。
幡屋高校は真言宗智山派の大本山である成田山新勝寺のすぐ近くにある。そのため、生徒は自然と成田山周辺の情緒豊かな道を歩いて高校へ通うことになる。参道が通学路にすり替わったようなものだ。
江戸時代から続く門前町の風景というのは、なかなかに粋なものだった。夜が近いからか、至る所から鰻の良い香りが漂ってきている。すきっ腹には厳しい通学路だ。さっさと帰宅すれば夕食にありつけると思うと、啓太の足は心なしか軽くなった。
そうして長く険しい坂を上り終えた、そのとき。
「あれって」
目を細める。長く伸びる歩道の先に、見たことのある立ち姿があった。しかも、つい数時間前に目にしたばかりの。
「暮坂先輩……だっけ」
青から聞いたことを思い出す。勉強も運動もお手の物、何もかもが完璧らしい二年の暮坂歌乃だ。その出で立ちは相変わらず美しいままだった。透き通った黒の長髪と、きめ細かな白い肌。さながら雪女のようだ。制服を着ていなければもっと年上だと勘違いしていたかもしれない。それくらい、彼女はひどく大人びた外見をしていた。
寒さによるものだろうか。ちらりと見えた頬に朱色が乗っていた。しなやかで細い足はタイツに包まれている。華奢な身体だ。それこそ雪のように、触れたら消えてなくなってしまいそうな。それもあって、彼女はどことなく儚げな空気感を醸していた。
そこでようやく気が付いたのだが、これでは啓太が彼女をつけているみたいではないか。いや、高校から成田駅までの帰路は決められているので、これは致し方ないことではあるのだが。
そもそも、どうして歌乃はこんな時間に参道を歩いているのだろう。部活に入っていない生徒はとっくに帰宅しているし、入っている生徒は未だに学校に残っている。啓太のように特殊な事情があるわけでもなし、普通の生徒が帰るには中途半端な時間帯だ。
そう考えていると、不意に前方にいた歌乃が姿を消した。脇道に逸れたのだ。
「……いや、何でそんなところに」
いよいよもって怪しい。駅に向かうだけならば、わざわざ横の細い道に入る必要はない。つまり、何か訳がある。関わらないほうが良さそうだと、啓太の勘が言っていた。
だが、どうしても気になる。学年一、いや、学校一の美人。非の打ち所がない社長令嬢。誰とも交友関係がない一匹狼。そんな人間が夕日も沈みかかっているような時間に人目につかない場所ですること。きっと、見てはいけない何かだろう。
「……」
ごくり。唾を飲みこむ。関わらなければいいだけだ。横道に入った歌乃が何をしているのか、どこへ向かったのかを確認して、あとは知らないふりをすればいい。訳無いだろう。見て、帰る。それだけだ。
石の塀で囲われた路地裏。その手前にある土蔵造りの店に体を隠して、頭を半分だけ外へ出す。すると、狭まった道の奥に歌乃がいるのが目に入って、
「――は?」
歌乃が、男になっていた。
「は?」
何が起こったのかさっぱりわからない。そのせいで二度も素っ頓狂な声を上げる羽目になった。
――どういうことだ。
目の前で起きた事象に理解が追い付かない。あまりにも荒唐無稽が過ぎる。
だって、あれは、
「先輩が、おじさんに」
――いやいやいやいや。
自分で言っておきながら、何を馬鹿なことを言っているんだと口を塞いでやりたくなる。手を押し当てると柔らかい感触。そういえばマスクをしているのを忘れていた。最初から塞がっていたじゃないか。いや、さすがに動揺しすぎじゃないのか。
「あっ」
啓太が再び驚いたような声を上げたのは、歌乃が横道から戻ってきたからだ。……歌乃だったものが。
「あれ、先輩……なんだよな」
一言で言ってしまえば啓太は今、歌乃が男の姿に変わる瞬間を目撃した。それも、結構な年の中年男性の姿に。彼女のなかから現れた感じではない。暮坂歌乃という一人の女性を形成している美しい外見が、上から他の何者かに塗りつぶされていく感じだった。
大通りの参道に出てきた彼女は、もはや原形を留めていない。彼女と呼ぶことも躊躇われるくらい、別人の男性の姿をしている。啓太がまじまじと見つめるその背中は、どこからどう見ても男の背中だった。ものすごく体格がいい。ものすごく。啓太の貧弱な身体など一撃で粉砕できてしまいそうなほど、屈強な体つきをしていた。
啓太はもう一度、歌乃が姿を変えてから戻って来るまでのことを思い出そうとする。回想するのにあまり苦労はしない。衝撃的すぎて、脳裏にしっかりと焼き付いている。
中年、いや、老齢といってもいいくらいか。六十かそこらの男。髪は短く切り揃えられており、白色に染まってはいるが清潔感があった。顔は彫りが深く、理知的で、学者や博士なんかをやっていそうな雰囲気がある。驚くべきことに変わっていたのは顔だけでなく服装もそうで、高級そうなベージュのトレンチコートを羽織っていた。背丈は百八十を超えていただろうか。かなり背が高く、先ほども述べた通り体格がいいため、見た者を怯ませるような威圧感があった。雑にまとめてしまえば、強く賢く、そして頑固な爺という風貌だ。
「一体何が起きて……いや、まさかな」
啓太には、歌乃の身に起きている事象に思い当たる節があった。もし本当に啓太の予想通りであるなら、このまま彼女を放っておくわけにもいかない。
「あれ、先輩、どこに」
思案している間に、男に扮した歌乃はどこかへと去ってしまっていた。慌てて周りを見回すと、少し離れた場所で立ち止まっている。老齢の男性は何か考えている様子だったが、あまり間を置くことなく店のなかに入っていった。
――店?
