10話 話し合い②
めし屋のテーブルに突っ伏し涙を流すリオ。
彼はノアではないらしい。
違う。ノアという名の人物で間違いないようだが、あの夜の日に、ササハと話した彼では無いと言う。
ではあれは誰なのかという話なのだが、本人にも分からないようで、夢遊病、幽霊、二重人格。もしかしてまで考慮するならば、リオの持ち物を盗んで所持していた謎のそっくりさん。――のどれかなのか、どれでもないのか。
明確な答えは出なかった。
「お二人って知り合いだったんですね。お友達――ですか?」
確かレンシュラは人探しのためにロキアを訪れていたのではと、言葉の途中で思い至る。
「ただ職場が同じだけだ」
「言ってたお屋敷の?」
「逆に、え? レンの知り合い? どこまで知って……」
突っ伏していたリオが顔を上げる。
ちょうどデカイふかし芋を頬張ったところのレンシュラは、面倒そうに眉を寄せながらも気にせず咀嚼を続けた。
馴れているのかリオも急かすこと無く大人しく待っている。
「頬袋のある黒豹って感じだよね」
「ンふ!」
「――、ゲホゲホ」
「ほ、ほおぶくっ、あはは、く、くろフふふふ」
「すごい笑う」
むせたレンシュラに、なんとも言えない表情で睨まれた。リオは一度笑い出すと止まらないのか、ひいひい言いながら震えている。
不服だったのか、ササハはレンシュラに強めに頬を引っ張られた。
「もういい、さっさと食べろ。……お前もいつまでも笑ってるな」
「わきゃ、わか、ふひゅひゅ」
独特な笑い方だなと、ササハは残り僅かになったぺったんこパスタにフォークを刺す。賑やかな食事は決して嫌いではなかった。
(そっか。お友達と一緒だったから、この間も急に帰っちゃったのかな)
もひもひと今度は付け合せのサラダを食べながら、ササハは皿をカラにした。
思いもかけず食事を共にすることになったが、この後はどうしよう。
ロキアは港町だが、現在は旅客船の出入りは無いと聞いた。だから祖母が港の方まで立ち寄る可能性は低いが、何の手がかりもないし足を伸ばしても損はないはずだ。
「お食事ありがとうございました」
奢ってくれるからと着いてきたので、遠慮はせず礼だけ言って立ち上がる。
二人も食事は済んだようだが、何の確認もせず立ち上がったのは失礼だっただろうか。
「……デザートは良いのか?」
「デザートもあるんですか!」
「頼めばくる」
「う、ならいいです」
「子供が遠慮するな」
「子供じゃないし、遠慮もしてません」
「とりあえず全部頼むか」
「要らないってば」
「まあまあ。座ってあげてよ。レンはキミの事が気になるみたいだからさ」
リオが苦笑を浮かべ、そうしているうちに店員を呼ばれてしまう。
無理に押し戻されたわけではないが、何となくササハは立っただけの状態からぺたんと腰を下ろした。いったいなんだと言うのだろう。リオをしばらく眺めていたが、ゆっくりとレンシュラへと視線を移す。
すぐ隣では、積み上げられた大量の皿に驚いた店員が、せっせと往復している姿が見えた。
「何か分かったのか?」
レンシュラがササハに向かってポツリと呟いた。
ササハが何か言う前に、テーブルに新たな皿が並んでいく。「どれがいい? あ、これとか美味しそうだよ」とパンケーキらしきものをリオが指差した。
「何か、とは?」
「婆さんの事で、何か、その……顔色が、良くないようだから」
最後のほうは消え入りそうな声になり、レンシュラはササハから目を逸らした。
行方不明の祖母を指し、何か顔色が悪くなるような事でもあったのか――と。言ってしまってから自身でもどうかと思ったのか、レンシュラの朱金の瞳は所在なさ気に揺れ動いている。リオも何かを察してレンシュラに窺う視線だけを寄越す。
ササハは気にしないでくれと小さく首を横に振った。
「ばーちゃんのことは、まだ何も。ただ、今日はちょっと夢見が悪くて……、旅の疲れが出たのかも知れません」
「そうか、いや……無配慮だった。すまない」
