32話 空気に徹する
「ササハ!」
テフォダの指先がほんの僅か迫ったところで、ササハは後ろへと引かれバランスを崩し、手を引いたノアと共に部屋の外へと倒れ込んだ。
「いっ、ノア……?」
呼吸さえままならぬ程強く抱き込まれ、ササハは何とか身を捩る。
「だめ、駄目だ……だめ、だめ」
「ノア?」
ノアはぶつぶつと独り言を繰り返し、その身体は異様に震えていた。
「痛い、ノア。一旦離して、んぐぅ」
ササハの背に回る腕の力が増した。抱き込まれたまま共に座り込み、どうすればいいのかとササハは別へと意識を移した。
暗い、夜の館。開け放たれた扉の向こう側には、テフォダ・リオークの霊が伸ばした手を下ろし浮かんでいた。表情は分からない。こちらを見ているのは確かなのだが、暗闇のせいなのか、顔が見えなかった。
テフォダは先程ササハへと手を伸ばしたきり何をするでもなく、だが、決してこの場から消える様子もなく、じっと見下ろすようにそこに居た。
何か伝えたいことでもあるのかと、不穏やら怪しむといった悪感情を抱くことはなく、なぜか自然とそう思った。すぐ真横の部屋にいる霊は、子供たちに碌でもない実験をしていた人物なのに。
テフォダは未だソファの傍らにおり、それがササハを急かしているようにも感じられた。
そこでふと、ササハはあることを思い出した。テフォダが先ほど幻影を見せた時、ノアもまるでササハと同じものを視ていたような反応をしていた。その疑問がササハの口から出ようとした時、ノアが一言呟いた。
「殺さないと」
いつの間にか震えは止まっており、ノアがゆっくりと立ち上がった。
「なに……」
「今度こそ、おれが守らなきゃ」
ノアはササハを見ていなかった。部屋の中を、中にいる一人の霊を、彼は彼だとは思えないほど虚ろな目をして見据えていた。
「ノア? ――――――ノア! 待って!!」
ササハは咄嗟にノアにしがみついた。
夜の闇に濡れている時間なのに、いつの間にか自分たちの影すら無くなるほど辺りが明るくなっていた。なぜだとササハが顔を上げると、青より白に近い光が粒子となり、うねりながら風を生み出して一箇所に集められているのが見えた。
光の行き先はノアの手元。光の風は一本の剣を作り上げ、ノアはそれを何の戸惑いもなく握りしめていた。
細く長い刀身は不純物の存在しない氷のように透き通り、光だけを反射している。剣に集められる光の粒子は弾けては消え、小さな火花のようだった。
ノアが剣を構える。
「ノア!」
殺すと言った。目の前の彼が。ノアが、人を殺すと言ったのか。
「やめて! 何考えてるの! 今すぐそれをしまってよ!!」
テフォダは既にこの世の者ではない。だが、ノアが手にするそれがテフォダを貫くことがあってはまずいのだと分かった。早く姿を消してくれればいいのに、なぜかテフォダもその場を動かない。
「駄目だよ! 嫌だよ! 人を殺すだなんて――絶対駄目なんだから!」
「っ~~!! うるさ」
「ノア!」
「うる、――さい! うるさい、うるさい! やめろ見えない、邪魔するなよ!」
見えない? 光の剣を振り回すもノアはその場を動かず、大きく目を見開きながら喚いた。
「邪魔するな! どけろ! 守らないと、殺さないと!」
ノアがふらりと後ろへとよろける。嫌だ、駄目だと先程のササハと同じ言葉を口にし、振り払うように大きく頭を横に振っている。
「だって危ない! アイツは怖いから、だから、おれがアイツからササハを守ってあげないとっ――」
「わたしなら大丈夫だから!!」
咄嗟だった。理屈や、思考するより早く言葉が、身体が動いた。ノアを安心させたくて、ササハは飛びつく勢いで剣を持っていない方の手を握りしめた。
それまでササハを見ていなかった視線が、ようやく交わった気がした。
「わたしだって鍛えてるし――ついこの間なんて騎士にだってなったのよ、あのおじいちゃんにだって負けたりなんてしないわ! ……だから大丈夫、安心して!」
ぎゅっと両手でノアの片手を握りしめ、近い距離でも逸らさずその目を見た。揺れ動いていたノアの瞳に冷静さが戻り、巻き起こっていた光の風もその威力を落としていく。
一段、また一段と周囲の色が夜へと戻っていった。
「ササハは、本当に大丈夫なのか? 痛いこと、されてないか?」
「ええ。大丈夫。なにもされてないし、これからもそんな予定はないわ」
「本当の本当に?」
「本当の本当によ。それにわたし、これでも幽霊には強いんだから!」
物理? 物理的に? 幽霊自体は怖いけど。勢いよく握り拳でも食らわせたら余裕で勝てるのではと思えるくらいには、負ける気はしないでいた。怖いけど。たぶんいけるはず。
力強く言い切ったササハに納得したのか、とうとうノアは光の剣を手放した。そしてその光が消えゆく間際に、安心しきった表情でふにゃりと笑みを零した。
「そっか。ササハが大丈夫ならいいや」
そう蕩けきった笑みを。
「っ――――――!!!!」
ササハは自分の顔面に急速に熱が集まっていくのを感じ、それと同時にノアの身体ががくりと揺れた。だが、ノアが倒れることはなく、今一度自分の足で踏ん張ると支えにするようにササハの肩に両手を置いた。
ササハのほうへと凭れかかりそうになったため、柔らかな月色の髪がササハの頬を撫でた。ササハの心臓が大げさなほど跳ね、なのに身体は硬直し動けなくなった。
ササハの肩口にかかった柔らかな髪が持ち上がり、すぐ耳元で申し訳なさそうな声がした。
「ごめん、僕です……」
「リっ、オ!!!!」
「ほんとごめん! 決して態とでも、場の雰囲気を理解出来ない馬鹿でもけっっっっしてないんだけど! まさか僕もこんな場面であの子が引っ込んじゃうなんて」
「もういい、もういいから! それ以上何も言わないで!」
「だって、ササちゃんほっぺ熱いよ。暗いから分からないけど、きっと顔もすっごく真っ赤だと」
「黙ってってば! もういいって言ってるでしょ! 触らないで! 顔も見ないで覗き込むなぁぁ!!!!」
ガスガスとリオの肩を叩き、ササハは顔を隠す。言われなくても熱が集まってるのは分かっている。なのにいちいち指摘するなんて。なにが場の雰囲気を理解出来ない馬鹿じゃないよ。人の気持ちを察せられない大馬鹿じゃないか。馬鹿。大馬鹿。この意地悪め!
「でも、初々しいよねぇ。帰ったらレンにも教えてあげよーっ、ぃてぇ!! 蹴った? 痛っー! ササちゃん今、僕のスネ蹴ったよね!? ひど~、ササちゃんが足蹴ったー」
「リオのばぁーかぁーー!!」
ノアが一緒じゃなかったら、もっと容赦なく蹴りつけたのに。
大声で悪態をつくササハの後ろで、テフォダの霊がまだかなぁと所在なさ気に佇んでいた。




