冷蔵庫の年輪
希望に満ちた新生活を迎えようとする若い男がいた。
その若い男は、この春から進学して学生になることが決まっている。
実家は古くからの名家で、特に祖父の代からは社会貢献活動も行っていて、
祖父も父親も世間では人格者として名が通っている。
そんな父親から、進学するその若い男のために、
部屋を用意してくれることになった。
父親が用意してくれたのは、古い木造アパートの一室。
そのアパートは古くからその若い男の家が所有していて、
かつては祖父も父親も、代々そのアパートの同じ部屋に住んでいたという。
そのアパートの部屋に住み込みで管理人の代行をすれば、家賃は無料。
管理人の代行とは言っても、アパートの掃除や設備の見回り程度のもの。
将来のための社会勉強になればと、その若い男は引き受けることにした。
「社会貢献をするにしても、まずは自分の生活ができないとな。
学校の勉強だけじゃなく、一人暮らしや管理人もいい勉強になるだろう。」
そうして春が来て、その若い男はその古い木造アパートに入居することになった。
その若い男がその古い木造アパートに引っ越しする日。
僅かながらの荷物とともに、その若い男はアパートの部屋に足を踏み入れた。
その部屋には、かつて祖父と父親が住んでいた頃の家具が置きっぱなしで、
古くなっていることを我慢すれば、すぐに生活する準備が整っていた。
古めかしい箪笥、机、椅子などの家具、
その中で一際目を惹いたのは、古い冷蔵庫だった。
学生の一人暮らしにはやや大きめのその冷蔵庫は、
上下に扉がついているよくあるタイプの冷蔵庫。
下の扉を開けるとそこは冷蔵室で、空っぽの中身は微かな冷気が漂うのみ。
それから上の扉を開けると、そこは冷凍室。
手入れがされていないせいか、冷凍室には分厚い霜が張っていた。
冷凍室の四方に数cmはあろうかという分厚い霜が迫り出している。
分厚い霜を指先で突いて、その若い男は言った。
「この冷蔵庫、古いから冷凍室に霜ができちゃってる。
でも、これ取っちゃいけないんだよな。」
すぐにでも冷凍室の掃除をしてしまいたいところだが、
しかしその若い男には、祖父と父親から言い渡されていることがあった。
祖父と父親曰く。
冷蔵庫は人の生活を預かる大事な物。
冷凍室の霜は、冷蔵庫の年輪のようなもの。
多少掃除する程度ならいいが、完全に取り除こうとしてはならない。
そのように言い渡されていたのだった。
「こんなに分厚い霜を取っちゃいけないなんて、
これじゃ冷凍室が狭くて仕方がない。
でも、お爺さんと父さんには逆らえないしなぁ。」
その若い男は困り顔で、冷凍室の霜とにらめっこ。
そうしていると何だか霜にも感じるものがある。
ただの分厚い氷の塊ではなく、歪んだり波打ったり、澄んだり濁ったり。
よく見ると冷凍室の霜は千差万別、ユニークな形をしている気がした。
「・・・言われて見れば、霜の形ってちょっと面白いな。
この冷蔵庫は一人暮らし用にしては大き目だし、
冷凍室に霜が張っているくらい、まあいいか。」
そうしてその若い男は、祖父と父親からの言いつけ通り、
冷蔵庫の霜は取らずにそのまま放っておくことにした。
空き家のはずの部屋に電気が通ったままになっていたことなど、
その時は気にも留めていなかった。
それから間もなくして学校が始まり、その若い男の新生活が始まった。
その若い男は、初めての一人暮らしと勉学とアパートの管理人の仕事をこなし、
社会貢献活動にも参加するなど忙しい日々を過ごしていった。
元より優秀なその若い男は、進学した学校でも学業優秀、
さらには社会貢献活動にも勤しんでいるということで、
祖父や父親に負けず劣らずの人格者として評価されていった。
季節は過ぎて夏になったある日のこと。
その若い男が暮らすアパートで、大規模な停電が起こった。
周囲の建物には明かりが点っていることから、
停電しているのはこのアパートだけ。
どうやら停電の原因はアパートの設備の問題のようだと推測された。
