3話 甘い声
突然立ち止まり、ケイレヴを振り返ったササハの手をレンシュラが引く。警戒を顕にしたレンシュラに、ケイレヴは両手を上げ「何もしておりませんよ」と軽い調子で言う。
「本当に何もしていませんから。ねえ、ササハさん」
「……アンタはもう、存在そのものが信用出来ない」
「そんなぁ、あんまりです……しくしく」
わざとらしく泣き真似を始めたケイレヴに、レンシュラはいっそう眉をひそめた。相手は王族も無下には扱えない大神官である――――ということはレンシュラの中で既に、重要なことでは無くなっていた。
「レンシュラさん、先生のことはいいから。それよりですね」
「そんな酷いです! ササハさんまで先生のことをそんな風にっ」
「ササハ、何か見えたのか? 確かにあの扉のあたり気持ち悪い感じするもんな」
ノアも何かは感じ取っているようで、扉からは距離を取りつつ注意を向けていた。そんな中ミアだけが一人、大神官に対する無礼千万な同僚たちの態度に肝を冷やし、顔色を無くしていた。
ササハは今一度扉を注視すると、小さく頷いて口を開いた。
「わたしには扉の上に、赤い文字が書かれているように見えるわ」
「赤い文字――とは、お前が言っているフェイル化に関係する文字のことか?」
レンシュラが困惑した様子で扉を見たが、彼の目では何も確認できずササハへと視線を戻す。
「赤い文字――――ではあるんですが、その……フェイル化の時の赤い文字とが、書いてある内容が違うような気がするんですよね」
「内容が違うって、ササハにはなんて書いてあるのか分かるのか?」
「文字が読めるわけじゃないけど、文字の形や並びが全く同じじゃないって意味。例えば魔道具だったら、核になる魔石に魔法陣が描いてあるんだけど、使用したい魔法によって魔法陣は違う描かれ方をしてるの。それと同じで、あの扉に書かれてある赤い文字と、フェイル化する時の赤い文字は、使われている文字の種類は同じだと思うけど、書かれてある内容は違うと思うわ」
ササハの目にはどちらも異国の、読めない不思議な文字の羅列に見える。扉の前に浮かぶその文字列は円形描くように繋がり、その内側にまた別の文字が書かれている。
「でも、あの文字――――」
ふとササハはあることに気づき、ミアを見る。
フェイル化の赤い文字や、扉の前に存在する赤い文字。その二つはどちらも似通っており、しかしどこか、更に別の場所で見た『とある文字』を彷彿とさせる、不思議な形をしていた。
「ミアなら分かるかしら? あの文字、術を使う時に必要な、海向こうの昔の文字に似ている気がするの」
一拍の沈黙の後、ミアが大きく目を見開きササハへと詰め寄った。
「昔の海向こうの文字は、本当に奥が深くて多岐にわたるの! 同じ文字だと思っても、実は線が一本少なかったり、ちょこっと長さが違うだけなのに別の文字だったりするのよ!? 意味わかんないわよね!! でもだからこそよく見るのよ。ササハ一人に文字の書き出しを任せて申し訳ないけど、ササハにしか見えないんだから仕方ないの。でも! だからって適当には絶っっ対にしないでよね! 正確に、間違いなく書き出して! 一文字、一句、本当にちゃんと見なさいよ!! 聞いてるのササハ!」
「聞いてるし、ちゃんと注意してるからぁ~」
扉の前で座り込み、地面に広げた帳面に文字を書き写す。
「それにしても凄いわ……だって、目の前に見えない文字が書かれてて、そのせいで扉が開かないなんて――――つまりそれって、海向こうの術を実際に体験してるってことだものね! 今! まさに!!」
常に持ち歩いているのか、術に関する書物を手に興奮するミアをササハは横目にぶうたれる。
「実際って、ミアはすでにわたしのカタシロ見たことあるでしょ。なんなら今も出してあげるけど?」
「だってササハのカタシロは、術者の魔力だけで動かしてるんでしょ? 海向こうで言う『呪文』ってやつは使ってないじゃない」
「お母さんが使ってた御札には、呪文も書いてたもん!」
