9話 変なところ気にしい
黒い黒い、形を得た小さな呪い。それが今リオの影の中へと飛び込んだ。
「そうだ、呪鬼だ!」
そう言ったササハの言葉を、リオはまだ理解しきれていないようだ。ただひたすらに「なに? 具体的に何がいたの??」と困惑している。
「呪鬼ってあれよ。呪具のやつ」
「呪具?!」
「そう、呪具の呪いが形になった――お父さんの屋敷に居た時にも話したでしょ」
ササハの父であるゼメアの屋敷には、まだなりかけの真っ黒毛玉の呪鬼がいた。それらは人に纏わりつき、時には感覚や感情を狂わせる。例えば普段は自制のできる落ち着いた人が、ついカッとなって硬いインク壺を投げつけるような。そんな普段なら絶対しないような衝動を引き起こすのだ。
ササハはじっと平らな影を見つめ、リオもつられて自身の足元へと視線を落とす。するとササハが突然影に手を伸ばそうとしたので、寸でのところでそれを止めた。
「ちょっと、今なにしようとしたの?!」
「まだ中にいるかなって」
「危ないかもしれないでしょ止めなさい!」
手首を掴まれ、ちぇと唇を尖らせる。
「でも、ブルメアにくっついていた黒毛玉は蹴っ飛ばせたよ?」
「そんなことしてたの??」
それでもやっぱり危ないかもと渋るリオだったが、ササハは隙をついて影に手を伸ばした。しかしササハの手が黒を掴むことなく、突き指しかけただけだった。
「~~~~~~っぅ……」
痛そうに指を庇うササハに、リオの呆れた視線が刺さる。
「なにしてるの、ホントにもう」
「だって~」
「痛いの痛いの飛んでけー」
「痛いから触らないで!」
「ごめんて」
多少熱を持っていたが、腫れてはいないし大丈夫だろう。意味はないだろうが、ササハは自分の指にフウフウと息を吹きかけた。
ただ、あの呪鬼はリオの足にピッタリとくっついていた。それが嫌で、早くなんとかしたかっただけなのだが。すでにどこかへと行ってしまったのか、痛くない方の手でもう一度床に触れてみたが何も変わらなかった。
「けど、これって……」
一瞬、リオがハッとした様子で言葉を発したが、すぐに言葉を切った。ササハはしばしその続きを待ったが、リオは「やっぱ何でもないや」と曖昧な笑みを受かべ誤魔化そうとした。
「どうしたの? ちゃんと最後まで言ってよ」
「本当に何でもないよ。それより僕らには《赤の巫女姫》の情報を探すっていう、急ぎの仕事もあるじゃないか」
わざとらしいのに、覇気がない。リオは都合が悪い事はすぐはぐらかすし、嘘ではなくても的確でもない適当な言い方をすることがある。しかし、今のリオは何か、こう――――
「もしかして遠慮してる?」
ビクリとリオの肩が揺れた。
「――――な、に言ってるのササちゃん。遠慮って、今の流れでどうしたらそんな話に」
「さっきのリオの反応、呪鬼のこと気になってるのは確かだよね」
「そうだけど、だから何? それに今はいないんでしょ? ならもう」
「でも何でもないって話を逸らした。なんで? わたしを呪鬼から遠ざけたいから? それとも本当にフェイル探しに余裕がなくて、他の事をしてる時間がないのかしら……」
「あれ? もしかして今、僕一人で喋ってた? 会話してるつもりで独り言だった? あれれ? おっかしいなぁー。ねえ、ササちゃん。僕の声聞こえてる? おーい」
呪鬼は呪具の呪いが形を成したもの。つまりは現在リオは呪いの対象ということだろうか。そして何より
「さっきのローサお嬢さんも、様子がおかしかった」
赤い髪を振り乱し、やせ細った手にナイフを握っていたローサ。
「呪鬼のせいじゃないのかな? 呪鬼が関係してて、あんなことするつもりはなかったのに、苦しんでるのかも知れないよね」
ブルメアが負の感情を暴走させたように、ローサもそうである可能性がある。
リオの表情が自嘲するように歪んだ。
