19話 黒の賢者
札を剥がしながら、ちょうど半ば辺りの山の端。
頂上ではなく、着いた場所は海側に面する崖の上。茂みを抜けた先は大きくひらけており、ちょっとした広場ほどの面積があった。
「なん、だ……これは」
広がるのは異様な光景。
先頭を歩いていたレンシュラが、木々の合間を抜け切らぬうちに足を止めた。
何の変哲もない、無駄に広い山の切れ目。その丁度中央辺りに、青白い光を放つ八つの杭が、円を描き地中へと深く突き刺さっている。その杭の一番上からは光の鎖が伸び、円の中心へと向かっていた。
「――ひっ」
ササハが小さく悲鳴を上げる。リオが警戒しながら剣を握り直し、レンシュラがササハを後ろに隠した。
人はいない。建物すらなく、あるのは青白い光を放つ牢獄のような八つの杭。その牢獄の中心へに繋がる光の鎖に――その先に何が捕らえられているのか、繋がれる本体は見えなかった。
あるのは覆いかぶさり、歪な山を作り上げている無数の人骨だった。
肉も残っていない、劣化も見られない美しい白の骨。それらが無数に折り重なり、山となり、合間から僅かに黒の煙が漏れ出ている事に、しばらくするまで気がつかなかった。
人骨は服を着ていた。身につけていたものか、光る牢獄の周辺には幾つもの装飾品が落ちている。イヤリングに、指輪、腕輪、男物の靴に――棒きれのような髪留めの一部だったもの。
「んーん、ふぅ、ん――んん!!」
「落ち着け、見るな」
「んぅ、ん……う――……」
飛び出そうとしたササハを、レンシュラが抱き止め口を塞ぐ。くぐもった声にいっそ抱えて走り出そうかと思ったが、リオが一歩踏み出し様子を見る。
「レン、これ……」
「………………」
「レン」
「……黒の賢者の監獄。カルアン家の……ゼメアさんの技だ」
知らない単語を拾う冷静さがササハに戻る。
「なんですか? いったい……何が起こっているんですか?」
視界の隅で、知っている洋服を見つけた。深紺色のズボンに、主張の激しい黄色い花がらのツギハギ。全体の調和なんて考えておらず、ただ祖母が好きな柄だと張り切ってササハが繕った、下手くそな縫い物。
きっと最近だったのだ。ササハから少し右寄りの、一番正面――うつ伏せに山へともたれ掛かる骸骨の一体が、外行きのシャツと一緒にそのズボンを履いていた。
現実味のない、馬鹿みたいな光景だった。いっそこれは夢で、立ったまま幻を見ているのだと言われても良かった。
理解が及ばない、無残で愚かな現実だった。
「なんで《黒の賢者》がこんな場所に……」
レンシュラが静かな声で言った。ササハは震えながらも、レンシュラからの拘束を押し返す。
「《黒の賢者》って、本当に? 《黒の賢者》はカルアン当主が別の場所に封印しているはずだろ!!」
焦った様子でリオが言う。
「分からない、だが……あの技は」
「あー、もう! もし最悪の場合が的中しちゃったら、僕等二人じゃ無理だ。カルアンの本隊、――いや、教団本殿にも報告して、他の家からも応援を呼んでもらわないと!」
「…………」
「レン!」
「あ、ああ……そう、そうだな」
青い光の杭を見つめながら生返事を返すレンシュラに、リオは無理矢理その視線を外させる。
「しっかりしなよ。今はお前の恩人探しを優先している余裕はない」
「……そうだな、悪い」
「いいよ。とにかく今は戻ろう」
「ねえ、何なの? 何で、戻るの?」
「後でちゃんと説明するから。けど、それは安全が確認出来る状況になってから」
「……でも、ばーちゃんが」
「ササハ、分かって」
「……」
「レンもしっかりしろ」
「ぁあ、……もう大丈夫だ」
波の音が聴こえた。頭上では星が輝き、異様な景色の中でササハは一人取り残される。
リオは報告用にと魔道具に記録を残し、レンシュラも神妙な面持ちでササハの知らない道具を手に取って、光る牢獄に近づいていく。
濃度測定は反応を示さない。と、レンシュラが言った。それにリオが、本当にこれが黒の賢者なら、この町に入った時点でぶっ壊れてたんだよ。成程だからかぁ! と一人で納得している。
そう離れていない場所から、ササハはその光景を眺める。
ササハの足は動かないのか、動けないのか。涙も、衝動も今はなく。なのに耳鳴りがするほど鼓動は脈打ち、狭間の世界でかろうじて立っていられた。
だから聞こえたがそれだけだった。ササハに迫る足音も、荒い呼吸に草が踏み荒らされる音も、正常に理解出来ていなかった。
「ぅ、動くな!!」
震えながらも、遠慮のない力任せな腕がササハの首を絞め、眼前にナイフを突きつけられる。小刻みに震えるナイフの切っ先に遅れて口を開け、息が吸えないほどに喉を締めつけられた。
「お前っ」
「動くとこの女を殺すぞ!」
背後の闇から駆け出してきたのはルーベンで、窪んだ目玉がギラギラと目の前の二人へと向けられている。力任せに後ろに引かれ、ササハはつま先でもがき地面を求めた。
