20話 初めまして
リオが目覚めない。
浅い呼吸を繰り返すだけの横顔を、ササハはじっと眺めていた。
時間にして一日とちょっと。昨日は夜になっても眠ったままのリオを不安には思っていたが、医者の「何も異常はない」という言葉もあり様子をみることにした。
ササハは翌朝いつもより早くに目が覚めたが、隣の部屋へ突撃したい気持ちを抑えしばらく待った。
そして間もなく朝食の時間という頃合いを見計らい、隣室へと飛び込んだ。鍵はかかっていなかった。昨晩ササハが閉じたカーテンはそのままで、部屋の明かりも落ちたままであった。
再度医者を呼んでもらったが医者の見立てに変わりはなく、原因は分からないが眠っている状態としか言えないとようやく医者も戸惑いを見せた。
「リオ……」
テーブルには手つかずの朝食が乗ったまま、ササハは掠れた声で名前を呼んだ。ベッド脇の小さな椅子に一人座っているササハ。レイラは医者がいる間は室内にいたが、しばらくしササハがリオの傍をいつまでも離れそうにないと察した途端、調べ物をしてくると言って出ていってしまった。
リオが目覚めないと言っても、ほんの一日程度。身体に不調が出ている様子はないし、ササハが大げさなだけかも知れないが、不安なものはしょうがなかった。
「昨日のこと、ベルデさんに報告したほうがいいよね」
返事が無いと分かっていながら声に出す。今朝、二度目の診察を頼んだ際ベルデの姿はなかった。以前ならまだしも、呪鬼を追い払った後の彼なら様子くらい確認しにくるかと思ったが、そうではなかったようだ。
「リオのおじいちゃんに会ったよ。しかもフェイルになりかけてたんだよ? びっくりだよね」
あえて言葉すると途端、もしかして拙い状況だったなのではと肝が冷える。
リオが倒れたのは大旦那様の部屋へ行った直後だ。ササハもあの部屋で何かに魔力を抜かれる感覚は味わった。そしてそれは恐らくフェイルの種のせいであろう。部屋に飾ってあった肖像画と同じ人物。大旦那様の霊。その霊の胸元にはフェイルの種と教えてもらった赤黒い小さな石があり、それを囲むように赤い文字が浮かび上がっていた。
ササハは前方に垂れていた背を正す。
「やっぱり、ベルデさんのところに行ったほうがいいよね」
レイラは間違いなく自身の調べ物を優先させるだろう。
「呪具のことはレイラさんに任せておけば良さそうだし、わたしも自分に出来ることをやらないとだよね」
「もしかして、今からご予定があるんですか?」
「うっひょわ!!」
心配という根を椅子に生やしていたササハだったが、すぐ後ろからかかった声に奇声を上げ転げ落ちそうになった。
「あ、メルくん!? え、なんでっ??」
「ササハさんを呼びに来たんです。今、お時間ありますか?」
いつの間にそこに居たのか、以前と変わらぬ服装で、お窺いをたてながらも愛想笑いの一つもしないメルが立っていた。
「呼びにって、どこに? どんな用事か先に教えてもらってもいいかな」
前に会った時、レイラにはメルのことが視えていなかった。なのでメルは幽霊。それだけは分かっている。
「私ではありません。あの方が望まれたので」
「あの方ってどなた?」
背もたれもない小さな椅子をベッド脇に戻し、ササハはメルと向き合う。
「……どうぞ、私の後へ。案内します」
メルは口元だけで笑みをつくり、ササハの質問には答えなかった。
「ねえ、だからあの方って誰?」
「…………」
「ねえってば、教えてよ」
それでもササハは煩かったので、メルは無視をすることにした。
◆◆□◆◆
「はい。わたしササハ・カルアンと申します」
「あら、可愛らしお嬢さん。新人さんかしら。貴女、お名前は?」
「はい。ササハ・カルアンです」
既に何度めかの自己紹介だったが、ササハは顔には出さずに答えた。
メルに案内されたのは一階の奥にある一室。部屋に着くまで誰にも出会うことはなく、メイド服を着ているササハが一人でふらついていても咎める人物は誰もいなかった。
部屋の前に着くとメルの姿はなく、どうしようかと立ち止まったところで「なにをしているのですか? はやく中へ入って来てください」とドアをすり抜け言ってきたメルに、叫びそうになったのを必死で我慢した。
そうして入った部屋の中には一人の老女。室内は暖かく、車椅子に座った老女はご機嫌な様子で首を揺らしながら窓の外を眺めていた。老女はササハの存在に気づいていないのか、入口付近で声を掛けても反応がない。