「そうかも知れないけれど、そうじゃないかも知れない。それとも、ササはローサにも呪鬼が取り憑いているのを見たの?」
「見てはいないけど」
「でしょ。なら無理に解決しようとしなくていいよ。呪鬼がいるってことは、呪具があるってこと。まあ、呪鬼がササにもくっついてるって言うなら話はちがうけど、そうじゃないんでしょ?」
質問口調ながらも確信を含んだ声に、ササハは渋く頷く。それにリオが満足そうに肩を竦めた。
「なら呪鬼に関わるのはやめよう。《赤の巫女姫》に関係があると断言出来ない限りは、僕らにはなんの権限もないからね。むしろリオーク家に対する問題なら、カルアンが関わるべきじゃない」
フェイルとは関係ないどこかで、一族の誰かが、家門自体が恨みをかったのかも知れない。
「だからこの件に関わるのは止めておこうね。呪具の犯人が分からないうちは下手したら、ササちゃんも一緒に呪われちゃうかも知れな」
「もう、さっきからごちゃごちゃ煩い!」
ダン! と大きく足を踏み鳴らして立ち上がったササハに、視線が縮まったリオが怯む。
「心配してくれてるのは分かるけど、わたしがリオに呪鬼がついたままなのが嫌なの!」
確かにササハが――部外者が介入してはいけない問題かも知れない。それでもササハに先程の出来事をなかったことにすることは出来なかった。リオに取り憑いていた呪鬼。そして様子のおかしい夫人とその娘。
「リオに何かあったら、わたし絶対に嫌だからね!」
何かあった場面を想像したのか、半泣きで鼻をすすりだしたササハにリオは眉を歪めて吹き出した。
「降参です。ササちゃん、僕を助けて~」
「助けるし、もちろんローサお嬢さんのことだって守るし。だって、わたしだって騎士様になったし、リオの妹ちゃんよりお姉さんだし」
「そうだね。ササちゃんてば立派なお姉ちゃん」
「リオはお兄ちゃんでしょ!」
先ほど自分が呪鬼に取り憑かれていた時はそこまででもなかったのに、ローサもそうかも知れないと思い至った時、リオの表情が変わったのだ。
だからササハにお願いしようとして、けれどそれもと思いなおして……本当に世話の焼けるなお兄ちゃんである。
ササハはぐしぐしと雫がこぼれる目元を拭い、これから世話を焼いてやるはずのリオにあやされる。子供扱いしないでほしい。これで本当にベルデに九歳児扱いで紹介したらどうしてくれようと、今は関係のなかった苛立ちを上乗せさせる。
いつまでも幼子よろしく頭を撫でてくるリオに、流石に乗せられた手を払い落とす。
「いつまでもなでなでしないで! 子供じゃないんだからっ」
「なに言ってるの? ササちゃん(副音声:九歳)は子供でしょ?」
「むきーーー」
「何をそんなに怒ってるの? お兄ちゃんに話してごらんよ」
「面白がってるぅ! 顔が、意地悪に、笑ってるぅ!!!!」
「あっはっはっ」
足を蹴っ飛ばしてやると、ササハが一歩後ろに下がった時。
「ノア・リオーク! オ前、オ嬢サマを泣かせたのカ!」
鋭く冷たく、なのに怒りの熱を含んだ声がリオを咎めた。
「レイラさ――――きゃあ!」
しかしササハが相手を捉え、その名を呼ぶより早く大振りの蹴りがリオを吹き飛ばした。
「リオ! レイラさん、なんで!」
冗談にしては本気の、容赦のない一撃。リオは少し離れた場所で壁にぶち当たり、口の中を噛んだのか、口の端から赤い液体が一筋垂れ落ちた。
「ぃ、たたぁ。ちょっと洒落にならない力で蹴るじゃん」
リオは普段のふざけた調子で言おうとしたが、痛みが強いのか、苛立ちが隠しきれていない。そんなリオを下に見るレイラの瞳は冷え切り、それを後ろからレイラに抱きすくめられたササハが間近に見上げる。
「レイラ、さん。貴女、どこに行って来たんですか?」
ササハの声が強張った。数時間前、屋敷の探索をしてくると一人離脱したレイラ。そんな彼女の肩口には、真っ黒に染まった呪鬼がつかまっていた。




