16話 ずっと待っていた
誰にも、祝福はされていなかった。
少ない荷物と、愛しい貴方の手をとって。
まとまった仕事はないけど、小さな仕事なら沢山ある港町に行き着いて。
古い建物の一部屋を間借りして、寒い雪の日は隙間風が冷たくて。
それでもあの人は大きくなった私のお腹を気にしてくれた。
子供をおぶったまま働いてよかったの。つぎはぎだらけのお洋服だって、お裁縫は得意なんだから。
それでよかったのよ。
貴方とあの子がいて。お腹いっぱいにならなくても、飢えること無く、あの子の成長を見守れるなら。
沢山のお金も。庭付きの一軒家も。赤の他人から羨ましがってもらえる生活も。
全部、ぜんぶ。必要なかったのに。
むせ返るような甘い香りに、ササハは硬い床の上で目を覚ました。
身体は気だるいが痛みはなく、手足も自由に動かせる。辺りは薄暗く、微かに届く波の音に首をもたげた。
見知らぬ天井はやたらに遠い。見上げた視界は四角く切り取られ、自身を囲う木の板に、ササハはそこが大きな木箱の中だと気がついた。
箱の高さを超えぬよう身を起こす。僅かに浮かせた身体の下で、親指ほどの管に紐を通した物が落ちているのに気がついた。
ちょうど首にはめ、頭は通さないほどの長さだ。
(確か、わたし宿でおじさんに……)
思いの外意識はハッキリしていた。
音を立てぬよう、細心の注意を払い周辺を確認する。
くぐもった波の音は近く、潮の香りも強い。ササハの入っている木箱の天板は外されており、見える景色から、おそらく倉庫。外には沢山の声が行き交っており、港近くだと当たりをつける。
(いったい何が……ぅ)
不意に甘い香りがササハを包み、覚えのない記憶が脳へと映し出される。
ぼんやりと、霞む視界は高く、そこは――宿の隣のめし屋。その奥の小さい部屋に、三人の男を見下ろす誰かの記憶がササハへと流れ込む。
――久しぶりの上玉だ。
どこか遠い、なのに不思議と内容は聞き取れた。
――すっかり外から人が来なくなったからな。嬉しい臨収入だぜ。
――本当は一昨日の晩に捕まえて、昨日の船で流したかったがな
――どこに流す? 娼館より市で貴族に買わせたほうが値が張るか?
――身内は?
――いないみたいだ。だから今回処理屋には回さなくていい。
――なら分け前は三等分だな。今日中には……
話し声は遠くなり、天井付近から自身が箱に詰められ運ばれるさまを見届ける。
運ばれた場所は案の定、港近くの倉庫の一つで、めし屋の倉庫として利用されているらしい。ピクリとも動かないササハの首には、先程の筒のついた紐が取り付けられている。おそらく意識を奪う魔道具だ。
その魔道具が今は筒の部分がちょうど半分に割れ、効力を失い木箱の底に転がっている。
ササハはゆっくり立ち上がると、背後を振り返った。
倉庫の中には現在、生きた人間はササハ以外いないと、背後に立つ女性が見せてくれたから。
「貴女が助けてくれたの?」
髪の長い、深い海の色を瞳に宿す女性。白くか細い身体は透き通り、薄らと向こう側を透かしている。
女はただ急いていた。
「誓う。貴女の助けになる。だから、ここから逃げるのを手伝って」
見せられた会話から、このままではどこぞに売られるのであろう。手慣れた様子に多くの被害者がいた事が想像出来る。
怖がって、怯む猶予はなかった。
「わたしはササハ。幽霊さん、貴女のお名前は?」
女は笑うだけで、何も答えはしなかった。
ササハは証拠品である魔道具をポケットに忍ばせ、倉庫の内側から扉へと張り付いた。
女の一方的な情報提供から、分かったことがいくつかある。
宿屋の主人を含め、ササハを売り飛ばそうとしているのは男三人。組織的なものかは不明。少なくとも、あと一人“処理屋“という四人目の仲間がいるようだ。
現在男たちはバラけており、倉庫のすぐ外に見張りとして一人。船の方に一人。宿屋の主人の姿はなく、港を離れた様子。
扉の隙間から入り込む日差しは赤く、もう時間がないことを示していた。
「幽霊さん。念の為、外に何人いるか確認お願いできますか?」
ササハが声をひそめて頭上へと囁く。
つい先程女に港を一周してもらい、女はササハにしか視えていないのは確認済みだ。
