26話 山の中の
少し暑いくらいの室内で、フリキティン・ナキルニクと名乗った男は細い息を繰り返している。着ぶくれした衣から覗く手足は細く、穏やかな笑みを浮かべながらも脂汗が滲む顔色は決して良いものではない。
ササハが差し出した水も口に出しては言わなかったが、何も口にしたくない――――出来ないといった様子だった。
「申し訳ない……こうなってから移動魔法を使ったのも、長時間出歩いたのも久しぶりなものでして」
ソファーに沈むように身体を預けるフリキティンは、眉尻を下げながら自身を笑った。
「本当に大丈夫ですか? やっぱりベッドに横になったほうが」
「いえいえ、どうかこのままで。今横になると暫く眠り続ける自信しかないです」
「そ……ですか」
冗談なのか違うのか、本人がそういうのならこれ以上は勧めまいとササハも引き下がる。レンシュラは護衛か、誰か側にいなくていいのかと部屋の外を探ったが、察したフリキティンが否定を口にした。
「連れてきた者たちは別に待機してもらっています…………内緒の話をしたかったので」
フリキティンが話を続ける最中もササハとレンシュラは、病人にしか見えない彼が少しでも楽な姿勢はないかと、クッションやら枕やらをソファーの隙間に押し込み快適を模索した。フリキティンは本当に優しい子たちだなぁと思いながら、抵抗することなくされるがままだった。
「お話って、もしかして《青の剣士》についてですか?」
やるだけのことはやり満足したササハは、数日前にフェスカやキャロルとしたやり取りを思い出した。《青の剣士》を倒すための協力をすると――――しかしフェスカに対し、多少の不信感が芽生え本当に良かったのかと不安に思っていたところでもあった。
それらすべてササハの顔に出ていたのか、フリキティンは小さく笑った。
「よろしければ着いてきていただきたい場所があるのです。ここからもそう遠くないので、今から出発すれば夜までには戻って来られると思います」
ササハはレンシュラと顔を見合わせた。フリキティンは穏やかな笑みを浮かべているように見えるが、フェスカと同じ色の瞳は穏やかとは言えない切なるものを感じた。
◆◆□◆◆
「ここは……?」
エンカナの町から半刻ほど歩いた場所。《青の剣士》と遭遇した地点とは反対に進んだ山の途中。町から離れた山なかに存在するのは、古びた教会のような建物。建物自体は相当古く、使われている様子はない。かと言って荒れ果て廃墟と化しているようにも見えず、相反した印象を受ける不思議さを感じた。しかもその建物の周囲は、特殊な結界で守らているかのように雪が積もっていなかったのだ。
まるでそこだけ厳しい冬が訪れることなく、緩やかな時を過ごしているような。
「ああ……やはり入れる…………」
驚いた様子のササハのすぐ横を、フリキティンが重い足取りで過ぎる。フリキティンの要望で連れてこられた場所は、着いてから説明すると詳しいことはまだ何も聞いていない。しかもあまり人には知られたくないからとこの場に居るのはササハとレンシュラ、フリキティンの三人のみで、供をすると申し出たフリキティンの護衛は無理を通して宿屋に置いてきた。そして今だ目を覚まさないフェスカの側にいるキャロルと、ササハが起きた時に外へ出ていたロニファンには何も知らせぬまま来た。
そんな無茶なことを要求してくるナキルニクの当主は、この場所までレンシュラに背負われて半刻の道を来た。本人はそれぐらいは自力で歩いてみせると言っていたのだが、暖かく平坦な宿屋の室内ですら不安定に歩くフリキティンを見過ごすことが出来なかった。
「………………中へ」
「当主様?」
雪が積もっていない境界を越えたフリキティンは建物へと一歩進む。無意識に伸ばされた彼の右手は震えており、ササハが心配そうに隣を歩いた。
ササハも、レンシュラも。どうして何も言わずナキルニク家当主の頼み事をきいているのか、明確な理由はなかった。ただ今にも消え入りそうな弱々しい見た目のせいなのか、身体に無理を強いりながらも頭を下げるフリキティンが見ていられなかったのかも知れない。
冬場だと言うのに建物の周囲は暖かく、寒さからの強張りは解けながらも、その異様さに別の緊張が現状を警戒する。
ここは何なのかだとか、何をしにきたのかなど聞きたいことはあったが、口には出さず扉へと手をかけたフリキティンを見守った。
古びた建物は見た目に反して埃などは舞わず、よく見れば塵ひとつ見当たらない。通常であれば開かれた扉からカビた空気が流れ出てきそうなものだがそれすらない。
「うわぁ……凄い…………」
そうして中へ一歩入ったササハは天井を見上げ感嘆の声をもらした。外からは分からなかったが天井には色とりどりのガラスが模様を描き、差し込む日差しが室内を彩っている。外を歩いていた時はそれほど日差しが明るいとは感じなかったが、まるでここだけは春の柔らかな明るさを灯しているようであった。
「――――――――――キシュレイ」
故にササハはいつの間にか建物の奥へと進んでいたフリキティンに遅れて気がついた。外観を見た時には教会のようだと感じた建物は本当にそうだったようで、高い天井と広い空間の奥には祭壇のような場所があった。しかし教会を訪れた人が座るための椅子はなく、手前はなにもない空間が広がっているだけであった。
そんな祭壇しかない美しい光が降り注ぐ場所。そこに自分たち以外の第三者がすでにいたことにササハとレンシュラは驚いた。建物の奥、祭壇のすぐ手前。項垂れるように膝をつき、青のマントを地に広げている誰かがいたのだ。その人物に向かってフリキティンはキシュレイと名前らしき声をかけ、しかしキシュレイと呼ばれた人物は反応を示すことはなく微動だにしない。
何かを感じ取ったのかレンシュラがササハを背後に庇ったが、フリキティンは縺れそうな足取りで名を呼んだ人物へと近づくとその正面で同じく膝をついた。
「あ、ああ……キシュレイ、友よ、我が友よ……やはりお前は、ずっとここ、に………………」
その人は片膝をついていた。その姿はまるで騎士の誓いを受けているかのようで。ササハのいる所からでは顔までは見えないが、頭を垂れる背中は広く男性であるということだけが分かった。
「キシュレイ、キシュレイ……」
ぼたぼたと涙を流しながら、友と呼んだ男の手をフリキティンが握る。対面に座し、同じ目線で背を丸め、嗚咽を漏らすフリキティンにキシュレイは応えない。動かない。
「ぅああ、あああ、あああ……」
悲痛な泣き声が響く中、僅かな――それこそ当たり前の生命活動の証明すら行わない青の背中に、ササハは小さく息を呑み涙をこらえた。
フリキティンが握った友の手は、硬く冷たく、なのに二十五年前に別れた時と変わらぬままであった。