ルーベンはなぜか、じりじりと後退するのではなく横にずれ、リオとレンシュラから距離を取りながら光の杭がある場所へと近寄っていく。
「何を考えている」
「うひ、ひひひ。なにも?」
「それ以上そちらに近づくな! それが何か分かっているのか!」
「わかっているさ! これに人を投げ入れると面白いことが起こる」
「!!」
「最悪……」
リオとレンシュラは嫌悪の表情を滲ませルーベンを睨む。
「お前ら二人。その中に飛び込めよ? そしたら女は逃してやる」
焦った様子はなく、薄ら笑みを浮かべルーベンは言った。
「町の方もヤバいみたいだし、もう俺にはここしか残ってないんだ」
一定の距離。ルーベンは青白い光に照らされながら立ち止まった。
引きずられ、月明かりの下に晒されたササハの足元に、細い棒のような物が落ちている。それのすぐ先には骸の山が始まり、祖母だった人が横たわっていた。
「ば……ちゃ」
途切れ途切れの言葉にルーベンが可笑しそうに笑った。
「やっぱりあのババアの身内だったか。広場で何か飛ばしてただろぅ? そうじゃねーかと思ってたんだ」
感が良いのか、最後の悪あがきの力か。レンシュラを盾にした影からリオが動こうとしたのを察し、ルーベンはササハの首を片手で掴み、光る牢獄の際に立たせた。青白い光がササハの鼻先を掠める。
「そんなにババアのところに逝かせてやりてぇーの?」
「くそっ」
それまで押しつぶされていた喉が開放され、大きく息を吸い込んだ。つま先立ちだった足も自立し、ササハは咳き込みながらきつく目を閉じる。
大丈夫。まだ、手も足もちゃんと動いてくれる。
ササハはナイフを握る腕を掴み、体重をかけルーベンごと真横に倒れた。
「ぐぅ! うで、俺の腕がぁ!」
折れた感触はなかったが、おかしな方向へと捻れた腕にルーベンが呻く。痛みに離れた手から逃れ、ササハは必死にルーベンから距離をとった。しかし、咄嗟に逃げた先はレンシュラたちがいる方とは逆側だった。
目前に見渡す限りの夜の海が広がり、すんでの所で立ち止まる。
間違えた。
振り返ればルーベンが迫り、リオもレンシュラもササハからはとても遠い。
「ふざけんなクソ餓鬼がぁぁ!!!!」
ササハは崖を背に、振り上げられたナイフの光を見上げた。
その瞬間。
パキンと青白い光の杭が砕け、黒い煙が星空へと放たれた。
「――――――は?」
声を漏らしたのはルーベンで、ルーベンの視界は宙に浮き、見上げるササハを遥かの頭上から見下ろしていた。
砕け散った牢獄から黒の煙が漏れ出し、集まって形を成していく。擦り切れたローブに、ボロボロの包帯のような長い布切れをなびかせる異形が、長い爪を交差させルーベンの頭を捕らえていた。
「ぁ、ああ、いやだ! いやだぁ、死にたくない! 誰か、助けてれぇぇぇ!!!!!!」
「ひっ!」
「ササハ!」
黒い異形は何もしていない。真っ赤な薔薇を一輪咲かせ、喚くルーベンの頭を掴み、握りつぶすこともせずただ宙に浮かんでいるだけ。
なのにルーベンは苦しみもがき、ただでさえ窪んでいた目元は更に深くなり、肉は細り、髪が白く変わっていく。
レンシュラが駆け寄り、抱き上げられる間も、ササハはその光景から目が離せなかった。
僅か。本当に一瞬の間。ルーベンが老いていった。生気を吸い取られると言うよりも、急速に彼の時間だけが狂った様に進み、早急に一生を終わりにさせられる。――そう表現せざるを得なかった。
ルーベンはしわしわの老人になり動かなくなった。残った血肉は黒の煙が染み込み、黒い苔のようになって、最後には灰となって崩れ散った。残ったのは服を纏った人骨だけ。
「町まで走れ! とにかく行け!」
レンシュラがササハを木々の闇へと押し出し、大剣を異形に向ける。
リオは背中しか見えない。震える足で、しかし確かに宙に浮かぶ異形を捉え、剣を構えている。
異形は服を引っ掛けているだけの骨を手放し、右手をかざす。
ササハを送り出したレンシュラが踵を返し、その気配だけでリオは足元に氷を纏い、氷は弓矢となって異形へと飛んでいく。レンシュラの大剣が炎を吐いた。
しかし異形は二人の頭上を飛び越え、異様に長い爪をササハへと向けた。
「なっ――」
走り出そうとしていたササハの視界が、黒と赤に染まる。
目の前には大きな、大人二人分の背丈の異形。灰でくすんでしまったかのような布を幾重にも巻きつけ、ササハの頭ほどありそうな大きな赤薔薇が胸元で咲き誇っている。
異形は一息でササハの目前まで迫り、異形の身体に隠れた向こう側からは、レンシュラのやめろという悲痛な叫び声が聞こえた。しかし異形の長い爪先は、ササハの右手の甲へと届いてしまった。
瞬間――。
ササハの右手の甲に植物の葉を模った文様が浮かび上がり、白の閃光が弾け飛ぶ。
白い光の洪水に黒い煙が飲み込まれ、真っ赤な薔薇の結晶が、パキンと音を立て砕け散るのが見えた。




