12話 星空の元へ
雲ひとつ無い夜だった。
夜風は冷たく、しばらく雨の降っていない山道は乾燥していて、木々が揺れて擦れる葉の音も軽い。
道などなく、枝葉は突き出て、草葉の隙間には張り巡らされた蜘蛛の巣がある。町が近いせいか大きな野生動物の痕跡もなく、好き放題に伸びた木の根に時折足を取られ、踏みしめていたはずの足場が崩れ、大切に履いていた靴も汚れてしまった。
道なき道を無理にかき分け、むき出しの肌に細い傷が走る。血が滲み、すぐに乾いて、また新しい傷が出来る。それでも、そんなことはお構いなしに、ササハは山道を駆けのぼった。
夜の山を抜け、見渡す限りの星空が広がる。
しかしササハの目に星空は映らない。ただそこに来たかった。
眼前にはロキアの町が広がり、下には大きな川が流れる崖の上。用なんて無い。ササハはしばらくの間、ただそこで立ち尽くしていた。
「何してるの」
怒ったような、少しだけ焦りを含んだ声がした。
「何してるのかって聞いてるんだけど」
山の切り口から三歩ほどは下がっていたササハの手が引かれ、更に三歩程後ろに引き戻される。
「なにも、してない。ただなんとなく」
ササハは驚かない。手を引いたのはリオだった。
答えになっていないササハに、リオの表情が険しくなる。ササハはゆっくり振り返ると、ハチミツ色の瞳と目があった。
「ノア?」
「誰?」
「貴方のこと。貴方はリオじゃないでしょ?」
「意味分かんない」
「じゃあなんて何て呼んだらいいの? わたしはササハ」
「……覚えてない。分かんない」
「そう」
静かな夜だった。
川の音も、虫の音も聴こえるのに、明け方に見る夢と現実のはざまにいるような。何もかもが自分自身には関係がなくて、なのに確かにそこに存在している。
「じゃあ、わたしはノアって呼ぶ。それしか知らないし」
「なんでだよ」
「だって覚えてないんでしょ。なら、別にいいじゃない」
「……変なやつ」
リオが視線を逸らす。ササハは前を向き、町の灯りを眺めていた。
「なあ、本当にこんな所でどうしたんだよ?」
リオはまだササハの手首を掴んだままで、離せずに側にいる。
「寒いし、危ないだろ」
「うん。そうなんだけど、なんでかな? 自分でも分かんないや」
気づいたらここにいた。ここに来たかった。
隣からリオの困惑した様子が伝わり、掴まれていた手首の力が強まった。
町を映していたササハの目がリオへ向かい、彼が外套を着ていることに気がついた。最近では夜風も冷たくなったが、フード付きの外套は流石に着込み過ぎな気もしたが。
「暑くないの?」
「別に」
「なんで此処にいるの? どこか行くの?」
「知らない。もっと上の方にいて、お前が見えたから下りてきた」
「……町を出るの?」
「知らない」
「ノアは……」
ササハは口を開いて、止めてしまった。
黙して、伏せて、無かったことにした。乱暴に山道を歩いて、疲れ切っていた。髪もきっとぼさぼさで、冷えて乾いた汗で汚れているだろう。いつか祖母が言っていた。酷く疲れた時は、そう――温泉。実物は知らない。温かいお湯に浸かって、風呂なのに場所は外で、空を眺めながら、とても心地が良いらしい。
「ササハ」
強く呼ばれて、ハチミツ色がササハを覗き込む。
「どうした。何があったんだ?」
心配だけを乗せた声音に、ササハはくしゃりと表情を歪めた。
「どうしようっ、どうしよう! ばーちゃんが、ぁ……」
力が入らず膝を付いた。手首を掴んでいた手は離れて肩を支え、ササハはぺしゃんこの鞄を搔き抱いた。
