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17話 小さな手

 小さな痩せっぽちの掌を、両方から繋いでもらったのはいつだったか。




「ああ、金が足りない。こんな稼ぎじゃ、お前たちに新しい服の一枚すら買ってやれない」


 父親はよく困った表情で頭を抱えていた。

 母親はいつも柔らかな笑顔を向けてくれる優しい人だった。


「大丈夫よあなた。私も一緒に働くわ」


 しかし父親は、母親が働くことをひどく嫌った。


「駄目だ。そんな必要はない。見てろ、大丈夫だ。俺は今にも成功する。今は運が向いてないだけで、俺は妻を働かせるような甲斐性なしなんかじゃない。大丈夫だ、俺を信じてくれ」

「もちろん信じております。それでも」

「それでも何だ! やっぱりお前も、俺なんかには無理だとそう思っているのか!」

「違います! 違う、あなた!」


 港町でちゃんとした職にも付けず、父親はいつも焦った様子だった。

 日雇いで小金は稼いでくるが、母親が大切なお金だと手を付けないことが不満で、額が足りないのかと賭け事に手を出すようになった。

 大切な家族に苦労などさせない、俺は立派な男なのだと。それが父親の口癖であった。


「おとうさん、となりのおじいちゃんがくれたよ。いっしょにたべよう」


 それはたった一粒のキャンディ。分け合うことなんて出来ない、小さな固形物。それを息子は大事に、まるで自分たちには無縁の贅沢品であるかのように父親の元に持ってきた。細く痩せこけた手で握りしめながら。

 息子は父親に恥をかかせた。

 父親は隣の家に乗り込み、老夫を怒鳴りつけ、驚いた老夫は転んで腕の骨が折れた。そのことで間借りしていた部屋の大家とも揉めたが、部屋を追い出されることはなく、逆に大家は父親を刺激しないよう息をひそめるようになった。

 母親が父親には秘密にしていた針仕事がバレると、母親は長く美しい髪を鷲掴まれ、狭い部屋の中を右に左に引き倒された。


――おかしな薬が流行っているらしい


 そんな噂が町で囁かれ出したころ、ある日父親が庭付きの大きな家を買ってきた。間借りしていた部屋を処分し、大きな家に引っ越してから、息子は地下室に鎖で繋がれるようになった。

 息子が六つの時だった。

 息子が外に出られるのは夜の間、庭にある大きな木に鎖で繋がれる時だけ。息子が七つになる頃ようやく周囲が母親の姿を見なくなったことに気がつき、その頃父親はすでに昔の面影がないほどやつれていた。


