30話 お呼び出し
「苦しっ……う、ノア大丈夫だから。ね、少しは落ち着いた?」
シーツに埋もれた塊は、未だ強くササハを締め付ける。大丈夫、大丈夫だよと、いつかササハが母からしてもらったのと同じように、強張り震えている身体を抱き返した。
正直に言えば苦しいなんてものではなく、身体の中身が押し出されるか、背中の骨が反対側へとへし曲がるのではとよぎるほどには辛い状況ではあった。だが、その圧迫感も時間とともにおさまり、ようやっとササハをこの場に留める程度に緩まった。
「――調子はどう? ずっと寝てたんだよ、頭痛いとか、気持ち悪いとかない?」
シーツの塊は何も答えず、何も返さなかった。
「喉乾いてるでしょ? お水持ってこようか?」
「いらない」
思いのほか、今度ははっきりとした声が返った。
「いらない。何もいらないから――……どこにも行くな」
シーツの山が崩れ、なんとも頼りなく揺れる瞳がササハを正面から見た。
「あの人のところに行っちゃ駄目だ」
背中を丸め、冷たい指先がササハの右手を握り込んだ。祈るように、懇願するように冷えた両手に包まれた右手に、相手の震えがなんの隔たりもなく伝わってくる。
ササハはその手を握り返し、伏せられた視線に向けて言った。
「ごめんだけど、気になるし行くしかないかな」
「なんでだよ!」
「だって、今本当に大変なの! 時間もないし、何でもいいから手がかりが欲しいの!」
「意味わかんねー! とにかくやめろ、危ないんだって!」
「危ないって何が、どう、危ないのよ」
「それは……――――なんか、よくわかんねーけど、怖い、あの人は怖いから、だからとにかく駄目だ!」
何も覚えていないと言った彼の言葉どおりなのか、自分自身でも震えの原因がなんなのかはっきりしない様子であった。
ササハはしばし考え込むと、神妙な顔で頷き視線を合わせた。
「分かった。怖いのはしょうが無いもの。わたし一人でパパッと行ってくるから、ノアはここで待ってて」
「何も全然わかってねーじゃねーか!」
それからまた少し揉めたが、結局二人で行くことにした。
このド深夜に。
「こんばんはー。お邪魔しまーす」
昼間の時とは雰囲気の違う月闇の館。人の気配が無いせいか、早く用事を済ませようと意気込んでいたササハのやる気が急激に萎えていく。
ササハからすれば《赤の巫女姫》の件をどうにか年内に解決した。なのにそこへカルアンが絡んでいると思わしき呪具まで発見され、ササハは密かに焦っていたのだ。ただそのことに自覚がなく、普段なら指摘をしてくれそうなリオも頼りに出来ず、レイラはレイラで勝手をするため、ササハは自分が何とかしなければと先走ったのだ。故に自主的夜の幽霊屋敷ご訪問となってしまったのだ。
「だ、大丈夫だからね! 一人じゃないし、いざとなったらわたしがノアを守るからね!」
「何言ってんだよ、震えてるくせに。やっぱりお前も怖いんじゃん」
「うるさいな! 今更、大旦那様が幽霊だったの思い出しただけだもん! けど先生も、死んだ人より生きてる人のほうが恐ろしいって言ってたから大丈夫だもん!」
「???」
なんの根拠もない大丈夫を大声でのたまい、前に霊が視えることに怯えるササハに、家庭教師がかけてくれた言葉を思い出し気持ちを奮い立たせる。ついでに一人ではないことで安心感を得ようと、右手にぬくもりを掴み、今後決して離すものかとしっかりと握りしめた。
「なあ」
「ん?」
「幽霊って――死んだ人って………………、あの人死んだのか?」
今では彼のほうがしっかりとした歩みをしており、ぽつりと細い声が疑問を吐露した。
「あの人って、大旦那様のことでしょ? うん、四年前に亡くなったって聞いたよ」
「なんで?」
「確か病が悪化して、そのままってベルデさんが」
そう遠くない目的地にはすぐに辿り着き、テフォダの私室の扉の前に立つ。それまでキョロキョロと辺りを見渡していた同行者もすでに震えはなく、静かに扉へと視線を移した。
「ノアも前はここに住んでたんだよね? なにか覚えてる?」
「知らない。――――――けど、知ってる気もしてる。それがすごく変な感じ」
カルアンに来る前は、こっちの屋敷が使われていたと、そう教えてくれたのはリオだった。先程部屋で見せた怯えた様子とは違う彼に、ササハは本当に覚えが無いのだろうと扉に手をかけた。
ササハは一瞬、本当に僅かにだがノックをしたほうがよいのかと悩んだが、逆に返事があったほうが怖いと思いなおし入室の許可を請うことなく扉を開けた。
「失礼しまぁす」
当たり前だが部屋の中は無人で、最後に訪れたままの状態だった。繋いだ手とは逆側には用意してきた灯り。その魔道具の灯りは室内を薄っすらと照らし、ガタンと響く鈍い音にササハは小さく飛び上がった。
揺れたのは一人掛けのソファ。書机とは離れた位置にあり、まるで部屋を飾る大きな肖像画を眺めるためにセッティングされているかのようであった。
繋いだ手の力が強まった。
薄っすらと埃を被った、それでも立派な一人掛けのソファ。そのソファには先程まで居なかったはずの一人の老爺がゆったりと腰掛け、表情は認識出来ないのにかけられた絵を眺めていることが分かった。
繋がった手は固く握られていたが、怯えてはいなかった。
老爺はソファから僅かに身体を起こすと、探るように周囲を確認した。まるで生前の行いを再現しているようなそれはなんの感情も抱かせず、ササハも、ノアも、眼の前の霊は自分たちを害する気はないのだと漠然と理解した。
老爺はソファのマットの隙間に手を滑り込ませると、一本の鍵を取り出した。鍵にしては大きめの、金色に光る鍵。老爺はそれをしばらく眺めた後、ゆっくりと元の場所へと埋め込んでいた。
そうしてテフォダの霊の姿はなくなり、ササハの持つ灯りがゆらゆらとソファだけを浮かび上がらせていた。
「これはもしかしなくても、あそに鍵があるから、持っていけってこと?」
ササハが一歩踏み出そうとして、繋がった手がそれを拒んだ。
「どうしたの? 大丈夫だよ」
一緒に行こうと優しく手を引いても、びくともせずまるで境界でもあるかのようにその場を動かない。
「別に、お前が取りに行かなくてもいいじゃん。あのおっさんは? あいつに頼んでやってもらったらいいよ」
「ノアが言うおっさんって――もしかしてレンシュラさんのこと? 残念だけど、今レンシュラさんは別の遠いところにいるよ」
「でも、なら誰でもいいから」
怖気づいている訳ではなく、どうしても抵抗感が拭えないといった様子だ。
「もう。せっかくここまで来たんだから、さっさと済ませて」
「ササハ!」
ノアが叫ぶ。その叫びの先を追ってササハが振り返れば、両手を大きく広げたテフォダがすぐ近くへと迫っていた。
怒っている誰かの声。ササハが最後に見たのは自身の視界を奪う、テフォダのしわ枯れた手の平だった。




