5話 レンシュラの話
朝日が差し込む少し前。一の鐘すら鳴っていない早朝。
ササハは宿屋を飛び出し町の中を走り回った。昨晩は興奮のあまり眠れないかもと思ったが、借りた部屋に入り、寝具に腰を下ろしたところでササハの記憶は終わっていた。
久しぶりのまともな寝具に気も緩んだのだろう。村にいた時はよく、日中に山の木陰や、なんなら太く安定感のある木の上で昼寝をしたりしていた。だから道中の野宿も、それほど苦ではなかったが、ゆっくり休めるかと言えば別の話だったようだ。
ササハは町の中を通る川にたどり着き、橋を渡る途中で立ち止まり、乗り越える動作で欄干に腰掛けた。
川はそのまま海へと向かい、建物の隙間からは海も見える。静かな町に届く波音。登る日差しに薄暗い町に朝が広がっていた。
「ばーちゃん」
昨日会った男性は、カタシロについて知っていた。
「うふふ!」
ササハは腰掛けた欄干の上で足をばたつかせ、くるりと後転しながら立ち上がると走り出した。
「おはようございます」
「お、おはよう」
宿屋に戻り、出た時には居なかった宿屋の主人が受付にいた。いかにも海の男! の称号が合う屈強な男で、磨き上げられたスキンヘッドが差し込む朝日を反射している。
「嬢ちゃん、こんな早くから散歩か? 昨日、ちゃんと眠れたのか?」
「ぐっすりでした!」
「そりゃ良かった」
カウンター内で朝の準備をしている男と談笑しつつ、ササハは嬉しそうに入口に置いてある椅子に腰掛けた。
今は、ようやく一の鐘が鳴るくらいで、約束の時間までだいぶある。宿屋は三階建てで、一階には受付と諸々の共同スペース。あとはいくつか客室があるが、厨房や食堂といったものはなかった。
「ほら、これやるよ」
「え? 林檎!」
「まだどこの店も開いてないからな。腹減ってるだろ?」
「ありがとうございます!」
部屋に戻らず椅子に座ったササハに、宿屋の主人が林檎を差し出す。ササハは嬉しそうにそれを受け取ると、軽く磨いて皮ごと齧りついた。シャクリと小気味いい音がし、ほんのりとした酸味と甘味が香りと共に広がった。
「美味そうに食うねぇ」
「らって、おいひいから」
「そうかい! おいちゃん最近歯にシミルようになっちまってな」
歳かな、と主人はカウンターに頬杖を付きながらぼやく。
「ところで、こんな朝からどうした? なにか部屋に問題でもあったか?」
「違います。今日ここで待ち合わせをしてるんですけど、行き違ったら嫌だからもう待ってようかなって――もしかして、ここで待ってたら駄目ですか?」
「いや。今は嬢ちゃん以外のお客さんは、一組しかいないから……って、ほぉ~ん? わざわざ、こんな場所で待ち合わせだなんて」
「?」
「なんだい、そうか。嬢ちゃん、あの兄さん等と知り合いだったのか?」
楽しそうに主人が身を乗り出す。
「知り合いでは無いんですけど、昨日ちょっと」
「かぁー、いいねぇ! あ、でも勝手に相部屋になられちゃ困るよ!」
「相部屋? まさか、そんな事しませんよ」
「わかんねぇーよ? 旅先で出会った男女! 嬢ちゃんだって、しばらくこの町に滞在するんだろ? これから何が起きたって可笑しくねぇーさ」
「何も起きませんって」
「うんうん。最初は皆そう言うんだ。何も無いってな」
主人は気が済んだのか、豪快な笑い声とともに奥の部屋へと引っ込んで行った。現在宿泊客もササハ以外一組しかいないと言っていたし、暇な時期なのかも知れない。
それなら何の気兼ねもなく、入り口を陣取っていられるわねと、齧りかけの林檎を食べ進めた。
「………………」
林檎を食べて、手を洗って。
やや満たされた腹に、ササハは椅子に座ったまま眠ってしまった。そこに少し早めに現れたレンシュラが、入り口近くの椅子で寝こける少女に困惑する。
昨晩、日付が変わりそうな頃に通った時はいなかった。なら、夜通しということはなだろう。
「はあ。……おい、起きろ」
呆れた様子でため息をつき、力は込めず肩を揺する。
「んぁ?」
「大丈夫か? 疲れているのなら部屋で休め」
「? …………あ! 昨日のお兄さん!」
「レンシュラだ」
