40話 核
濡れた青の瞳と向かい合う。まだ幼さが残る少年。おそらく彼らが初めて出会った頃の年齢なのだろう。少年のことを伯父と呼ぶササハに、メルは落ち着きを取り戻して頷いた。
現在ササハがいる場所は夢の中なのか、上下も分からぬ真っ黒な空間で、なのに目の前にいるメルの姿ははっきりと分かった。
――あの、伯父…………えー、と。子供の姿のメル君を伯父さんって呼ぶのは変な感じがするから、今までどおりメル君って呼んでも良いかな?
「どうぞ、貴女が呼びやすいように」
――ありがと、ございます
戸惑いながらも、誰かと言葉を交わすことで頭の中を整理する。
――とりあえず、ここはどこなの? 《赤の巫女姫》はどうなった? わたしは無事に目的を果たせたのかな?
確かにあの時、ササハは見上げるほどの巨体に手を伸ばし届いた気がする。しかし今ササハの周囲にはメル以外の人物はおらず、辺りもただの黒一色である。
「……ここはどこでもありません。あえて言うなれば貴女の意識と繋がったどこかとしか」
――わたしの意識と?
「ええ、貴女が持っているそれが原因ではないかと」
――それ? それっていったい何の…………え?
そう人さし指を向けられ、ササハは右手で握りしめていた『何か』に気づく。それは一枚のハンカチ。黄色の花が刺繍されたハンカチだった。
それをメルが切なげな表情で見下ろしていた。
「それは僕の宝物でした」
過去形の言葉に眉根が寄る。
「彼女から頂いたものの中でも特別で、一番で。なのに……いつしか、なぜそれが特別なのか、なぜ一番なのかが思い出せなくなっていて。大事なものだということは分かるのに、それ以外の何もかもが分からなくなっていて、思い出せなくて。……それが許せなくて『まじない』をかけました。後に呪具となってしまうようなモノを、作ったのです」
ササハがひゅっと息を呑む。なんとなく分かっていたが、本人の口から聞くのとでは違った。
「…………順を追ってお話しましょうか。貴女のおかげで、今ここに在るおかげで、僕も何があったのか知ることが出来たので」
そう言ったメルに持っていたハンカチを返そうとしたが、メルはそれを受け取らなかった。
「貴女も気づいているでしょうが、《赤の巫女姫》の呪いは、その呪いを受けている者の記憶を周囲から奪うというもの。ただ、この場で垣間見えた他者の記憶から推測すると、それは記憶のみの現象で、すでに現存する物体や記録にまでは影響を及ぼさないようです」
――???
後半部分で首を傾げてしまったササハに、メルは説明を付け足してくれた。そして、その後のメルの話を要約するとこうだった。
《赤の巫女姫》の呪いは、呪われている対象者が他者と対面し認識された時点で影響が出る。
それは対面した者から記憶を奪うため呪いの縁、つまりは呪鬼に取り憑かれることを意味する。なので一度呪鬼に憑かれてしまえば、何度記憶を重ねようとその度に記憶を失うことになるのだとメルは言った。
ただ、記憶を忘れられてもなぜか呪いの対象者は庇護すべき存在として、周囲に受け入れられるらしい。そのため屋敷に知らぬ人物がいるのに、周りはそれがおかしいことだとは思わず、当たり前のように世話をするがそのことすらすぐに忘れてしまう。それがまるで『呪い』に飼い殺しにされているようで気味が悪いと、メルは疲れた声で付け足した。
また、呪いが発現する前に対象者と接触していても、対象者の記憶は過去のものから全て奪われる。しかしその場合に、記憶がある者とない者の間でズレが生じ、一度記憶を奪われた者はそのズレをおかしいことだと認識することは出来ず、そのことすらも忘れてしまうのだとも。
なのでメル――――ヒュメイクもティーナの次の『印』持ちが現れた時、強い違和感を覚えたのだ。ティーナの次が現れたというのなら、それは代がわりしたということ。ティーナが新当主に繰り上がったということなのだ。なのにリオークが発表した当主の名は、愛おしい少女のものではなかった。
「おかしいと思った僕はすぐにリオークに手紙を送りました。次期当主はティーナではなかったのかと。ティーナが次代の『印』持ちではなかったのかと。彼女が当主になると思ったから、僕は…………」
