9話 試しごと
バシャン、と音を立て、室内がただ水浸しになった。
「あ、あれ?」
空になったバケツを持ったササハは、困惑した表情で浮かんでいる赤い文字を見た。かけた水が素通りした赤い文字に変化は見られず、それを理解したササハはがっくりと肩を落とした。
「全然効果なかった……わたしの勘違いだったみたいです」
へにょりと下がり眉で背後を振り返る。
「別にいいじゃない。魔力を溶かした液体では、呪文の解呪は出来ないっていう一例が分かったんだから」
「ミア~」
封印が施されている扉がある小さな部屋。そこでひとつ試してみた事があるとミア、ノア、レンシュラを連れて来たのだが――――試してみたかったことは、思った結果には繋がらなかった。
(あの時は確かに、文字が溶けたのに)
昔、母のお札作りを横から覗いていた時。お札に手を伸ばしたササハが、過ってインク壺を倒してしまったのだ。黒のインクは出来上がった札の上にも流れてしまい、ササハはパニックになりながら札を引き抜いた。よく見ればインクはキラキラと輝いており、しかも垂れた雫が肌に触れると、痛みはないが光の粒は弾けて消えてしまった。
――“魔力を混ぜ合わせてあるんだよ“
驚いて母を見たササハに、母は苦笑を漏らしながらそう教えてくれた。しばらくすると輝くインクは札はもちろん、机にまで沈み込んでしまい後始末が大変だったのだ。
その時、魔力を込めたインクを拭き取ったのが、これまた魔力を込めた水だった。そう朧げな記憶をササハは思い出しだ。だから今、目の前にある赤い文字の呪文も、魔力を混ぜ込んだ水をかければ文字を消す、すなわち解除出来ると思ったのだが――――。
「キラキラ、してなかった?」
ふと、ササハは自身がぶちまけた水溜りを見返す。
少し時間は経ってしまったが、足元の水溜りに子供の頃に見た光る小さな粒は見当たらなかった。思い返して見ても、魔力を流し込んでいた時は光っていた気がするが、その後はどうだっただろうか。
ササハが何かをつぶやき動きを止めた事で、片付けをしようと背後で動き出していた同行者たちも意識をササハへと向ける。
「この水、いつまでキラキラしてたか覚えてますか!?」
振り返ったササハに、レンシュラとミアは何の話だと首を傾げた。
「水が光る? いったい何の話だ?」
「わたしが水に魔力溶かし込みたいって、バケツの水でやってみたじゃないですか。その直後は光ってたと思うんですけど、その後はどうだったのかなって」
言われてみれば今回の試したいこと、の内容を聞かされ準備をした際、ササハが魔力を流し込むのは分かった。しかしその後のことまでは注視していた訳でもなく、レンシュラとミアは「そこまで見ていなかった」と言ったが、ノアは覚えていたようで「おれ知ってる」と表情を明るくした。
「ササハの魔力、水に溶けてはなかったぜ?」
「え!?」
「ササハの言うキラキラしたの、水に溶けずにそのまま消えてた」
言ってノアは特殊魔具を具現化させ、すぐに魔力を流すのを止めた。ノアも自由に動けるようになってから色々勉強をし、リオだった記憶も断片的には理解しているようで、特殊魔具やちょっとした魔力の扱いなら出来るようになっていた。
そして特殊魔具が具現化した形から戻る際、光の粒子が空へと昇るように胡散するのだが。
「ほら、今のみたいにササハの魔力も、ササハの手から離れたらすぐに消えてた」
「・・・確かに!」
強く同意したのはササハ自身だった。ササハは魔力を込める際、そのほうが良いだろうと思い水の中に特殊魔具を沈み込ませた。水中に沈ませた特殊魔具からは光の粒が生まれ、バケツの中の水を魔力で満たし――――ているかのように見せかけ、実のところ留まることなく消えていたのである。
「そうだわ、確かにあの時、バケツの水が光ったから成功したと思ったけど、泡が割れるみたいに水面で光もパチパチしてた気がする。てことは、あのパチパチは魔力が消えてたってことになって―――― つまり、わたしは今回ただの水を室内で撒いただけね!!」
・・・うん。とんだ迷惑行為である。
「うわん! ごめんなさい、今すぐ掃除します!!」
何をやっているんだとササハは居た堪れない気持ちになり、用意していた雑巾で床をこする。落ち着けと他の三人も手伝ってくれたが、意気揚々とただの水を撒いたササハの羞恥は昇華出来なかった。
「恥ずかしい、やってしまった、ごめんなさい」
「だから何も恥ずかしがることないって言ってるでしょう! 挑戦も失敗も駄目なことじゃないの」
「ミア~」
呆れながらも慰めてくれるミアと、そんなところに座り込むなよと手を引いてくれるノアに礼を言う。ようやく落ち着いたササハにレンシュラも一つ息を吐くと、改めて呪文があるであろう扉を見た。
「だが、魔力で消す方法自体は悪くないはずだ。現に魔法陣の解除方法にも魔力による上書きをしたり、より強い魔力で湾曲させる方法もある」
そう言って目元を緩めた表情に、よく思いついたなと褒められているようで落ちたササハの気持ちも浮上する。
「あと、また挑戦するにしても、別に水に混ぜる必要はないんじゃないかしら?」
ふと、何かに思い至ったようにミアが言った。そもそもの話、なぜ水に混ぜる必要があるのかも分からないし、ササハ自身もただ母のやっていた方法をそのままやろうとしただけで理由までは理解していなかった。
「それもそうだが、よくある方法は大神官もすでに試しているだろう」
通常の魔法陣の解呪方法を試すことは、ケイレヴでも行える。しかしそれをわざわざササハたちに頼んできたという事は、ケイレヴには出来ない、もしくは知らない方法を見つけないといけないのかも知れない。
「せめて魔法陣についてだけでももっと詳しければ、参考に出来たのに……呪文はともかく魔法陣について、カルアンの研究チームに協力を要請することって出来ないんでしょうか?」
ミアの言葉にレンシュラは思案する。
「出来なくはないが――――あ、」
レンシュラの頭の中である人物の顔が過る。
「研究班に頼むとなると、色々面倒な手続き挟むことになって面倒だが、一人ちょうどいい奴がいる」
「「ちょうどいいヤツ?」」
ミアとササハが同時に首を傾げる。
「その人ってどんな人ですか? レンシュラさんのお友達?」
「友達ではない。あとお前も知っている奴だ」
「え!? わたしが知っている人!? 全然心当たりがないんですけど??」
レンシュラはくつくつと笑いながらも通信用の魔石を取り出し、どこかへと連絡を取り付けようとする。誰だ誰だとササとノアはレンシュラの近くを取り囲むが、魔石が光を帯びたことに静かになった。
『 はいはい、シラー卿ですか? 今回はどんなご用事でー?? 』
通信石からは知った男の声。ササハはその聞き覚えのある声に嬉しそうな顔をすると、レンシュラの持つ通信石に顔を近づけて相手の名前を呼んだ。
「ヴィートだぁ!!」
『 あれーその声はお嬢さん! お久しぶりっす、元気にしてはりましたか 』
ササハの声に嬉しそうに答えたのは、ハートィの双子の弟であるヴィート・カイレスだった。