「でもそれは持ってないんでしょ?」
「うぬ~!!!」
扉から一定の距離で座り込んでいるのは、ササハを真ん中にミアとノア。三人で広げた帳面を覗き込みつつ、しっかりと閉じられた扉をちらりと見た。
その背後に壁にもたれ掛かるレンシュラもいるが、ケイレヴの姿はここにはなかった。
少し前、扉の文字に気づいたササハにケイレヴは「流石ササハさんですね」と元からの糸目を更に緩め称賛を送った。そしてさらに「流石ついでに扉の呪文を解いていただけませんか? いえいえ、先生には出来ないことなので、是非とも皆様にお願いしたく」とにっこにこの笑顔で言われた。それにササハが「呪文を解くってどういうことですか?」と疑問を口にすると、あの扉は呪文のせいで封印状態になっており開けられないのだと教えてくれたのだ。
しかもその呪文はケイレヴにも解呪出来ないものらしく、ササハたちにどうにかして欲しい――――と、そう言うことをつらつらと語った。その後はさらなる質問やら疑問をぶつける間もなく、気付いた時にはケイレヴはこの場を去った後だった。
「本当に信用ならん、あの神官………………」
「いつまで怒ってんんだよ。いい加減機嫌なおせって」
「怒ってない」
「怒ってないのか? ならこっち手伝ってくれよ。みんなでやったら早く終わるだろーし、そしたらあの先生に話し聞きに行こーぜ」
「………………」
ケイレヴが去り際に「解呪が済んだら、先生も皆さんとゆぅっくりお話できる時間が取れそうな気がするんです~」と言ったのを、ノアはそのまま素直に受け取っている。
「……くそったれが」
レンシュラは解読に夢中な未成年組には聞こえないよう小声で悪態を着いたが、ノアが不思議そうにレンシュラを振り返ったので視線が合わぬようそっぽを向いた。
「今なにか言ったか?」
「何も言っていない」
「そうか?」
「そうだ」
「そっか!」
元気なお返事で納得を示すノアに、苦い表情で安堵する。
「やっぱり、本に書かれてる文字とはどこか違うわね」
「だよね。本に書かれてるほうがもっと簡単って言うか、見やすくて、赤い文字のほうが線が多くて難しい感じする」
「もしかしたら呪文に使う、特別な文字や専用文字が存在してたりするんじゃないかしら!」
「確かにそれはあるかも! ああ、こんなことならお母さんからちゃんと術について教えてもらっとくんだった!」
「本当よ!」
「わーん、昔のわたしの馬鹿~」
「あらやだ~。扉の封印解いてくれてるの、ありがと~」
「「「へ?」」」
突然頭上から降った、女性の甘い声。
女を目視してからレンシュラがすかさず短剣を手にした。
(いつの間にっ!!)
見知らぬ女がササハたちのすぐ後ろに立っている。気づかれることもなくレンシュラの前を通り過ぎ、軽く世間話にでも混ざるような調子で声を掛けてきたのだ。神官ではない、むしろ夜の女性が好むような華美で大胆な布を纏う女。ゆるく波打つ金の髪は長く、零れ落ちそうな豊満な胸が、振り返ったササハの視界を遮り影をつくった。
「キサマ、いったい」
「みんな頑張って~。お姉さんも応援してるわ」
甘い、甘い香りを振りまき、それよりもさらに甘ったるい女の声が脳へと届く。その甘さにササハの意識が一瞬乱れたが、隣からの声に正気へと引き戻された。
「くっせ! 何の匂いだよ、窓を開けてくれー!」
ノアが鼻を覆いながら、窓なんて存在しない部屋をぐるりと見渡す。そして一目散に封印が施されている扉とは反対方向、唯一の出入り口へと駆け寄り勢いよく扉を開いた。しかし二重扉にするための小部屋が存在しいるため、更に遠くなった開閉音を聞きながら、残された三名は顔色を悪くしていた。
先ほど聞こえた女の声。声だけではなく、甘い匂いも、金の髪を持つその存在すら確認したはずなのに、今現在女の姿はどこにもない。
「あー臭かった。何なんだよあの女。しばらく甘いもん食いたくなくなったし」
ぶつぶつと文句を垂れながら戻って来るノアを見つめ、一先ず外に出ようと三人は目配せをした。