それ以外にも見張りをおびき出せないかと、女が漂わせる甘い匂いを大放出してもらったが、ただササハが匂いに酔っただけとなった。
「うぅ……この魔道具、使えたら良かったのに」
ササハを拘束していた魔道具。どうやら女の霊障で壊れて外れたようだが、復活する気配はなかった。
なのでササハたちに出来るのは、女に相手の情報を見てもらう事。ササハの鞄はめし屋に放置されているので、本当に丸腰である。
ササハは、倉庫の隅に寄せられていた木材を握り、震える手を落ち着かせる。
見張りに立っている男一人倒せば逃げられる。男たちは魔道具のおかげでササハが目を覚ますことはないはずだと、バラバラになっているからだ。
音を立て、中へと見張りをおびき寄せる。そして後頭部をガツンと一発で気絶させる。失敗は許されない。でなければササハ一人で、大の男と対峙しなければならなくなる。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫)
せめてカタシロがあれば。あったところで、祖母のように生き物を締め上げたりする力は出せないが、目くらましには使えるはずだ。
ササハは意味のない妄想を止め、木材を握る手に力を込めた。
(大丈夫、大丈夫、絶対に上手くいく。やってみせ)
「何やってやがる」
いつの間に扉が開いていたのか、見張りの男がササハへと手を伸ばした。
「――ひっ!」
ササハは咄嗟に木材を振り回したが、男は逆に木材を掴み自分の方へと引っ張った。
「くそ! なんで起きてんだよ!」
力任せに引き倒され、木材も遠くへと飛ばされる。治りかけの傷が開き、再び指に赤が滲む。
男は苛つきながらササハへと近づき、すんでのところでその手から逃れる。男が脅すように足元の木箱を蹴り倒す。大きな音が倉庫内に響き、ササハは震える足で別の木箱の裏へと何とか後退した。
「おうおう。そんなに震えちゃって。叫ぶ元気すらないってか?」
薄ら笑みを浮かべる男は余裕たっぷりで、ササハを奥へと追い詰めていく。女の霊が男へと体当たりするが通り抜けるだけで、なんの障害にもなっていない。
扉は僅かに開いているが、ニヤつく男の顔に叫んだところで無駄なのだろうかと、なけなしの思考が絶望を告げる。
縺れそうな足で必死に距離を空ける。余計なことは考えるな。まずは目の前の男から逃れることだけを考えろ。
(どうしよう。どうしよう。なにか、何とかしないと、なにか)
後ろ手に後退し、行き止まりに男の余裕を理解した。適当に積まれた木箱は迷路のようで、知らずの内に倉庫の奥へと追い込まれていた。
「は、残念だったな。行き止まりだぁ」
楽しげな男の声が響く。ササハは積まれた木箱の壁に絶望し、同時に、木箱に貼られていた案内札を引き剥がした。
長方形の、黄ばんだ紙にササハの赤い血が染み込む。ササハはそれを男へ放り投げると、紙が自らの意志を持つように男の顔へと張り付き視界を奪った。
「うわ! な、前が!」
「――くぅ!」
ササハはすぐ横に積み上げていた木箱へよじ登り、男の上に別の木箱を蹴り落とした。
「うわ!!」
一つ目の箱はカラだったが、二つ目はそれなりに重量があり男が低い悲鳴を上げる。
鈍い音がし男が静かになって、ササハは思い出したかのように呼吸をする。
埃が舞い、暗い倉庫の中に静寂が戻る。
(死んで、ないよね……)
確かめるのが怖くて、しかし動かない男にその場を動けないでいる。すると女が男のズボンを指差し、何かを訴えかけている。
「……な、に? 紙?」
ようやく震えが収まり、木箱からおりる。幸い男は気絶しているだけで、上下する男の身体にササハは安堵の息を吐いた。
女が必死に指差すのは男のポケットからはみ出している紙の束で、ササハはそれを引き抜き、女の誘導に従って倉庫を抜け出した。
倉庫は港から少し離れた場所にあり、入り口も海側ではなく、あえて通路を避けた裏側に作られていた。船着き場の辺りにはそれなりに人通りがあり、皆忙しなく動いている。
一瞬、助けを求めようかと思い、遠くに仲間の一人を見つけて凍りついた。仲間の男は親しげに別の男と話ており、ササハには気づいていない。
(もしかして、この町全体が……)
安直な疑心に目眩がした。
立ち止まり動かなくなったササハに、女は気を引くように頬撫でた。撫でる素振りをした。