「レンシュラさん! わたしです! ササハです! おはようございます!」
「……おはよう」
待ってましたと、ササハは椅子から飛び起きる。
ササハより頭一つ半ほど背が高いレンシュラを見上げ、嬉しさのあまりニコニコしてしまう。しかしレンシュラはなんとも形容し難い表情を浮かべ、どうしたとササハは首を傾げた。
「もしかして、わたし寝過ごしましたか? 約束の時刻過ぎちゃってます?」
「いや。まだ鐘が鳴る少し前くらいだ」
なら良かったと笑顔に戻る。期待と、逸る気持ちが顔に出てしまっていたのか、レンシュラがごくごく判りづらく吹き出しかけた。
「っ、犬みたいだな」
「え? 犬!?」
「口が滑った」
「犬って、犬みたいってわたしの事言ってます?」
「朝食は? そろそろ朝市の店が出るはずだ」
「ねえ、犬って」
「何が食いたい? 買ってやる」
「あったかいお肉が食べたいです!」
「分かった」
驕りに釣られて宿を出る。
朝市は主に船乗りたちに向けたもので、大通りよりも港に近い場所に店が出ている。さらにもう鐘一つ分もすれば、昨日のように出店が増えていくはずだ。
港の方まで歩き、レンシュラは見かけによらず大食らいなのか、いったい何人分だという量を買い込んでいく。大きく膨らんだ袋を抱え、朝市の通りから少し外れた、丁度いい日陰が出来ている石階段に並んで座る。
それほど空腹感は感じてなかったが、甘辛い香りがする串焼きと、小ぶりのスコーンのようなパンもどきを一つずつ手に取った。レンシュラからはそんなので足りるのかと、視線だけで問われたが、先程林檎を食べたのでと伝えても納得した様子は無かった。
「ありがとうございます。けど、もうお腹いっぱいです」
「…………」
「そんなに頬張って、なんでちゃんとこぼさずに噛めるんですか?」
「…………。ん、単に口のデカさの問題だろ」
「エサを運ぶリスみたい、て、だからもう要りません渡してこないで。聞いてます?」
軽くあしらわれながらも大量にあった食料は、あっという間にレンシュラの胃袋へと消えていった。
「昨日の、話の続きなんだが」
食後のデザートなのに、ササハから突き返された果物を割りながらレンシュラが言う。
「多少、踏み込んだ質問をするかもしれないがいいか?」
「構いませんよ」
「…………」
「なんですか、その目。別に隠したりしないし、何でも話しますってだからその顔!」
「お前、知らないうちに身ぐるみ剥がされて死んでそうだな」
「なんの話ですか!?」
どデカイため息をもらい、むくれて唇を尖らせる。レンシュラは、何かを諦めたような表情で話を続けた。
「単刀直入に言えば人を探している。夫婦とその子供だ」
ササハは昨日のことを思い出しながら、無言で頷いた。
「夫婦のほうは昨日少し聞いたが、ゼメアという名の男性とカエデという名の女性」
その夫婦については、ササハは昨日心当たりが無いと返答している。
「子供のほうは容姿や性別、名前すら何も分からない」
「え? お子さんの性別や名前がわからないって……どうしてですか???」
「十年前から行方が分からないんだ」
いきなりの話しに、ササハは困惑を隠せなくなる。
「夫婦と言ったが十年前に結婚を反対されて、家を出て行かれた。それから一度も戻られていない」
「そ…………う、だったんですね?」
時折かしこまった口調になるレンシュラに、無意識に緊張してしまう。
「あのー、もしかして。そのお二人は何か偉い人だったり」
「旦那様は貴族で、奥様は別大陸から来た流民。俺は旦那様に拾われて――あー、旦那様の家で働かせて貰っている何かだ」
「何か、ですか?」
「じゃあ使用人だ」
あんまりな誤魔化し方に、ササハの表情も渋くなる。それでもササハにも分かった事が一つだけある。
「結婚を反対されて家を出たって……なら、レンシュラさんはお二人を連れ戻そうと?」
貴族と流民。結婚を反対されている家に連れ帰ったところで、悲しい結末しか思い浮かばない。人様の、ましてや貴族様の家庭の事情だ。何をどう考えたって、ササハに口を挟む権限はない。
そう言い淀むササハの内情は表情から筒抜けだった。
