プロローグ
――Nothing ventured, nothing gained.
チャイムが鳴る。四時限目が終わり、昼休みを迎えた私立幡屋高校の校舎内が一気に騒がしくなる。周囲の生徒たちは弁当箱を手にすると、それぞれの友人がいるほうへ思い思いに散っていった。
矢船啓太は、教室の右後ろ、もっとも出入り口に近い位置に座っている。彼は鞄から弁当ではなく財布を取り出すと、そそくさと廊下へ出た。一年四組と記された表札を横目に、真っ直ぐに伸びる白い廊下を歩いていく。
階段を下りたあと、本校舎の裏口から外へ。十一月の外気はほんの少し肌寒い。しかしそこから少し歩けば、目的地はすぐそこだ。本校舎と隣接している旧校舎の一階にある、購買。
啓太はここの購買を利用したことがなかった。普段は母親が弁当を作ってくれているからだ。ただ、今日は仕事で忙しかったのだろう。朝起きたときにはもう、テーブルの上に千円札と「何か買って」という書き置きが残されていた。
「腹、減ったな……」
啓太はぶらぶらと歩きながら、脳内で三日月型をした独特な形状のパンを思い浮かべる。食欲をそそるバターの香りに、サクサクした食感。購買ではパン類も売っているらしいから、きっとクロワッサンも置いてあるだろう。
と、啓太が旧校舎に入ろうとしたそのとき、
「いてっ」
肩に痛みを感じて振り返る。それと同時に、啓太を何人かの男子の集団が追い越していった。状況的に、あのなかの誰かとぶつかったのだろう。
「謝るくらいしろよ」
眉をひそめながら、制服を着崩した男子生徒たちを睨み付ける。返ってきたのは、廊下に反響する煩わしい靴音のみ。内履きの色からして、おそらく上級生だ。関わると面倒なことになりかねないので、今のことは忘れて購買の扉を開ける。
しかし運の悪いことに、
「……あ」
啓太の口から漏れ出た嘆息は、彼が身に付けていた白いマスクに遮られる。
購買は思っていたよりも広く、おにぎりやサンドイッチなど定番のものが揃っていた。なかには勿論クロワッサンも陳列されていたのだが、本当に運の悪いことに、その前で先ほどの上級生たちが群がっていたのだ。
ガラの悪そうな彼らはパンを手に取ろうともせず、下らない冗談を言い合ってはげらげらと大声で笑っている。下品で、はしたない。迷惑な先輩たちだ。このままではクロワッサンを買うことができなかった。
「……はあ」
少し悩んだあと、啓太は近くにあった別のパンを手に取ってレジに向かった。
場所を空けてもらえますか――たった一言、そう伝えるだけで済むことはわかっている。だが、啓太にはそれができない。言ったことで逆ギレでもされたら、たまったものではないからだ。君子危うきに近寄らず。わざわざ危険を冒してまでそんなことを言う気にはならなかった。
仮にその奥にあったものが欲していたものであったとしても、リスクを背負うくらいならば、啓太は大人しく諦めるほうを選ぶ。
「ありがとうございます」
釣銭を財布に突っ込む。何だかそのまま教室に戻る気分でもなくなって、啓太は本校舎の裏へ移動した。購買からは近いが、何しろ校舎裏だ。人の気配などほとんどないようなものだから、一人でゆっくり過ごすのに丁度いい。
しかし、どうやら先客がいたらしい。ぽつんと設置されていた二人掛けのベンチに座ろうとすると、その下に猫がいたことに気が付いた。野良だろう。両の目がくりくりした、可愛らしい黒猫だ。
「おまえもひとりか」
にゃあ、と愛くるしい鳴き声を返した猫を見て、啓太の目元が緩む。口元も緊張がほぐれたように笑みを浮かべているのだが、如何せんマスクをしているために、外側からはうかがえないだろう。啓太はスマホを取り出して、相手を刺激しないように写真に収めておいた。