啓太が目線を移動させる。今、歌乃が中へ入っていった店は、
「居酒屋――って、まさか」
啓太の背中を、悪い予感が悪寒となって駆け抜けていく。
この薄暗い夕暮れ時、居酒屋は既に夜の営業を始めているころだろう。つまり、酒の提供が当たり前になる時間帯だ。今の歌乃はどこからどう見ても大人の男だ。仮に成績優秀で孤独な箱入り娘が酒を飲んでいたとしても、誰も咎める人間はいない。
そして、もし歌乃の体に起きている異変が、啓太の抱えている問題と同じ類のものであるなら。やはり今回ばかりは見て見ぬふりもできないだろう。
「関わりたくはないんだけどな……!」
唇を噛んで走る。歌乃が入った居酒屋は、参道の景観を崩さないよう配慮された二階建ての建物だった。入口に着くやいなや、勢いよく扉を開く。
「いらっしゃ――」
瞬間、店の中の空気が固まる。同時に、啓太も理解した。
――俺、制服じゃん。
歌乃を心配して店に入ったのに、これでは逆効果というか、ミイラ取りがミイラになるというか、とにかく啓太が目立ってしまっている。
だが、ここで退いては追いかけてきた意味がなくなる。というより、このまますごすごと扉を閉めて家に帰る勇気など啓太にはない。これ以上恥をかくことがないよう、泰然とした態度で入店するべきだ。多分。
「一名です」
「……こ、こちらへどうぞ」
男性店員が困ったように席へ案内してくれた。溌剌な若者に見えるから、いつもであれば元気な声で客の来店を祝福するのだろう。
啓太は短く、されど気持ちをしっかりと込めて「すみません」と呟きながら、カウンター席に腰掛ける。そして手渡されたメニュー表を見る……ふりをしながら、咄嗟に周囲の状況を確認した。
「こんな時間でも、割と人はいるんだな……」
まだ日が暮れたばかりだが、既に店内は多くの人で賑わっていた。仕事が早めに終わったサラリーマンや地元の爺さん婆さんが中心だろうか。人が多いのはあまり望ましい状況ではないのだが――そう思っていた矢先、目的の人物を発見した。
「いた――」
啓太の座っているカウンター席の奥、キッチンを挟んだ向こう側。床が一段高くなっている座敷席の片隅に、ベージュのコートを着た男がいた。
――あれ、本当に中身は先輩なのかよ。
とてもじゃないが、中に女が入っているとは思えない。白髪の男性は畳の上に胡坐をかいて座っていた。誰がどう見たって仕事帰りのダンディなおじさんだ。どちらかというと洒落たバーのほうが似合いそうな気はするが、それにしたって酒場でくつろぐ姿が様になり過ぎている。
「お待たせしましたー!」
と、ちょうど歌乃のテーブルに店員がやって来た。既に何か注文していたらしい。彼女は一体何を頼んだのか――『ソレ』を目視した瞬間、啓太の動きが止まる。
「はい、生一丁!」
大きなジョッキに並々と注がれた、黄色い液体。歌乃はそれを受け取ると、取っ手部分を握り締めて、――ぐいっと飲み始めた。
「あ……」
あんぐりと、マスクの奥で口が開く。中年の男性が美味しそうに飲んでいたのは生ビールだった。正真正銘、アルコール度数約五パーセントの、酒。
遅かったのだ。啓太がうだうだしている間に、歌乃は注文を済ませていた。
そして彼女はビールをほとんど飲み干して、白い泡を髭のようにつけたまま、
「うまい…………………………」
恍惚とした表情で、未成年飲酒を楽しんでいる。
うまい、と日常生活のストレスを吐き出すように漏れ出た声は、確実に齢十六やそこらの可憐な女子高生が出せるものではなかった。おそらく外見だけでなく声帯まで変化しているのだろう。まさか、男の姿に変わったら声まで野太い中年男性のそれに変わってしまうとは。
あれでは、もう暮坂歌乃という存在が完全に消えてしまっているのと同じではないか。
「う、ううん……」
啓太はメニューを見て悩んでいる素振りをしつつ、どうしたものかと考える。歌乃は啓太にとって無関係の他人だ。別に法律に違反して酒を飲んでいようが知ったことではない。そもそも現状、あれは法律違反と呼べるのかどうかも怪しいのだ。中身は未成年の少女だが、見た目はただの中年男性である。
彼女を止める作戦があったわけでもない。やはり考えなしに追いかけてしまったのは失敗だったか。そもそも、あの場慣れした感じを見る限り、「本体」が歌乃なのか中年男性なのかも判然としない。実は男の姿が本物で、女子高生に成りすましていた可能性だって十分にある。
