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11話 目撃者

 黒い獣が大きく跳躍しササハに飛びかる。

 しかし獣は遊び感覚なのか、ササハの頭上を過ぎるほど高く飛び上がり、ササハはその下を抜けて反対側に走り出す。獣の足が地に触れる前に祖母の髪飾りを引っ掴み、握りしめると同時に両手が強く震えていたことに気づく。

 壊れた飾りの断面が指を傷つけ、じくりと赤い血が滲む。その痛みがササハを現実に引き戻し、急いで髪飾りを鞄の隙間に押し込んだ。


――グルルルル


 黒の獣が唸る。黒の塊は煙のような体毛に覆われていて、口も目も判りにくい。ただ胸元にある、赤い小さな光だけが黒に交じること無く輝いている。

 ササハは足元にある枝を拾い、獣の眉間辺りを目掛けて投げたが、枝は獣をすり抜け向こう側へと落ちる。と、同時にササハは真横に走り出し、走り出した時にはしまったと苦い表情を浮かべた。

 ササハが走り出した方角には町が見え、せめて町と反対側に逃げるべきかと横目で獣の姿を探す。

 だが獣は先程の場所から動いておらず、静かにササハを見下ろしていた。


(……もしかして、襲ってこない?)

「駄目だ! 逃げろ!」


 獣に気を取られていたササハに、知らぬ声が緩みを切った。ササハが声の主を視界に捉えるより先に、獣が大きな咆哮を上げ上体を深く沈める。


「速く、こっちだ走って!」


 強く左手を掴まれ、知らぬ声と走り出した。手を引くのは無精髭を生やした男。


「アイツは匂いを辿ってる。目が悪いんだ」


 壁が崩れた廃墟を突っ切り、ほんの少しだけの距離から獣の唸り声が迫ってくる。ササハはいつものように走れずに、せめて転ばないようにと必死に男について走った。


「だから、もうすぐ。もっと、別の匂いが強いところに」


 男が息を乱しながら、独り言のように言葉を落とす。

 走って、角を曲がり、獣の声がすぐ近くでした時、突然甘い香りが広がった。

 香りを纏って、ただ走って、走って、しばらくして男の足がようやく緩まった時、ササハは夢で見た大きな木のある家の前に立っていた。

 木には小さなオレンジ色の花が沢山咲いており、甘い香りを漂わせている。


「……はあ、はあ、ここ」


 ササハは家を見上げて呟いた。

 周囲にはこの家以外廃屋となった建物しか無く、海もすぐ近くにある。後ろを振り返れば山もあり、先程の場所からそう遠くないのだと分かった。


「あの」


 安心したようにブロック塀に背を預け、ここまでササハの手を引いてくれた男に声をかける。三十代、いや四十代にも見える。ボサボサの髪に、半端に伸びた髭。くたびれたシャツはしわしわで、見た限りでは年齢は分からなかった。


「ありがとうございます」

「あ、あはは、いや、こっちこそ急に、そのごめんね。あ、俺怪しいものじゃなくて、その」


 立ち上がり、不審な動作で男は不必要な言い訳をする。


「えと、その、キミが、キミ。さっきの、さっきのが」


 興奮しているのか、男は窪んだ目を大きく開き、ササハへ一歩詰め寄った。


「誰も、分かってくれないんだ。みんな、誰も。けれど、さっき見えたでしょ、キミも襲われそうになってた、アイツ。あれ、あれがキミにも」

「あの、少し落ち着いて」


 ぐぅぅ~~。まさかのタイミングで男の腹が鳴った。


「あ……」

「よ、よかったらサンドイッチ、食べますか?」


 ササハが膨らんだ鞄をそっと撫で、男は少しの間硬直し、顔を赤くしながら頷いた。




 ブロック塀は崩れているが、夢で見た赤茶色の屋根に大きな木のある家。そこは男の家だった。

 空腹の音に話を中断され食べ物を差し出せば、すぐ後ろにある男の家でお茶を出すからと中へ案内された。

 夢で見たより時間の経過を感じさせる外観は、塗装がハゲ、家の中も所々穴が開いていたりする。

 一人で住むには大きすぎる庭付きの家。ササハは通されたリビングで困惑を浮かべ佇んでいた。


「ごめんね。片付け、汚くて。今更、来客があるとは思わなくて」


 窓は全て閉じられ、テーブルが一つに一人がけのソファ。その周りには空き瓶が転がり、衣類やらゴミやらもそこいらに散乱している。男がそれらを適当に端に寄せソファをはたくと、「コーヒーでいいかな? あとは水くらいしかないんだ」と返事も待たず行ってしまった。

 どうしようかと、ササハは迷いながらもたった一つしか無いソファに軽く腰掛けた。固い感触のスポンジは劣化を感じさせ、スプリングがぎこちなく軋む。

 部屋の光源は古いデザインの室内灯しかなく、夜でもないのに()()()()()()室内は薄暗い。リビングには大きめの窓もあるのに、中開きの鎧戸は外から開かないように打ち付けられていた。


 入り口近くには埃を被っているアンティークチェストが置いてあり、その上にも空き瓶が数本転がっている。無造作に転がる空き瓶と並ぶのは、壁から剥がれ落ちたのか、横向きに立てかかっているだけの四角い物体。


(肖像画?)