猫はベンチの下で憩いの時間を楽しんでいるらしい。邪魔しないよう、啓太は猫がいないほうに腰掛けた。膝に置いたビニール袋からパンを取り出して、包装紙を破る。マスクを顎まで下ろしてから、ひと思いにかぶりついた。
素朴な炭水化物の風味に、重厚な炭水化物の風味。クロワッサンから焼きそばパンにランクダウンしたわけだが、ふむ、なかなかに美味い。ゼロリスクでこれだけのリターンを得たわけだから、やはり啓太の選択は正解だったと言えるだろう。
「あ、啓太。こんなところにいた」
そうして昼休みを満喫していると、不意に隣から声を掛けられた。
啓太はぎょっとして、左を見やる。
「……青」
「よっ」
目を丸くした啓太に向かって片手を上げたのは、一言で言ってしまえば美少女だった。先ほどの黒猫に勝るとも劣らない可愛らしい瞳に、天然ものの豊かな睫毛が乗っている。鼻筋や口元も一級品で、すらりと伸びた手足からはモデルのような雰囲気まで漂わせていた。
名前は佐倉青。啓太と同じクラスで、幡屋高校における啓太の唯一の友人でもある――男だ。
「今日、弁当じゃないのか」
「寝坊しちゃって」
青は照れたように笑うと、遠慮することなく啓太の隣に腰掛けた。あ、と啓太が情けない声を出したときにはもう遅い。ベンチの下にいたはずの黒猫は、突如として眼前に現れた生身のふくらはぎに驚いて逃げてしまったらしい。
「どうしたの急に。スカートの中、見たいの?」
「違う。野良猫がいたんだよ、下に」
「猫?」
啓太は仕方ないというふうに上体を持ち上げて、青の生足から目を離す。
佐倉青――生物学的には男だが、彼は好んで女の格好をしている。つまり、高校にいる今も女子生徒用の制服を着用しているというわけだ。しかし、顔も声も果てには体格までもが女のようだから、もはや本物の女子にしか見えない。
「……でも、珍しいな。青が弁当じゃないって」
「そ? 俺が寝坊するなんてしょっちゅうでしょ」
彼とは高校入学と同時に出会ったのだが、正直なところ、半年以上経過した今でもその一人称に慣れていない。何しろ、美少女としか形容できない外見なのだ。そんな彼が自分のことを「俺」と呼ぶのは、凄まじい違和感がある。
「いや、そっちじゃなくて。青なら、寝坊したら登校時間に間に合わせるより弁当を作るほうを優先するだろ」
佐倉青とはそういう人間だった。ルールだとか規則だとか、そういう堅苦しいものに縛られない性質なのだ。そもそも、校内において認められていない衣服を着用する――「女装」をすることも校則で禁じられていたはずだった。
「ああ」
青は気が抜けたふうに答える。
「まあねー。今日はなんか、料理するのが面倒だった」
「そうか」
「啓太こそ、今日は弁当じゃないんだ」
「親が忙しかったみたいで」
「連絡してくれたら啓太の分は作ってきたのに」
「意味わかんないだろ、それ」
言っていることの整合性が少しも取れていない。だが、言った本人である青は何の疑問も抱いていないようだった。本当に快楽主義というか、自分がやりたいと思ったことに忠実な男である。
「だって、啓太の分なら作る気になるし」
「変なものを入れられるからか」
「そ。自分のを作るより楽しい」
「やっぱりな……」
胸のあたりまで伸びた濃い茶髪を指でいじりながら、青がにかっと笑う。それを見て、そういえば髪も染めてるんだよな、と啓太は今更ながらに思った。青の長髪は一応ストレートヘアだが、律儀にも毛先だけ毎朝ワンカールさせているらしい。彼の頭髪には、清潔で可愛らしい印象があった。
「っていうか、購買行くなら先に言っといてよ。俺、しばらく教室で啓太のこと探しちゃったじゃん」
「ああ、いやごめん。青、寝てたから」
啓太と青は普段であれば、教室にいたまま二人で弁当を食べている。ところが今日は、母親にイレギュラーな事態が起こっていた。そのうえ青が四時限目の途中から居眠りをしていたので、仕方なく一人で購買に向かったというわけだ。友達の少ない啓太ではあるが、寝ている友人を何の理由もなしに放っておいたりはしない。最低限の協調性はある。おそらく。