その若い男は代行とは言え管理人なので、
業者への手配などに追われることになった。
ところがここで問題が発生。
夏のお盆の季節なので業者の手配がつかない。
方々に手を尽くしたが、数日間は停電が直らない見込みとなってしまって、
その若い男は頭を抱えた。
「参ったなぁ。夏の暑いこの時期に停電だなんて。
明かりは何とかなるとしても、エアコンやなんかはどうにもならないぞ。」
試しにアパートの窓を開けてみるが、
か弱い風が焼けるような夏の外気を運ぶのみ。
冷房が効いている図書館や実家に避難したいところだが、
その若い男は仮にもこのアパートの管理人を引き受けている身。
他の住人を差し置いて部屋を空けるわけにもいかない。
仕方がなく、その若い男は、停電したアパートで過ごすことになった。
アパートが停電して数日が経ったが、未だ修理はできていなかった。
その日の深夜。
その若い男は、冷房も扇風機も使うことができず、
寝苦しい夜を過ごしていた。
「あ、暑い・・・。何か、冷たいものが欲しい。」
その若い男はよろよろと起き上がると、涼を求めて暗い部屋の中を彷徨った。
暑さで頭がぼーっとして、部屋の外に行くという思考は無かった。
台所へ向かい、停電したままの冷蔵庫に手を伸ばす。
冷蔵庫は扉の開け閉めをしなければ、中の物が保冷剤の代わりになって、
停電しても数日間は冷気が保たれる。
そのことをその若い男は知っていたので、今まで冷蔵庫は手つかず。
中にはまだ冷気が保たれていることが期待された。
しかし、それももう限界。
一刻も早く冷たいものが欲しい。
その若い男は冷蔵庫の扉に手をかけた。
扉を開けると、内部に淀んでいた僅かな冷気が漏れ出して、
台所の蒸し暑い空気に溶けて消えていった。
真っ暗な冷蔵庫の中を覗くと、そこには僅かに缶ジュースが一つあるだけだった。
「缶ジュースだ!そう言えば買っておいたっけ。助かった!」
その若い男は冷蔵庫の中の缶ジュースを引ったくるようにして取り出すと、
封を空けるのももどかしく、貪るように口をつけた。
閉じたままだった冷蔵庫は、しかしそれでも冷気がいくらか失われていて、
中に入れてあった缶ジュースはやや冷たいと感じる程度。
それでも夏の暑さに耐えるその若い男にとっては砂漠のオアシス。
天の恵みとばかりに喉を鳴らして飲み干した。
飲み干して涼を得たのも束の間、
すぐに肌に染みるような夏の暑さがぶり返してきた。
「暑い。まだ足りない。もっと冷たい物・・・」
うわ言のように呟いて、その若い男が手を伸ばしたのは、
冷蔵庫の上にある冷凍室の扉だった。
保冷剤の代わりにと、停電してからこの方、冷凍室も開けていない。
開けてしまえばこの冷蔵庫の中に冷気はなくなる。
元より冷凍室にはほとんど何も入れていないはずで、
扉を開けて調べる理由はない。
それでも、一時の涼を求めて、その若い男は冷凍室の扉を開けた。
停電の冷凍室の扉を開けると、
そこからはいくらかの冷気が流れ出してきた。
「あれ?思ったよりも冷たいな。
確か、冷凍室には何も入れてなかったはずだったのに。」
冷凍室から漏れ出た冷気の正体には、すぐに気が付いた。
きっと、冷凍室に分厚く張った霜のせいだろう。
霜は氷の塊なのだから、保冷剤の代わりとなっていたのだろう。
ただの霜が、時には役に立つことがあるものだと、その若い男は思った。
しかしその代わり、冷凍室には分厚い霜が張っていたので、
食べ物などを入れる余地は乏しかったはず。
つまり食べ物が入っている可能性は低い。
それでも、アイスクリームの一つでも入っていれば。
そう思ったのだが、しかし、
冷凍室に入っていたのはアイスクリームではなかった。
「・・・何だこりゃ?」
冷凍室に入っていたのは、長細い何かの器具、それと白い布巻きだった。
器具の方は、おおよそ察しがつく。
細長い針に小さな取っ手がついた錐のような物。
それ自体はありふれているが、
赤黒くこびりついた血のようなものが気になった。
では白い布巻きは?