「大丈夫です。気にしないでください」
ササハは目の前のデザートには手を付けず、テーブルの下で指を組み、親指を落ち着き無く擦り合わせる。
「あー、事情はわからないけど、旅? それは疲れるよね」
間に入るように、リオの明るい声がする。
「夢見も悪いって言ってたし、寝不足なんじゃない? 調子が良くないなら、ちゃんと休んだほうがいいよ?」
「平気。むしろいっぱい寝たし。半日くらい」
「半日って、昨日会ったあとすぐくらいじゃないか」
「そうかも。昨日……」
そう、昨日リオと出会う直前。思い返してササハの顔色が一気に悪くなる。
無意識に考えないようにしていたが、ササハは確かに遭遇してしまったのだ。か細い、女性の声を発するナニカと。
その少し後から気分は悪くなり、宿に戻って一晩明かしておかしな夢を見た。見知らぬ景色に建物。まるで誰かの記憶を追体験しているような、暖かさや、嬉しいという感情の認識。そして化け物に追われる恐怖。
「あ、あの! わたし気になるゆ……」
夢を見た。
「え……と」
「どうしたの?」
奇妙で、おかしな、夢。ただの夢だ。
人はなぜか同じ内容でも、夢か現実かで異なる反応を返すものだ。それまで真剣に話を聞いてくれた人でも、それが夢の中の出来事であると分かると途端興味を失う。なんなら無駄な時間を過ごしたと思う人もいるだろう。
今のササハに、その白けた視線を受け止める気力はなかった。
「ううん、なんでもなかったや。へへ」
「そう」
「うん。それで、もうそろそろ行きたいんだけど」
「まだ残ってる」
「もう沢山頂きました。お腹いっぱい」
「なら、その包みに入っているものを持っていけ。あと、これと、これも」
「いいです。レンシュラさん、自分で食べたら良いじゃないですか」
「金が無いんだろ。食える時に食っとけ」
「要ら」
「すいませーん。持ち帰りお願いしたいんですけど」
「リオ!」
「追加でサンド系を持たせてやってくれ」
「レンシュラさん!」
「受け取らなかったら、宿の主人にいくらか渡さなければ。そうしたら預かりくらいはしてくれるだろう。迷惑だろうが。とても迷わ」
「わかりました、ありがとうございます!」
少し待って、ササハの鞄はパンパンに膨れ上がった。微かに漂う甘い香り。変な時間の食事なので最悪夕食はなくてもいいかと思っていたが。
「本当に、ありがとうございました」
「じゃあね~」
会計を済ませ、めし屋の前で別れた。
膨らんだ鞄を下げ、ササハは宿には寄らずそのまま町の奥の方へと進んで行く。
「顔怖いって。何なの? 事情教えてよ」
人混みに紛れていく小さな背中を凝視しているレンシュラに、リオが呆れた表情を向けた。
「何だっけ? 教えてもらった、カエデさんって言う人の関係者? 前に言ってた特徴とちょっと似てるかも」
「かも知れない。婆さんが行方不明で探しに来たんだと。で、その婆さんがカエデさんと同じ術のことを知っているみたいだった」
「ああ、なるほど」
リオが納得したように頷いた。
ササハの姿はすでになく、なのにレンシュラは眉根を寄せたまま動こうとはしない。
「気になるなら一緒に探してあげたら。アレの情報は僕が調べておくよ?」
「お前が一人でやるのは構わないが」
「感謝の心は持とうよ」
「本当だった場合、厄介だ」
「会話して。無視しないで」
「一般人を関わらせたくない」
「うん……そうだけど、特殊魔具使ってても普通に話しかけてきたし、適正はありそうな気もするけどな」
「…………」
「勧誘も大事なお仕事だよ?」
「分かっている。――――いい、行こう」
「僕も、追いかけっこ手伝ってくれてありがとね」
「哀れで見ていられなかった」
「あの子の足が速すぎたんだ! 僕、体力テストは上の方だし! って、だから聞けって、おいてくなぁ!!」
足早に先を行くレンシュラを追いかける。目の前の男が、これほどまでに他人を気にするのも珍しい。少しくらいなら気にかけておこうかと、リオは縮まらない距離に躍起になって走り出した。