しかし、啓太の弁明も青には効果がなかったらしい。彼はむっとした表情を崩さないまま、さらに口をへの字に曲げてみせた。
「確かに寝てたけど、起こしてくれればよかったのに」
「パン買ったらすぐに戻るつもりだったんだよ」
「でも、猫を見つけたから座ってしまったと」
「まあ……」
「やだねー。こんなに可愛い子を侍らせておいて、放置プレイとは」
「変な言い方するな」
啓太が咎めるような目つきで青を見やる。しかし、当の本人は素知らぬ顔で別の方向を見つめていた。それだけでなく、青の右手はひらひらと左右に揺れている。
一体誰に手を振っているのか――そう疑問に思って彼の目線の先を追ったことを、啓太は一秒と経たずに後悔した。何を隠そう、青は遠くにいる女子生徒から手を振られていたから、優しげな笑みを携えて振り返していたのである。
青はその奇抜な在り方のせいで、クラスメイトだけでなく、この幡屋高校の生徒たちから距離を置かれている。それはそうだろう、と啓太は思う。学校に女装して来ている容姿端麗の男なんて、大抵の者は警戒して近づいてこないに決まっている。それこそ、君子危うきに近寄らず、というやつだろう。
ただ、青のような変わり者を好む弩級の変人というのは存在するもので、彼は一部の女子生徒からは異常なほどに愛されていた。青は男でありながら、女のように美しい並外れた外見を持っている。きっとそこが彼女たちの性癖に突き刺さったのだろう。
そんなこんなで青は今、自身をアイドルのように扱う女子たちに向けて、いそいそとファンサービスに励んでいるというわけだ。
「みんな可愛いなあ、バカっぽくて」
「同感だよ」
「なに、妬いてんの?」
「いや、別に」
「冷たいなあ」
けらけらと笑う青。啓太の素っ気ない態度を気にしている様子は微塵もなかった。
こいつのことはよくわからない。それが本音だ。ただ、悪いやつではないし、何より青以外に友達がいない。
どうしたって青と関わっていくことは避けられないなと思いながら、啓太は焼きそばパンを胃の中に押し込んだ。ごみを片付けて、顎の位置まで下がっていたマスクを付け直す。
「あ、あの人」
すると、ぼんやりと辺りを眺めていた青が、突然声を上げた。
「あの人?」
「ほら、あそこ」
青が指差したのは、先ほど啓太が歩いていた旧校舎の出入り口だった。
啓太もそちらへ視線を向けると、購買から教室に戻る途中だろう、一人の女子生徒が歩いている。
長く伸ばした濡れ羽色の髪に、きりりとした顔立ち。身長も女子にしては高く、かなりスタイルがいい。何と言うか、そのまま映画に出ていたとしてもおかしくないくらいの美人だった。同じく器量よしである青と並んだら、まるでどこぞの国の王子と姫のように見えるだろう。無論、青が姫だ。
「……いや、誰だよ」
「え、知らないの?」
青が仰け反る。その反応はいささかオーバーリアクションのような気がするが、どうもそういうことではないらしい。
「二年の暮坂歌乃センパイ。有名だけど」
「暮坂先輩……知らない」
「さすがだね」
青がおかしそうに笑っているのは放っておいて、啓太はもう一度だけ、その有名らしい先輩を見る。確かに学年の間で話題になりそうなくらい強烈な美人だが、やはり知らないものは知らない。
それに誰が有名だとか、そんなゴシップに関わるような話には興味がない――そう冷めた顔で彼女の背中を追っていた啓太の目つきが、一瞬にして豹変した。
「なに、どうしたの」
隣の友人の異変を察知したらしい。青が怪訝そうに啓太の目線の先を辿る。
「……もしかして、クロワッサンが食べたかったの?」
正解だ。さすがは変なところで観察眼に長けた青というところか。