 甘い、甘い匂いがする。庭に植えられている木に咲く、花の匂い。

 まだ海辺の狭い部屋にいる時に母親が教えてくれた、母親の好きなオレンジ色の花の匂い。

 息子にとってその花の匂いは、母親の匂いだった。その匂いに抱かれ、都合のいい夢を見た。父親も、母親も笑っていて、暖かな日差しの中、家族三人で……。


「なんで……アイツがいない? どうして? どこに行った?」


 父親は、いなくなった母親を探すようになった。


「お前か……お前が、ルイス! お前が連れて行ったのか!」


 母親を売り飛ばした金で買った家で、父親は息子に罰を与え続けた。何だその目はと頬を叩かれ、俺を馬鹿にしているだろうと鞭で打った。


 うつろな目で妄言を吐く。父親は完全に狂っていた。


 痛くて、苦しくて、悲しくて、憎くて。愛して欲しくて、もしかしてに縋って、母が恋しくて、それでも何とか生き延びた息子は十を過ぎ、化け物に出くわした。

 細い首には首輪の後。自分でもこんなに走れたのかと思うほど必死に走り、けれど木の根に足を取られ追いつかれた。

 真っ赤な薔薇を、二つ咲かせた黒の化け物。そいつの指がずくりと薄い背から胸を貫き、熱くて、痛くて、けれどすべて一瞬のうちで終わった。


 残ったのは焦燥感。

 逃げないと。走らないと。捕まってはいけない。追いつかれてはいけない。捕まると痛い。苦しい。熱い。寒い。痛い。痛い。イタイ。

 ダカラ アイツヲ ヤッツケナイト――



「駄目! 殺しちゃ駄目!」



 ササハはフェイルと向かい合って両手を広げた。


「きみがお父さんを傷つけたりしないよう、お母さんがずっと止めてくれてたでしょ! お花の匂いが、ずっとずっと、きみの側にいてくれた!」

「馬鹿が! 何をやっている!」

「うぐ、ちょ」


 間に飛び込んできたササハの腹を、レンシュラが咄嗟に抱え後ろへと飛び退いた。レンシュラは大剣を片手で持ち、切っ先はフェイルに向けたまま。


「何やってんの?! 何でいるの?」


 このタイミングでリオも現れ、彼の右手には青白く光る剣が握られている。


「待って、攻撃しないで!」

「さっきから何を言って」

「あの子はお父さんから逃げたかっただけ! なにも悪いことしてない!」


 後ろの建物からルーベンの引きつった声が聞こえ、急いで逃げ出す足音が続く。


「行くならあっちを追って! 奥さんを売って子供を虐待するくそ親父よ!」

「え、いや、いやいや……え?」

「リオ! 早く逃げちゃう!」

「分からんけどいい、行け!」

「はあ!? レンまで……もう分かったよ。行きますよ」


 襲ってくる気配が消え、大人しくなった未開花のフェイル。

 追いついたばかりのリオを追い返し、逃げたルーベンの後を追わせた。

 ササハは未だ拘束を解いてくれないレンシュラの腕を叩き、しばしの睨み合いの末、着地の許可をもぎ取った。

 黒く、大きな犬のような獣は項垂れている。辺りには甘い香りがふわり、ふわりと漂い、黒い煙が涙のようにこぼれ落ち、地面につく前に霧散して消えていく。


「この子のお母さんがね、引き止めてたんです。そんなこと――お父さんを殺しちゃ駄目って」


 レンシュラにはきっと見えていない。長い髪の女が、滴る煙に寄り添っている。女の白い腕が黒に染まっていっても、女は側を離れなかった。次第に煙は落ち着き、黒の獣だったフェイルは、黒の小さな子供の姿へと変わっていった。


――おかあさん、いるの?


 子供にも女の姿は見えていないのか、黒の子供の頬を、黒の雫が滑り落ちていく。


「いるよ。きみのすぐ隣にいる」


 女はずっとササハに助けを求めていた。ササハだけが気づいてくれたと、ずっとずっと、我が子を想いササハの助けとなりながら。

 真っ赤な、フェイルの種が輝いている。ササハは真剣な表情でレンシュラを見上げた。


「無理だ。肉体は消滅していると言っただろう。壊して開放してやるしか無い」


 ササハが何かを発する前に、レンシュラは否定の言葉を告げる。


「開花してようが無かろうが、種を植えられた時点で死んでいる」

「開放――してあげたら、あの子は救われますか?」

「……分からない。ただ、花を落とされたフェイルは消えてなくなる」

「本当に、そのまま消えてるってことは?」

「さあな。――だが、戻すことは出来ない。このまま放っておけば、いずれは花が咲いて父親を殺すだけだ」


 終わらせてやるしかない。

 レンシュラが確認を取るように、子供の胸に光る赤へと大剣を向けた。

 子供は抵抗を示さず、女も静かに子供へと寄り添っている。


――おねえちゃん、ごめんなさい。


 子供が小さく呟いた。


「レ、レンシュラさん、少しだけ待ってください」


 ササハが慌ててレンシュラの服を引く。

 ごめんなさいと、子供は黒い雫を流し続ける。


――かみのおばあちゃん、おとうさんが、ごめんなさい

「――……な、」

「? どうした、何か話しているのか?」


 子供の声はレンシュラには聞こえず、青ざめたササハの足元が揺らぐ。大きく震えだした身体を、レンシュラが腕を回して支えた。


――かみのおばあちゃん、おとうさんから、まもれなかった

「ぁ……ぃや、やめ、て……」


 そう言って子供は背後の山を指差した。

 町外れの、廃墟となった区域。その更に奥には急な傾斜ながらも山へと続く道があり、その途中の木の根元で祖母の髪飾りを見つけた。


――しらなかった。ずっと、ちょっとずつしか、まちにちかづけなくて。あそこはこわい。こわくて、ちかづけない。おとうさんがみんなを、あそこにもっていってた


 だから、おとうさんがごめんなさい。

 子供はそれっきり口を閉じた。

 嗚咽が漏れ、ササハはその場に座り込む。右手はレンシュラが掴んだままで、左手で口押さえた。擦り切れた手の平がジクジクと痛み、伝う涙が傷口に入り込む。


 レンシュラはササハから手を離し子供へと向き直る。目がどこにあるのかも分からない顔で子供はレンシュラを見上げ、なのに子供は静かに目を閉じているのだと分かった。

 再びレンシュラが大剣を振り上げる。今度はなんの邪魔も入らず、切っ先は赤の光を切り裂いた。

 黒の煙が空気へ混じり霧散する。女は両手で顔を押さえたまま、深く頭を下げた。それは誰にも伝わらず、レンシュラはササハの腕を引いて起こす。


 抱き上げることはせず、ササハは自身の足で立った。

 冷たい夜風が通り過ぎ、月が顔を出していた。レンシュラが反応するように顔を上げると、遠くからリオの声が近づいてきた。

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