しかし、啓太が早々に後悔し始めていたそのとき。
「……あれ?」
啓太の目つきが不審なものを見つけたときのように細められる。メニューから目を離したとき、歌乃の様子がおかしいことに気が付いたのだ。
つい先ほどまで酒をあおっていた白髪の男性の手から、ジョッキが消えている。一度テーブルに置いたらしい。ところが、それだけではない。執拗に周囲を確認しながら、彼は右腕をコートのなかに押し込んでいた。まるで、片腕を隠すように。
何をしているのか気になって、啓太は体をもぞもぞと動かす。前にキッチンがあるせいで、店員が邪魔になって見えづらい。男の落ち着いた顔が焦燥を含んだものになっているあたり、歌乃の身に何らかの緊急事態が発生したと考えられるのだが。
男の見た目に姿が変わる――つまり変身といって差し支えないだろう。おそらく今、歌乃は中年男性の姿に変身して酒を飲んでいる。しかし突如として焦ったように右腕だけを隠し始めた。変身、居酒屋、未成年飲酒。これだけ条件が揃えば、その謎の行為が意味するところなど一つしかないはず。
「まずいな」
店員が移動した隙に奥を覗き込めば、ビンゴ。啓太が予想した通りだった。
歌乃が必死に隠していた右腕は、ベージュのトレンチコートなどではなく紺色のブレザーに包まれていた。あれは幡屋高校の女子の制服だ。
つまり今――歌乃の変身は解けかけている。
なぜかはわからない。酒を飲んで酔いが回ったことで気が抜けたのかもしれない。ただ原因がなんにせよ、ピンチであることに変わりはない。歌乃の慌てぶりを見る限り、変身を制御できなくなったのは初めてなのだろう。あれほど冷静さを欠いていては、このまま全身が歌乃のものに戻ってしまう可能性も大いにある。そして同時に、やはり「本体」は女子高生のほうであるという事実も察することができた。
そうなれば先ほどの話も変わってくる。中年男性の姿ならば問題がなかった。しかし酒を飲んでいたのが制服を着た高校生だとバレてしまえば、取り返しのつかないことになるだろう。
このままでは大変なことになる。次第に歌乃の姿が男から女へと変貌していく。右腕だけだったのが、胸へ、左腕へ。ベージュのコートの中から、紺色のブレザーが現れ出す。
何か手を打たなければ。啓太はそう考えた。たった一秒。たった一瞬。それだけでいい。彼女が落ち着きを取り戻す瞬間さえ作ることができれば、すべて丸く収まるはず。啓太にはわかる。彼女が『持っている』ことを、確信したから。
「……!」
だが、その一瞬をどうやって作り出せばいいのか。それはわからない。考えなどない。
考えなどないはずだったのだが、気付いたときには、啓太の体は動いていた。
「ス――」
席から立ち上がる。深く息を吸いこむ。
たった一瞬、店内にいるすべての人間の注意を引けばいい。
何か周りが驚くようなことをして、目線をこちらに集中させればいいのだ。
歌乃の変身が解けていく。まだ誰も気付いていない。
男の口元から、女の柔らかな唇へ。あと数秒と経たずに、彫りの深い顔は消えてなくなる。
その前に、その直前に、啓太が全員の気を引く――瞬間、
「ビール、一杯くださいッ!」
稲妻。
雷が耳元で鳴ったかのような大声が、轟いた。
「……⁉」
動と静。シンと、静まり返る。夜の居酒屋とは思えないほど、静寂に満ちた空間。
突如として店員や客たちの耳朶をつんざいた、とてつもない大音量の注文。
それに全員が驚いて、店の中央、カウンター席で立つ啓太を見つめている。
姿が元に戻りかけていた歌乃なんて、誰も見ようとはしない。
「……びっくり、した」
客のなかの誰かが、呟く。それを皮切りに、店内は元の喧騒を取り戻した。
「すげえ声だったな」
「おう悪ガキ、制服着といてそりゃロックだな!」
「まだ耳キーンとしてるんだけど」
「あ、あはは……」
啓太が作り笑いを浮かべながら席に座り直す。完全に、やってしまった。注目を集めるとはいっても、やり過ぎだろう。
「あの、年齢確認を……」
すると、最初に彼を案内した若い男性店員が近づいてきた。苦笑いを浮かべている。本当に申し訳ない。啓太は自分の顔が上気して真っ赤になっていくのを感じながら、虫の羽音のような小さい声でようやく注文した。
「すみません、オレンジジュースでお願いします……」