36話 暴走
剣を突き立てられた呪具は、周囲を覆い隠すほどの黒い煙を吐き出した。しかし煙はその場に留まることはせず、どこか、同一方向へと流れていく。
「うっ……」
僅かなうめき声をこぼし、頭を抱えたベルデが床に膝を着いた。聞き取れないがベルデは何かを呟き、顔色も悪い。
「リオどうしよう! ベルデさんが――――リオ?」
リオだけでなくレイラも、ベルデほどではないが虚ろな目に、青白い顔で立ち竦んでいる。
「リオ? レイラさんも、皆どうしちゃったの?」
三人とも気を失っているわけではないのに、ササハの声が届いていないのか反応を示さない。特に様子がおかしいのがベルデで、彼はついには苦しそうにうわ言を叫び始めた。
「ぁあ、あ、やめろ! 私はっ――俺は、なんで!!」
やめろと喚きながら、ベルデは何かを振り払うように両手を振り回し始めた。
(呪具を壊したせいなの? やっぱり無理に壊しちゃいけなかったんだ)
ササハはベルデを見つつも、無意識にリオの側へと移動した。その際、ササハはあることに気がついた。
(黒い煙がリオからも出てる)
ハッとし周囲を見渡せば、リオだけでなくベルデやレイラからも、黒い煙のようなものが薄っすらと出ていっているのが分かった。確認のため呪具へと視線を戻す。だが、あったのは呪具だったものの残骸。薄汚れたボロ布からは先程見た黒の煙も、呪鬼らしきものも何も見当たらなかった。
「呪具……黒い煙」
ササハはすぐ足元にある呪具の残骸へと手を伸ばす。
「ヴィートの時と似てる」
あの時もそうだった。ヴィートの時はまだ未完成ではあったが、呪具の媒体であるヴィートは呪いの対象と黒い煙で繋がっていた。その繋がりはヴィートの魔力を吸い上げ、その先にいたツァナイを暴走させた。
その黒い煙に似たものが、目の前の三人にも繋がっているのだ。
(呪具は壊れたのに)
何と繋がって、何を抜かれているのだろうか?
ササハは今しがた拾い上げたものをポケットへと押し込むと、一人部屋を飛び出した。
目的地は遠くなかった。むしろ近い、同じ建物内。
明けの館の、ササハが寝泊まりしていた部屋と同じ一階にある部屋。屋敷の奥まった場所にあり、いつも熱を放つ魔道具が、室内だけでなく廊下まで冷気の侵入を許さない暖かな場所。
廊下とは反対側の部屋の向こうには、真冬なのに黄色の可愛らしい花が咲く庭がある不思議なところ。
黒の煙の流れを追い、途中倒れ伏す雇用人たちに気を取られながらも、走る足は緩めなかったササハは目の前の扉をノックした。
返事があるとは思っていなかったので、ササハはすぐ扉を開けた。鍵はかけていなかったようで、扉は簡単に開いた。しかし室内には何も、誰もおらず、黒い煙はそのまま窓の向こうへとすり抜けていた。
煙を追うためテラスへ続く扉をくぐる。外には黄色い花畑が広がって――――いたはずだった。小さな庭には黒い煙が充満し、ササハの目には最初何も認識が出来なかった。
「メル君!」
そんな黒の煙が揺れる手前。黒髪に黒のジャケットを着たメルは辺りに同化し、ササハは彼の存在に遅れて気がついた。
メルは何をするでもなく、黒の煙のを前にただ立っていた。
「メル君大丈夫? 実はさっき呪具を……」
背中を見せていたメルに駆け寄り、そこでようやくメルが泣いていることを知った。メルの名前を呼び、軽く触れてみても、メルはただ黒い煙を前に涙を零し続けた。
ササハはメルの視線を追うように庭の中央へと目を向ける。するとそこには黒の煙の終着点であり、一人の老女が項垂れて座っていた。
「――――お、おばあちゃん大丈夫!?」
いつもは車椅子に座っていた老女。メルが彼女のために呪具を欲していたのは知っていたが、その老女が今、黒の煙が集まる箇所に身を置き動かないでいる。一見すれば煙自体の影響は受けていなさそうな様子。その姿からは煙を集め纏っているのか、逆に囚われているのか、その判断はつけられなかった。
老女は両手で顔を覆い、下を向いている。ササハはそんな老女に駆け寄ると、力を込めぬよう細い肩を揺すった。
老女は小さな声で「ごめんなさい」と繰り返していた。
「メル君! おばあちゃんどうしちゃったの? 何が、わたしどうしたら……」
黒の煙に視界を邪魔されながらも、ササハ振り返ってメルを呼ぶ。しかしメルは聞こえていないのか動かない。
ただ、どうにかしなければと一人で来てしまった。先程のリオたちの様子では声をかけたところで結果は変わらなかったかも知れないが、途端不安が襲う。
この黒い煙は呪具を壊した影響なのは間違いない。しかし、その黒い煙がなぜ老女へと集中しているのだろうか。ササハは一つ試してみたいことがあったが、この老女がどう関係しているか分からない為、実行してもいいのか分からないでいた。
「ま、前に、ベルデさんとレイラさんを止めた時みたいに」
ササハの魔力で黒いの全部押し流す。そんな力技。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「……おばあちゃん苦しいの?」
「私のせいで、ごめんなさい」
顔面を覆い隠す両手の隙間から、透明の雫がこぼれ落ちる。震える背中は冷たく骨ばっていて、今にも壊れてしまうのではと思うほど頼りなかった。
「お、おばあちゃん、わたしに任せて! わたしなら、わたしがこの黒い煙なんとかするから」
迷いを振り切りように立ち上がる。迷っていたところで黒の煙が消えるわけでもなし、ならば自分が出来ることをするしかないだろう。
そう思うのに。
(どうしてこんなに不安な気持ちになってるの?)