しかしリオーク側からの反応は、到底ヒュメイクを納得させるものではなかった。当主に関する決定に間違いはないし、変更もなかった。そうあった返信の内容にティーナの名は見当たらず、話が噛み合わない上に、やり取りを重ねる度、それまでの問答などなかったかのような返答がくる。なによりヒュメイク自身、いつカルアン当主の座を継ぎ《黒の賢者》の影響がでるか分からない状況にあった。
「僕はこのままカルアンの地に縛られ、彼女に二度と会えなくなる可能性だってあるのだと」
そう思うと居ても立ってもいられなかった。ヒュメイクは衝動に駆られカルアンを飛び出し、だが数日後には虚ろな空洞を抱えて戻る事となった。
確かめるために飛び出し、なのに何も得るものはなく、むしろ大切なものを失っただけだった。何を無くし、何を奪われ、誰に、どこに……何も分からないまま、ただただ自身の内部がすり減っていった。
そうしてヒュメイクの元に残ったのは一枚のハンカチ。どう入手したのかも思い出せない、唯一の宝物。
「なので僕はそれに『まじない』をかけてリオークへと送りました。僕がおかしくなったのはリオークに行ってからだったので、原因はリオークにあると思って」
失ったことだけは分かっていたから。取り返そうと、何度も、執拗に自身の魔力を手紙に込めて『まじない』を重ね続けた。
その間にヒュメイクはカルアン当主となった。
「だから……僕のせいなんです」
そして当然、当主となったヒュメイクにも呪いの影響が出始めた。《黒の賢者》の呪いの影響が。
「僕が縁を繋いだ。繋いでしまっていた。呪具となってしまった『まじない』を通じて、僕と彼女は繋がっていた。僕も知らぬ間に、……そして、………………きゅうねんまえ」
《黒の賢者》が封印を破った。姿を消した。その後すぐに彼の弟が別の地にそれを繋ぎ止めてはくれたが、間に合わなかった。
「《黒の賢者》の呪いが暴走し、その代償は肥大化し我が身を襲いました」
すでに早められていた老化は勢いを増し、ヒュメイクはかろうじてという程まで命を縮めた。意識の大半は抜け落ち、衰えやせ細った身体はまともに動かない。そしてなにより――
「暴走した《黒の賢者》の呪いは、私から呪具を通して、彼女の元へ、も……っ」
一瞬で年老いた少年は、背を丸め頭を抱え込んだ。ササハは思わず手を伸ばし、そっと触れた背は骨ばかりで薄く、こちらが泣きたくなるぐらい肉がなかった。
「私のせいだ、私のせいで彼女が、ぁあ、ああ」
ティーナ・リオーク。それが彼女の名前。車椅子に乗った、黄色の花を大切にしていた老女。忘れ去られた、リオーク現当主の名前だった。
そうかと、ササハは思った。
これが、このハンカチが呪具の核なのかと。壊したと思ったが、そうではなかった。不完全だった。そしてそれがまだ、ササハの手の中にある。広がる黒の空間は、呪いの残骸。呪鬼の名残だ。《赤の巫女姫》がこれまでに奪ってきた記憶は、今なお戻らず、この場に留められている。
目の前の老人の身体が黒く染まる。彼もまだ呪鬼なのだ。記憶を有したままの、呪いの形。
(呪具の核がまだ残ってるから)
ヒュメイク・カルアンの呪具は、奪われたものを取り返すための『まじない』からなったもの。煮詰まり、いつしか呪いへと変貌した想い。
(だから呪鬼は《赤の巫女姫》のところじゃなくて、呪具に集まっていたのね)
ティーナの記憶を持つ呪鬼だけは。
――メル君……ううん。伯父さん。ヒュメイク伯父さん
ササハは黒く染まったヒュメイクの手にハンカチを握らせる。
――終わらせよう
きっと《赤の巫女姫》の消滅は成功している。
――呪鬼を、呪具に囚われたままの記憶を返そう
呪いの核を壊せば、術者に呪いが返るかもしれない。ヒュメイクもどうなるか分からないけれど。
――わたし、絶対に解呪してみせるから。どんな『まじない』をかけたか教えて下さい
知っているなら解呪の方法も。
ミアが言っていた。無理に呪具を壊してはいけないと。出来れば解呪しろと。
――黄色いお花。ティーナさんと一緒に、もう一度見ましょう
自分を抱き込むように縮こまっていた老人は、少年の姿へと戻って顔を上げた。