「いやだ、いやだいやだいやだ! ばーちゃん、が、ばーちゃ、ん」
「ササ」
「いやだ。どうしよう。ばーちゃんが、もし、ばーちゃんが、しん」
喉が引きつり、涙が溢れていた。体重の殆どをリオが支えてくれて、高そうな外套も地面を引きずって汚れている。
事情もなにも分かっていないだろうに、震えるササハの肩を少しだけ大きな手が必死に支えてくれている。苦しくて、痛くて、なのにその手が暖かくて、ササハは大きな声を上げて泣いた。
嫌だ嫌だと、自分でも何を言っているのか理解しないまま、声が枯れ、涙が乾き、新しく濡れまた乾いて、訳も分からず疲れ果てるまで泣いた。
「っ……ひぃっ、く、う……たの」
どれ程経ったのか、掠れた声でササハは喋った。
「ぁみ、……っく、ぁざり、ばー……んの」
殆ど聞き取れない言葉に、リオは何か持ってないかと自分の所持品を探る。しばらくしてベルトに水筒が下げられている事に気づき、ササハに手渡した。ついでにハンカチも入っていたので、素直に水を飲むササハの顔を遠慮なく拭いてもやった。
拭ってやった目元が熱を帯びて痛ましく、リオは気を逸らすように続きを急かした。
「で、どうしたんだよ。……無理には聞かないけどよ、ばあちゃんが、って」
ササハは鼻をすすり、のろのろと鞄から何かを取り出した。
棒きれの刺さった何か。壊れて欠けており、ササハも似たようなものを付けている。
「ばーちゃんの、髪飾り。お揃いなの」
「……でも、これ」
「割れてた。近くに……、い、犬みたいな黒い化け物、がいて、その近くに、」
割れた断面には血が付着しており、リオが息を呑むのが分かった。ササハは違うと首を横に振り、無意識に傷跡を擦った。
「この血はわたしの。さっき、握った時に切っちゃって」
「怪我したのか? 大丈夫か?」
「平気」
「なら、お前のばあちゃんは?」
「分かんない。わたしは見てないんだけど、ばーちゃんが……襲われてるの見たって、人がいて……」
「……」
「聞きたくなくて、話の途中で逃げて来ちゃった」
ササハの手が大きく震え、髪飾りを落としそうになり指に力を込める。
「止めろ。強く握るな。また指を切るぞ」
「ん。そう、なんだけど」
「痛いのは嫌だろ。ほら、ゆっくり離せ」
解くようにリオがササハの指を剥がしていく。しかし欠けた飾りを奪い取ることはせず、傷ついた手に破片が刺さっていないかと眉を寄せる。
「お前なんか巻くもの持ってないのかよ」
「この間投げちゃった」
「投げ……? 意味分かんねーな」
「ノアこそ持ってないの? ハンカチの一枚くらいマナーでしょ」
「お前の涙と鼻水でぐちゃぐちゃのならあるよ」
「ぅえ」
「んだよその顔! 引いてんじゃねーよ!」
「冗談よ。――――――ありがとう」
「ぅ、………………おう」
ササハの震えはまだ治まらないが、だいぶマシにはなった。
強張った身体から力を抜き、ササハはしゃがんでいた体制からその場に尻をつけて座った。崖側に足を伸ばして息を吐き出すと、じっとりとした疲労感が全身に広がっていく。
そのササハの横にリオもなぜか並んで座る。
同じ様に足を伸ばし、なのに視線だけは心配するようにササハへと向けられていた。
「なあ、手。たぶん、薬みたいなの入ってた」
「みたいって……何の薬?」
「知らね」
「なにそれ。じゃあ、いいわよ。それに勝手に使うとリオが困るかもだし、そこまで痛くな」
「そっちの白いラベルのを使え。赤いのは毒消しだ」
「「ぎゃあ!!」」
唐突な第三者の声に同時に叫び、ササハとリオは大きく後ろを振り返った。
「ぇっ、レンシュラさん!?」