その間にメルは老女の傍らに移動し、目線だけでこちらに来いとササハを誘導した。
促されるまま車椅子の老女へと近づき、ササハは自己紹介をした。老女はそこでやっとササハを認識したが、見た限りかなり年を召しているようだ。何度も同じ会話を繰り返したが、彼女がササハの名を呼ぶことはなかった。
「あれ……ここって」
ふと老女の視線の先を追いササハが呟く。僅かに開かれたレースカーテンの隙間からは外の景色がよく分かり、続くテラスの向こう側にチラチラと黄色が見て取れた。
「前にメルくんが何かを盗んでこいって言った場所じゃない!」
「盗めとは言ってません」
「おばあさん、ここに悪い子がいます! 気をつけてください!」
「そろそろ朝食の時間ね。今日のメニューは何かしら」
既に昼を大きく過ぎたころ。しれっと表情を崩さないメルを指差すササハを、老女は気にすることなく鼻歌を歌っている。ちなみにササハは朝から何も食べていなかったが、老女は朝昼きちんと食事をとっている。
「鍵を」
「鍵?」
メルに言われてササハは思い出す。そうだメルはこの部屋から鍵を取ってきてほしいと言ったのだ。
「鍵ってどこの鍵? 流石に勝手に持っていくのは」
「鍵がほしいの? ならこれをあげましょうね」
「え――――」
言って老女が差し出したのは、小さな銀色の鍵。
「あの、これ本当に受け取っても」
「貴女はどなたかしら?」
「ササハ・カルアンです」
「まあ、可愛らしお嬢さん。どうぞこちら、あげましょうね」
「……ありがとうございます」
話が通じているのか、いないのか。鍵という言葉に反応した老女は、本当に鍵を差し出してきた。それをササハは戸惑いつつも受け取ると、本当にこんなことをして良かったのかと確認するようにメルを見る。
「あの方が望まれている。だから最初から良いのだと言っていたでしょう」
「だから、あの方って誰よ。このおばあさんのこと?」
「………………」
「メルくん?」
「……わからない」
俯き、なんとか絞り出された声だった。
「…………ごめんね。泣かないで」
「泣いていませんよ」
「あら、もうこんな時間。早くしないとパーティーが始まってしまうわ」
確かにメルは泣いてはいない。だが、ササハには今にも泣き出しそうに見えて、受け取った鍵をそっとポケットへとしまい込んだ。
「おばあさん鍵、ありがとうございます。少しの間お借りしますね」
「おはよう。今日もいいお天気ね」
「そうですね。良かったらおばあさんのお名前、教えていただけませんか?」
「あら、可愛らしお嬢さん。新人さんかしら。貴女、お名前は?」
「わたしササハ・カルアンと申します」
結局、老女は自身の名を口にすることはなかったし、鍵についてもメルに確認することが出来なかった。
なぜなら
「誰かこちらへ向かってくる足音がします」
「そうだね」
「いいんですか」
「なにが?」
「逃げなくて」
目も耳もいいササハにも、遠くから近づいてくる足音は認識出来た。硬い複数人の足音。とりわけ響くのは、硬い、ヒールが床を打つ規則的な足音だった。
「この靴音は、おそらくセーラ夫人でしょう。今の夫人は貴女――というか見知らぬ人間がここに居るのを見ると、ひどく取り乱し激昂されるかと」
「それをはやく言ってよ」
夫人を刺激しないようメイド服を着て潜入まがいなことをしているが、流石に知らない顔が予想外の場所にいれば不審に思われるだろう。
「あ、もしかしてこのおばあさん、夫人のお母さんかおばあちゃんとか?」
テラスから外に出ようと反対側の扉に手をかけ、ササハはメルを振り返る。自分で言うのもなんだが、使用人でもなくそれなりの身分の人物だと思われる老女は、年齢的にもそうであろうと確信めいたものを感じる。
だが、メルはササハの言葉に無反応に佇むばかりで――――部屋にノックの音が響く。入口の扉が開く直前、ササハは逃げるようにテラスへと躍り出た。大丈夫。不審者が目撃されていれば悲鳴が上がるはずだが、未だにそれは聞こえてこない。
ササハは緩みそうになる安堵を飲み込み、一目散に裏庭を走り抜けた。その時冷たい風がササハの髪を揺らしたが、背後に咲く黄色の花は揺れるばかりで花弁の一枚も手放しはしなかった。