◆◆□◆◆
想像していたよりも広い――港まで出てきたササハの、最初の印象はそれだった。
船の数も多く、あちこちに積荷である木箱がブロックごとに置かれている。一般人はあまり立ち寄らない為か、衛生面はお粗末で、食品のクズを運ぶネズミや、鳥の糞がそこら中に落ちている。
夕方前のピーク時だったのか、積荷を乗せる男たちの様子も忙しない。あとは少し離れた倉庫の近くで、酒瓶を片手に厳つい男共が大きな声で談笑しているくらいで、とても近寄りがたい雰囲気だ。
町は海に向かって緩やかな斜面になっており、ササハは港から高いところにある住宅通りから海を見渡した。働く海の男たちに割って入る勇気はなく、ただ遠くから海を眺める。
船は渡るが人は乗せない。旅客船の出入りは原則禁止。それが唯一、行方不明者が出始めたこの町で、領主がとった対策だった。しかし行方不明者が減ることはなく、噂だけが広まっていった。
ササハが海を初めて見たのは、ほんの数日前。この町に向かうため、山を越える途中で見たのだ。波の音も、潮の混ざった重たい風も何もかもが初めてで、なのに
(なぜか懐かしい気持ちになる)
理由は分からない。初めてなのに懐かしい。ひどい矛盾だ。
本で読んだり、人から話を聞いたこともあったからだろうか。しかし挿絵で描かれていた海は白黒の世界で、横に一本線を引かれただけでは何が違うのかよく分からなかった。
(分かんないけど、懐かしくて、それでとっても綺麗)
だからササハは思った。祖母はこの景色に会いに来ていたのかなと。いつもササハを優先し、多くのものを譲ってくれた祖母は、これだけは独り占めしたいと思ったのだろうかと、そう考えるほどに美しかったのだ。
しばらく海を眺めながら歩いていると、町の端のほうまで来ていた。後ろを振り返れば締め切られた古い家々ばかりで、すでに人の手を離れて数年が経過していそうだ。
「殆ど山の方まで来ちゃったな」
ロキアは山と海に挟まれた町で、初日にササハが登ってきた山とは反対側へと辿り着いていた。
ササハは、なぜか、何となく。寂れた家々の奥へと進んで行った。
腹は減っていなし、何なら膨らんだ鞄の中にはたんまりと食料もある。しかし、すでに嗅ぎ馴れてしまった甘い香りに、何の疑問もなく引き寄せられた。
石畳を歩いていた足音は、いつの間にか乾いた土を踏む音に変わっていた。ザカザカと普段立てないような音を立て、迷いなく見知らぬ道を進む。
軽かった土の音が、今度は固く踏み鳴らした音に変わった頃、ササハは何の変哲もない一本の木から、遠く離れた位置で立ち止まった。唐突に重力を自覚し、町から外れ山へ入りかけていたことに気づく。
――ザク ザク
砂をかく乾いた音がする。
目を開けて、前を向いていたはずなのに、ササハは今、ようやくそれを理解することが出来た。
手元は見えない。だけど大きな爪のある前足が、土を抉っているのが分かる。
大きな、黒く丸められた背。毛のような、煙のような真っ黒な図体に、長く伸びたぼやけた尾。
(犬の、化け物?)
遠目だが、体長はササハの倍ほど。熊だとは思わなかった。
恐怖は追いつかず、ただ目の前の現状が不思議でならない。
夢で見た黒い――夢のあれは人の形をしていた。それとは違う。黒い犬のような化け物。ササハに背を向け、ひたすら木の根元を鋭い爪でかくばかり。
ザク、ザク、と乾いた音が不思議と響く。それまで黒煙の塊だったものに、不意に赤い光を確認し、獣が振り返ったことに気がついた。
真っ赤な、真っ赤な、赤く光る眼。ではなく、真っ赤な光を放つ、ルビーのような小さな小さな――宝石?
大きな黒い獣の、本来なら心臓があるであろう場所に、小さな赤の光がポツリと灯っていた。
そんなことよりも。
「――――――!」
ササハは獣の足元を見た。抉っていた、木の根元。
そこには壊れて半分に欠けた祖母の髪留めが落ちていた。