その若い男が何気なく手に取ると、
布巻きの中からポロッと何かが転がり落ちた。
よく見るとそれは、切り取られた人の指だった。
「う、うわっ!?なんだこれ!?指か?」
冷凍室に入れられていたせいか、出てきた指はまだ瑞々しさを保ったまま。
生々しい断面から、作り物などではないのは明らかだった。
「誰が何のために、人の家の冷蔵庫にこんなものを入れたんだ?」
もちろん、その若い男が錐と切り取られた指を冷凍室に入れた記憶はない。
では、外から何者かが忍び込んで、入れていったのだろうか。
そんな泥棒ともいたずらともつかないことをする者がいるとは思えない。
それよりも。
その若い男には心当たりがある。
冷凍室には、ほとんど何も入れていなかった。
冷凍室には、古くからある分厚い霜があるのみ。
まさに、その霜の中に、
この血まみれの錐と、切り取られた指が入っていたのではないか。
それがここ数日の停電で溶け出して、出てきてしまったのではないか。
その推察が正しいと証明するかのように、
冷凍庫の中にはまだいくらかの霜がしぶとく生き残っていた。
では、霜はいつからここにあったのだろう。
この部屋にはかつて祖父と父親が住んでいた。
つまり、この血まみれの錐と切り取られた指は、
祖父と父親が冷凍室に入れておいたのではないか。
もっと正確に言うなら、ここに隠していたのではないか。
それが冷凍室の霜に飲まれて、忘れられていたのではないか。
その若い男にはそう感じられるのだった。
「・・・まさか。
みんなから人格者だと言われていて、
社会貢献活動にも熱心に参加してるお爺さんと父さんが、
血まみれの錐と切り取られた指を隠していただなんて。
これは想像でしかないけども、でもそうとしか思えない。
こんなものをお爺さんと父さんはどこで手に入れたんだ?」
自問自答しながら、その若い男は思う。
かつて、錐のような器具が凶器として使われていたと、
物の本で読んだことがある気がする。
おぼろげな記憶なので、器具の名前は思い出せないが。
また、指を切り取って差し出すことで謝罪とする古い風習があったと、
それもまたどこかで聞いたことがある気がした。
どちらも表立って行われることではない。
だからこそ、こんな場所に隠されていたのではないのか。
そう思うのだった。
冷蔵庫は人の生活を預かる大事な物。
冷凍室の霜は、冷蔵庫の年輪のようなもの。
祖父と父親の言葉の意味を、その若い男は噛み締めていた。
それから間もなくして、アパートは停電から復旧した。
電気が戻り、明かりが戻り、止まっていた冷蔵庫はまた動き始めた。
血まみれの錐と、切り取られた指は、どうしてここに隠されていたのか。
その若い男は、そのことを祖父と父親に聞けないままでいた。
処分に困った血まみれの錐と切り取られた指は、冷凍室に戻したまま。
あるいは、何かの悪事の証拠として、世間に公表するべきだろうか。
しかし何と言って?いつの物かもわからないのに?
そうしてその若い男が悶々と日々を過ごすうちに、
血まみれの錐と切り取られた指は、冷凍室の中で、
またゆっくりと大きく張り出す霜の中に飲まれていった。
それからいくらかの年月が過ぎて。
その若い男は間もなく学校を卒業しようとしていた。
優秀な成績により大手企業への就職が決まっていて、
いずれは祖父と父親の座を継ぐ未来が約束されている。
また、在学中から熱心に取り組んでいた社会貢献活動も認められ、
今や祖父や父親に並ぶ人格者として有名だった。
将来を嘱望される存在。
しかしその一方で、表沙汰にはできない事柄にも手を染めてきた。
誰しも生きていれば人には言えないことの一つや二つはできるもの。
綺麗なことだけをして生きている者などいない。
冷凍室に戻した血まみれの錐と切り取られた指もそのままで、
分厚い霜の中に再び飲み込まれてしまった。
今なら、冷凍室の霜の中に、血まみれの錐と切り取られた指が埋もれていた、
その理由も分かる気がする。
きっと祖父も父親も、今の自分と同じだったのだろう。
今は、その若い男が一人、古い冷蔵庫の前に立っている。
どこで手に入れたのか、その手には札束を持っている。
そしてその若い男は、手にしていた札束を、
分厚い霜が張り出す冷凍室の中に入れた。
この金は決して表沙汰にはできない金。
もしもこの金が世に知れ渡れば、今の自分の地位は失われることだろう。
しかし、この冷凍室の中に入れておけば安全であることは、
祖父と父親とそれから自分自身が証明した通り。
それからその若い男は、冷凍室の扉を閉め、アパートの部屋を出ていった。
後にはただ、古い冷蔵庫が静かに年輪を刻んでいくだけだった。
終わり。
梅雨も明けて夏本番。
少しでも涼しくなる話をということで、冷蔵庫の霜の話にしました。
かつて冷蔵庫の冷凍室は、放っておくと霜が張るものでした。
忘れたい記憶も霜のように剥がして捨ててしまえたら良いのに。
霜を剥がす様子を思い出しながら、そんなことを考えていました。
お読み頂きありがとうございました。