「あっち? あっちに行けばいいのね」
女が町中を指差す。
「そうよ。ごめんなさい」
ササハは再び走り出し、女は泣きそうな顔で笑った。
女が案内してくれたのは自警団の詰め所だった。当たり前で、当たり前過ぎて不安になった。
震える声でササハが人を呼ぶと、レンシュラと訪れた時にいた、年配の男が出てきた。男は化け物の話を嫌がり、ルーベンのことを変わり者だと言っていた男だ。女が、自警団の男に、先程誘拐犯から拝借した紙を渡せと仕草で示す。
「あの、助けてくだ、……ぃ」
「あ? ……なにかあったのか。おい、血が出てるじゃないか」
傷だらけの指で紙を差し出したが、自警団の男は先にササハの心配をする。
「人さらい……売られそうになって」
「! なに言っ、いいや。どういうことだ!」
「宿屋のおじさんと、あと二人。港の倉庫から逃げてきて、あと、この紙」
再度紙束を突きつけ、ようやく男は手に取った。そういえばササハは中身を見ていない。
紙は全部で五枚程。男が目の前で紙を捲るのをぼうっと眺めて、どうやらササハを売る先の契約書のようだ。紙を凝視する男のすぐ横に、女の霊が寄り添う。
労るように、男の肩にそっと両手を置く。白髪が混ざってなければ、男の髪は女の長い髪と同じような色合いで、瞳の色はどちらも深い海の色をしていた。
「お父さんだったのね」
男には聞こえないくらいの小さな声。
「やっぱりアイツ等がっ! 大変だ、早く人を集めて、応援を」
元から疑惑があったのか、自警団の男は興奮気味に建物の中へと戻っていく。
ひとまずは、安心していいのだろうか。
男が「そうだ、嬢ちゃん。危険だから保護してやらないと」と言いながら戻って来た時には、ササハの姿はすでに無かった。
二手に別れ、ルーベンの家を先に見つけたのはレンシュラだった。
ササハの言から町外れの赤茶の屋根の家に、フェイルに息子を殺された男がいると情報をもらい、リオと手分けして家を探していた。
肝心のフェイルは、種であるためか測定石にも反応がない。
目的の家以外は空き家ばかりの閑散とした区画。何度と無く訪れた町なのに、こんな場所があったのかと、レンシュラは初めて訪れる場所に困惑を見せる。おかしな話だ。
リオを呼ぼうと通信用の魔道具を光らせる。場所さえ伝われば、声を乗せる必要はない。
不意に、町外れの更に奥の方。廃墟が途切れ山へと続く暗闇に、赤く揺らめく光が見えた。リオの到着は待たずに走り出す。赤い光は、獲物を追うように左右に揺らめいていたからだ。
「た、助けてくれ! 誰かぁ!!」
「大丈夫か! こっちだ!」
気を引くようにレンシュラが叫ぶ。
追われていたのはルーベンで、フェイルはササハの言う通り、まだ開花する前の状態だった。
レンシュラの頭についている特殊魔具が光り、丸みを帯びた大剣へと変わる。フェイルは通常の物理攻撃や、第六魔力以外の魔法攻撃は効かないのだ。
「!? 斬れない」
転がるように逃げてくるルーベンを庇うように剣を真横に引き、しかし黒の煙はいつものようにダメージを与えることはなく揺らめいては元に戻った。
(種のままだと実体がないからか? なら、直接種を断つしか無いか)
種と言っても本当に花の種のように小さなものではなく、レンシュラの握り拳程のデカさはある。多少手こずるかも知れないが、斬ろうと思えば出来なくはない。
「は、早く! 誰でもいい、早くソイツを殺してくれ!!」
(まだ逃げていなかったのか)
少し離れた建物の影に潜むルーベンに、内心舌打ちを漏らす。建物の影で悪態をつくルーベンが今も尚生きていられるのは、単に目の前のフェイルがどこか異常であるからだ。
獣の形をとっているくせに、くたびれた男一人仕留められずにいる。
(遊んでいる?)
種の状態だとフェイルの性質も変わるのかも知れないが、レンシュラにとっても初めての未開花との遭遇だ。
フェイルは頭を低くし、唸り声を上げる。
次に上体を起こした時、飛びかかり急所を晒してくれたら大いに有り難いのだが。
遠くから近づいてくる足音に、ようやくリオが追いついたかと、レンシュラは振り返りもしなかった。
「駄目! 殺しちゃ駄目!」
「――サ」
割って入った少女の声に、レンシュラは目の前の敵から意識を離した。