「本当に、ただの駆け落ちならそれでも良いんだ。どこかで元気にしているなら……そう俺が勝手に思っておけばいい。俺の居場所さえ知っていてもらえれば、一方的にでも手紙を貰える。実際に、子供が産まれたことは手紙で知った」
「手紙が来たんですか。いつ?」
「九年前だ。旦那様の字で《生きてる元気だ。この前子供も無事に産まれたぜ☆》とだけ書かれていた」
「・・・――。え? 本当にそれだけ?」
「本当に、あの人は……っ。カエデさんが身ごもっていた事もその時知ったし、なのに居場所やらの詳細は無く、産まれたってカエデさんと子供の体調云々色々省き過ぎだし、とにかく何もかもが説明不足でふざけんなあの■■■■男がっ」
そうとう鬱憤がたまっていたのだろうか。レンシュラの身体は小刻みに震え、手に持っていた果実が圧に耐えかねて弾け飛ぶ。飛び散った汁からは甘い香りが漂っている。
レンシュラの握った拳が開かれるのを待って、ササハはハンカチを差し出した。ハンカチを受け取ったレンシュラからは、弱々しいありがとうが返ってきた。
「………………、悪い。話が逸れた」
「仲良しそうで良いですね」
「…………………………」
「ひたいひたい、なんへ」
「……ふん。で、なんだったか? そうだ、それで確認したい。昨日お前が使っていた術について。お前はあれをどうやって知ったんだ?」
レンシュラの言う術とは、カタシロの事だ。
「ばーちゃんに教わりました」
「ばーちゃん? 歳は?」
「今年で六十です」
「姉や、他に親族はいたりするか?」
「いないと思います。少なくとも、わたしの両親はわたしが小さい時に亡くなったとばーちゃんは言ってたし、他に家族がいるとは聞いたことないです」
「……そうか」
「――あの、私のほうも訊きたいことがあるんですけど、レンシュラさんはなぜカタシロの事を?」
「カエデさんがその術を使用されていた」
レンシュラが探している人物の一人。
「カエデさんに教えてもらった話だが、術は海向こうの大陸で使う魔法とは別の不思議な力らしい。カエデさんはその術というものを扱う一族で、だから使えるのだと、そう言っていた」
「一族ってことは……普通は使えないんですか?」
「そこまで詳しいことは俺には分からない。カエデさんも屋敷での使用は控えていたし、俺も実際に見たのは数回ほどだ」
「屋敷では? 結婚はされていないのに、一緒に住んでいたんですか?」
「一緒に住んでいたと言うか、旦那様は俺も含め、人間でもなんでも拾ってくる人でな。カエデさんもその一人で屋敷で働くようになったんだ」
「なるほど」
術を使える、海向こうから来た女性。
島国であるイクリアス王国では、海を隔てた別大陸から来た人間を、海向こうから来た流民と呼び、その呼び方は差別的な意味合いのほうが強かった。
「それじゃあレンシュラさんの確認したいことって、そのカエデさんって方と、わたしに何か関係があるのかってことですか?」
「そうだ」
「……なら、そのカエデさんって方以外に、この術を使う人に会ったことはありますか?」
「お前以外にはいないな」
「話を聞いたりとかも?」
「ああ」
「そう……ですか」
つまりは、祖母には関係がないと言うこと。
明らかに気落ちした様子にレンシュラが心配の色を見せるが、ササハは気を取り直してもしかしてを模索する。
「カエデさんの年齢は?」
「今年で三十くらいだったと思う」
「わたしは十六で、ばーちゃんは六十。無理くり血縁関係であてはめるなら……姉? あとは親戚か、同じ大陸出身だけど赤の他人?」
祖母との思い出を掘り返しながら頭を捻るが、それらしいものは何も浮かんでこない。
「うーん、ばーちゃんなら何か知ってるかも知れませんが」
「話を聞くことは出来ないか?」
「今は、無理です」
「なぜ?」
「……行方不明なんです」
僅かに下唇を震わせて下を向く。
ようやく認めたかと納得すると同時に、押し隠していた不安がササハにのし掛かる。
「二ヶ月半前。ロキアに行くと出掛けてから帰って来ないんです」
祖母に会いたい。話をしたい。
それは誰よりもササハが望んでいることだった。