「何だコイツ! 知り合いか?」
「…………」
ササハの真後ろにある木に寄りかかって立っていたのはレンシュラで、リオが威嚇しながら立ち上がる。そんなリオのことは無視して、レンシュラはリオとは反対側のササハの隣にしゃがみ込み、先程リオが取り出した薬を物色し始めた。
「そっちの。お前」
「な、なんだよ」
「この布と水筒。水筒はそこを押しながら回せば開く。薬を塗る前に汚れを拭いてやれ」
「! 分かった」
「お前は――、ひとまずそれを離せ。片方ずつでも良い、手をゆっくり開くんだ」
レンシュラは再び握り込まれたササハの手を指で突く。レンシュラもリオと同じく、フード付きの外套を着ていた。
ササハは言われた通り手を開き、自分でするからとリオから水筒を奪い取ろうとする。リオはそれを大きく避け、おれがするから黙ってろと、布を水で濡らし真剣な表情でササハの指を拭っていく。
正直だいぶ沁みたが、ササハは我慢して取り繕った。一生懸命リオが拭ってくれた手を、今度はレンシュラが取り、しかしササハはへにょんと眉を下げレンシュラを見た。
「……二人共、町を出るんですか?」
町の門はとうに閉まっている。
「いや」
「でも、外出る時の服着てる」
「冷え込むからな」
はぐらかされた回答だったが、町を出るわけではないようだ。
慣れた手付きで薬を塗られ、包帯を細く切り固定する。
手をすっかり拭い終わったリオは、今度は腕や、その次は顔から首筋へと布を当てようとしてササハに拒否られた。
「首はいい! くすぐったいし、恥ずかしい!」
「恥ずかしいってなんだよ? お前あっちもこっちも、傷だらけだろ」
「枝でちょこっと掠っただけだから平気よ」
「おい、騒ぐな。暴れると包帯が緩む」
「だってノアが」
「なんだよ。おれなにも悪くないじゃん」
「わたしは嫌って言ったのに、無理にしようとした」
「嫌とは言ってない」
「言った!」
「言ってない!」
「やめろガキか」
「だってノアが!」
「違うお前だろ!」
「はあ……」
レンシュラは大きなため息をついたあと、改めてリオを見る。
「俺はレンシュラだ。お前は?」
レンシュラの問いにリオは答えられず、俯いてしまう。
「知らない。分かんない」
「わたしはノアって呼んでます」
「ノアでいいのか?」
「…………」
「ノアでいいじゃない?」
「なんでササハが決めるんだよ」
「ノアが決めないからでしょ」
「おれは、別に……なんでも」
「ならノアで」
「…………」
「文句があるなら自分で決めなさいよ」
「うっせー、バーカ、泣き虫ブース」
「なっ」
「ああ、もういい。これ以上騒ぐと崖から吊るすぞ」
「「ふん!」」
「はぁ…………」
二人でそっぽを向き合い唇を尖らせる。しかしレンシュラの薬を塗る手が止まっていると、リオはそれを奪い取り、嫌がるササハの顔に塗り込んでいく。
レンシュラも知らない、リオの姿。
包帯を巻いたササハの指を、レンシュラはじっと見下ろす。結われていたはずの髪は何房か解け、小さな葉っぱがいくつも絡まっている。目元は赤く腫れていて、昼間に別れた時には想像もしなかった姿だ。
「俺たちの仕事は、基本複数人行動なんだ」
「?」
脈絡のないレンシュラの言葉に、ササハは首をかしげる。
言葉にはしなかったが、レンシュラは少しどころか、だいぶ前から二人の様子を見ていた。一緒に山を登っていたリオの様子が、急におかしくなって走り出したからだ。
「明日、話をしよう。お前が見た黒い化け物について」
ササハの喉が、くっと引きつり、ゆっくりと頷いた。