歌乃が本校舎に入っていく直前、啓太は見てしまった。彼女の右手に握られた、あの三日月の形をしたパンを。クロワッサン――啓太が求めて、けれど手に入らなかった、あの。
「あの先輩、何者だよ。あいつらを押しのけて、クロワッサンを……」
「何を言ってるのかわかんないけど」
今にも「ぐぬぬ」と唸り声を上げ始めそうな啓太を、今度は青が呆れたような目で見つめる。
「あの人、成績優秀で運動神経も抜群、それでいて周囲が引いちゃうくらい美人っていう、絵に描いたような完璧超人なんだってさ。班のほとんどがサボってやろうとしなかった授業の発表も、全部一人でこなしたうえに最優秀賞まで取っちゃったって。しかも家が超金持ちの社長令嬢」
「はあ……いるんだな、そういう典型的なの」
きっと、きつい性格をしているのだろう。あの凛とした佇まいを見ればすぐにわかる。正直、関わりたいとは思わない。
「うん。まあ、そんなだから、学校でもいつも一人だって」
やっぱりな。出かかった言葉は、マスクに吸い込まれたように消えた。
「勉強も運動もできて、美人で完璧……なんか、俺に似てるかも」
「何言ってるんだよ」
青が口元に指を当てながら当然のように言うので、おかしくて笑ってしまった。その溢れんばかりの自己肯定感を少しくらい分けてほしいものだ。
「でも、やっぱり違うか」
青もつられたように笑う。
「俺には啓太がいるもんね」
こういうとき、彼が男であることを忘れてしまいそうになる。何とも罪深いことに、青の照れたような笑顔はいつにも増して女子っぽさが強い。啓太はどきっとした内心を隠すように咳払いしたあと、「そうだな」と素っ気なく答えた。
「で、啓太は何でクロワッサンを買えなかったの」
「掘り返すな」
「いいじゃん」
やはり前言撤回したほうがいいかもしれない。青は青だ。男とか女とか、そんな狭い二元論には囚われない。もっと柔軟で、幅広い。美少女であり美青年である、このネチネチと粘着質に人の痛いところを突いてくる顔だけはいい何か。それが青だ。
「……笑うなよ」
「笑わないよ」
「先輩がいたんだ」
仕方がないので、啓太は洗いざらい喋ってしまうことにした。
「関わったらやばそうな、怖い先輩たちがクロワッサンの棚の前にいて……。だから、買えなかった」
「それで、仕方なく焼きそばパンを買ったと」
「そう」
「ぼふっ」
「笑うな!」
何だよその噴き出し方は、と思ったものの、青も青なりに啓太を気遣って我慢したのだろう。それでも耐え切れずに変な笑い方をしてしまうあたり青らしいというか、余計たちが悪い。
青は可愛らしい顔を喜色満面にしている。何とも腹立たしいことこの上ない。彼は目の端に浮かんだ涙を拭いながら、「ごめんごめん」と謝った。軽い。
「啓太らしくて可愛いなって思ってさ。でも、そんな先輩なんか、啓太の力でビビらせちゃえばいいじゃん。『持ってる』んだから」
そう言って再び口元に指を当てる青は、どこか艶めかしい。所作が小悪魔っぽいからか、表情が悪戯を企んでいるような挑戦的なものだからか。それとも、リップを塗った唇がやけに色っぽいからか。だが、今はそんなことを考えている暇などない。もう時間がないのだ。
「嫌だよ。話が余計にこんがらがって、面倒な状況になるだけだろ」
「そうかなあ」
「そうだよ」
煩わしそうに言葉を返した啓太が立ち上がる。それと同時に、昼休みの終わりが近づいていることを知らせる予鈴が鳴った。さっさと教室へ帰らなければ、授業に遅れてしまう。
「関わらずに済む人間とは、関わらなくていいんだ」
「……啓太らしいね」
振り返る。日に当たると茶色に見える、少し色素の薄い短髪。良くも悪くもない平凡な目元。顔の下半分を覆う、真っ白なマスク。身長、百七十センチメートル。
『普通』を体現したかのような彼、矢船啓太は――ほんの少しだけ、ある一点において、特別だった。
「ほら、戻るぞ。青」