 色あせ遠目からは分かりにくいが、おそらく(えが)かれているのは男の家族で、年若い二人の男女に、父親と思われる男性と同じ髪色の子供が一人。元は壁にかけてあったのであろう場所は日焼け跡だけを残し、剥がれ落ちた肖像画は元の場所に戻されること無く放置されていた。


「お待たせしました。ホント、汚い所で申し訳ない」

「いえ、こちらこそ助けてもらってありがとうございました。あと、これさっき言ってた」


 レンシュラが買ってくれた食料を、テーブルの上に適当に出す。好意で貰ったものを他人にあげるのもどうかと思ったが、正直、今日はもう何も口にしたくなかった。


「迷惑じゃなかったら、全部貰ってください」

「そんな申し訳ないっ!」

「いいんです。ちょっと、今は食欲でないと思うので……」

「あ……」


 目の前に置かれたコーヒーにも手を付けず、ササハは申し訳無さそうに項垂れる。男は余程腹が減っていたのか、貪るようにテーブルの食料を食べ始めると、それなりの量をあっという間に食べ尽くした。

 まだ熱の残るコーヒーで流し込み、ササハが手を付けなかったコーヒーまで、最終的には男の腹へと収まった。

 男は満足そうに腹を擦ると、ようやっと現状を思い出した。


「そ、そうだ、確認したいことが、あ、その前に自己紹介。俺はルーベンと言います。仕事は、その、日雇いで大したことはしてないけど、昔からこの町に住んでて」


 キッチンから持ってきた木製の丸イスに腰掛けている、ルーベンと名乗った男は早口に捲し立てた。


「この家は貸家じゃなく、俺が買ったんだ。昔、妻がここの庭の木が好きだと言ってね。あの木もすごく丈夫なんだ。年中花が咲いて」

「あの」


 ササハは申し訳無さそうに眉を下げながらもルーベンの話を切った。


「ああ、ごめん」

「いいえ、わたしもお話の途中ですいません」

「いいんだ、本当に、ははは」

「えっと、じゃあわたしも自己紹介させていただきますね。ササハって言います。少し前にロキアに来たばかりで……、それで、さっきいた黒いあれはいったい」

「アイツ! あの、黒い化け物めっ! やっぱりキミにも見えていたんだね!!」


 ルーベンの剣幕に押される形でササハは頷いた。それに気が抜けたのか、ルーベンは前のめりだった姿勢を戻し、背中を丸めた。


「俺はアイツを殺したいんだ」


 静かに、だがハッキリと強い声音でルーベンが言う。


「なのに誰も協力してくれない、助けてくれないんだ。当たり前か。俺以外の奴にはアイツが見えない、アイツの存在すら分からいないんだからなぁ!! …………それどころか嘘だと、俺が狂ってると言いやがる。何度か町中に現れても、誰も、俺しか、俺だけにしか」

「ルーベンさん……」

「けど、なあ。キミには見えてたんだろ? 見えてたよな! あんな化け物に棒ッ切れを投げつけて、でもアイツには効かないんだ! 斧でたたっ斬ってやろうとしてもすり抜けちまう!」


 ルーベンの落ち窪んだ眼球が、暗く淀んでササハを見る。口元は笑っているのに、目は笑っていない。こんな形相の人間を、ササハは初めて見た。

 ルーベンはまだ、具体的なことは何も言っていない。要領を得ない彼の話は思いついた方向へ飛び、思いつくままぶちまける。

 狂っている。そう言われたと、ルーベンは言った。アイツを――得体の知れない、攻撃を加えることも出来ない化け物を殺したいと、そんな事を言う。


「何が、あったんですか?」


 消え入りそうな声で訊いた。訊かなければ、ずっとそのままな気がしたからだ。


「息子が死んだ。妻も行方不明だ」


 項垂れるルーベンの肩越しに、横向きの肖像画が目に入る。ルーベンと、三歳ぐらいの子供と、髪の長い女性。その髪の長い女性に、ササハは見覚えがあった。


「殺された。息子は、化け物に殺されたんだ!! なのに、アイツっ……今度は俺を狙ってやがるんだ! ずっと、九年前からずっと、ずっとずっとずっとぉぉぉぉ!!」

「ぁ、あの……わたしもう」

「キミだってそうだろう?」


 立ち上がろうとしたササハの手首を掴み、軋むソファに押し止める。


「半月くらい前かな? あの付近で老婆を見かけたんだ」


 ひゅっ――と、呼吸が止まり、頭の奥がじくじくと痛む。


「助けられなかった。間に合わなかったんだ。下手をすれば俺が危なかった」

「いい、もう、帰りま」

「その人は、キミと似たような髪飾りをしていたよ」

「ごめんなさい! 帰ります、離して!」


 ルーベンの手を払い除け、ぺしゃんこになった鞄を抱きしめ部屋を飛び出す。


「なあ、俺たちは同じだろ! 同じ境遇の仲間さ! なあ! アイツを殺そうぜ、一緒に。そうするしかないんだよ! そうだ。それしかないんだ。は、あはははははは」


 ルーベンは追っては来ず、埃臭い部屋から声だけが届く。扉に体当たりする勢いで家を出て、ササハは振り返らずに闇雲に走った。

 どこに向かっているのかは分からない。途中、何度か転びかけ、実際転倒し通行人に声をかけられたような気もする。

 海へと続く傾斜に逆らい、纏わりつく潮風を払いながら足を動かす。荒い息を繰り返し、頭も、肺も、心臓も自分の物では無くなったように勝手に暴れている。


(ちがう)


 人通りは少なく、日はだいぶ傾いている。すれ違う何人かはササハを振り返り、ササハはそれをあっという間に景色にしていく。

 町の城壁が見えた。閉門の時間が近いせいか、自警団の男が二人ほど門の近くで待機している。


(ちがう、きっと)


 閉門の鐘がなる。自警団の男たちが動き出し、通行人の何人かも門に向かって走り出す。

 早く、閉めるぞの大声の横を通り抜け、ササハは町の外へと走り抜けていった。

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