不安で、怖くて、嫌な気持ち。予感。
出来ることをやるしかないと思う反面、何かがササハの中でしこりを生む。
(だ、大丈夫。あの時みたいに、集中して。第六魔力をいっぱい集めるの)
相談出来る人も猶予もない。寒空の下、老女の身体はどんどん冷たくなっていく。早くこの黒い煙から遠ざけて、暖かいところへ連れて行ってあげないと。
特殊魔具を握りしめるササハの手を、別の手が掴んだ。
「消しちゃだめだ。返さないと」
具現化させかけた特殊魔具は静まり、無理矢理に集中させた意識が緩む。黒い煙の中、空色の瞳がササハを見つけて止めた。
「ノア」
「たぶん、この黒いのは無理に消したらだめだと思う」
「ノアぁぁ」
「泣くな。ほらちゃんと見ろ。上だよ上。あと黒い線」
「うえ? せん??」
泣いてないと反論する元気はなく、実際ちょっと泣いてしまっていた。目元を拭いながらも言われたものを確認するべく、ササハは上を向いた。
黒い塊のように集まっている煙。その煙を注視すると、無数の呪鬼の姿が視えた。
「ほら、アイツ等の腹まん丸だろ。あの中にまだあるから消したらだめなんだ。線だって繋がったままだろ」
言われて見た呪鬼は確かに丸い腹をしていた。彼が言うには、あの中にまだあるらしい。そしてもう一つ、線。
「あの人も取られちゃったから、これがその分の線」
そうして自分の胸元を指す。きちんと見ようと思って見れば、今度は視えた。リオの胸元から抜け出ている黒の煙は、薄っすらとした煙の線がいくつか集まって出来たものだった。
その黒の線はリオだけでなく、別の方角、屋敷や、屋敷外、それこそすぐそこに居るメルにだって伸びている。
「おれもよくは知らないけど、見たことあるんだ。あの気持ち悪い小人みたいなの。アイツがさ、人のの腕から出てきたの」
「え!」
思わず小さな叫びがもれる。彼の言う人が誰かは分からないが、気持ち悪い小人は恐らく呪鬼。それを証明するようにリオは上空の呪鬼を見上げている。それが腕から? 出てくる??
リオは近くに飛ばされていた老女のブランケットを見つけると、拾いに行きそれを持ち主へと被せてやった。
「お年寄りは大切にしないとだめなんだぜ」
「うん」
話しながら少しだけ冷静さも戻り、二人で老女を立ち上がらせようとした。せめて暖かな室内に運んでやりたかった。しかし老女に何かしらの力が働いているのか、二人がかりでもビクともせず、立ち上がらせることは叶わなかった。
「みんな忘れちゃうんだ」
リオがポツリとこぼす。
「小人はさ、出てきたあと人にくっつくんだ。そしたら忘れちゃうんだ。それで小人の腹が何か食ったみたいに膨れるんだ」
「…………どういうこと」
「分かんない。けど、腕から小人が生んだ奴は、忘れられちまうんだ。何回も。すぐ目の前にいるのに、こんにちはって、さっき挨拶したのに初めて会ったみたいに。その人と離れてからなんで? っておれが聞いても、誰の話しだって会ったことすら忘れる。……みんな」
「………………」
「まあ、腕から小人を出すやつなんてその人しか知らなかったけど」
「どんな人だったの? このおばあちゃんのことじゃないの?」
「違う」
老女の身体がこれ以上冷えないように、二人で抱きついて細い背中を囲った。老女は涙を零しながら謝罪を繰り返していた。
リオは首を傾げながらも「このばあちゃんじゃない」と眉を下げ否定を口にする。
「おれが見たのは赤い髪の、優しそうなねーちゃんだった」
その言葉に黒の煙の向こう側。涙を流したままの少年が、大きな叫び声を上げた。




