第2話 静江
信一郎は時々庭にある松の木の落ち葉を掃除に来る。
ただで住まわせてもらってるので、普段から雑用は買って出ていたのだが、これにはちょっとした事情があった。
師範の大事にしている松の木は、絶妙な位置に植わっていた。
丁度そこから静江の部屋の窓が見えて、落ち葉を掃いていると、時々静江が絵を描いている姿を眺めることが出来たのだ。
女子大で美術を専攻している静江は、信一郎が窓から姿を見かけるたびにキャンバスに向かっていた。
絵を描いている時の静江は、かなり集中している様子で、おかげで信一郎は悟られずにその姿を眺められた。
ある日、また信一郎が落ち葉掃除をしに来ると、部屋に誰もいない時があった。
今日ははずれか……。
がっかりしつつ、もう一度窓越しに部屋を眺めていると、丁度部屋の中央辺りにキャンバスがセッティングされているのが見えた。
信一郎は静江がどんな絵を描くのか見たことが無く、今なら見れるのではないかと、無粋な好奇心が鎌首をもたげた。
そして箒を松の木に立てかけて、窓の外から部屋の中を覗いてみる。
しかし丁度キャンバスの角度が絶妙で、見えそうで見えない。
信一郎は開いたままの狭い窓から頭を首まで入れて頑張った。
もうちょっと……。
そこでガチャリと音がしてドアが開いた。
慌てた信一郎は、眼から火花が出るくらい窓のへりに頭をぶつけながら首を抜くと、戻ってきた静江に見えないように頭を押さえてしゃがみこんだ。
「いててて……」
手で触ってみると、まあまあ大きなこぶが出来ていた。
そして恐る恐る顔をあげると、窓から顔を出してこちらを覗き込んでる静江と目が合った。
静江は驚いたような表情で信一郎を見ている。
信一郎の頭の中は真っ白になった。
「いや、あの、すみませんでした。悪気はなかったんです。ただ絵を見たくて」
顔から火が出そうな恥ずかしさを感じつつ、痛みをこらえて言い訳した。
そして涙目で頭を押さえながら立ち去ろうとした時、後ろから声をかけられた。
「ちょっと待って」
呼び止められた信一郎は、恐る恐る振り返った。
「絵、お好きなんですか?」
窓から少し身を乗り出しそう言った静江は、まるで一枚の絵のように美しかった。
信一郎は夢でも見ているのかと思いながら、静江の部屋に足を踏み入れた。
もし良ければご覧になりますかと、静江が部屋に通してくれたのだった。
信一郎はとっさに「はい」と答えてしまったが、何の知識もない自分には絵の良し悪しなど何も分からなかった。
「お恥ずかしいのですがどうぞ」
そう言って静江が見せたキャンバスには、一匹の白い犬が描かれていた。
「去年死んでしまった愛犬です」
静江は遠くを見るような眼でその絵を眺めていた。
「子供の時からずっと一緒だった犬で優しい子でした」
信一郎は絵をまじまじと瞬きもせず見る。
「これは……」
そして信一郎は素直に思ったことを口にした。
「まだ、あなたの中で生きているみたいだ」
信一郎の言葉に静江はハッとした。
そして信一郎が見たこともない笑顔を浮かべた。
「そうかも知れません。私あの子が忘れられないの」
信一郎は静江のあまりの眩しさに目を奪われていたのに気付き、慌てて取り繕った。
「すみません。絵のことも分からずに失礼なことを言ってしまって、あの、ありがとうございました」
信一郎は急いで立ち去ろうとした。
「待ってください」
静江は信一郎を引き留めた。
「もしよろしければ……」
静江は。はにかんだような笑顔を浮かべる。
そして信一郎はその柔らかそうな唇から思いもよらない言葉を聞いた。
「また絵を見に来てください」
そのあと信一郎は、離れの汗臭い四畳半の部屋に、どうやって戻ったのか覚えていなかった。
謙三と太一は心ここにあらずの信一郎を見るなり、「すげえこぶだな、頭大丈夫か」と心配したのだった。
信一郎はそれから静江に何度か窓越しに呼んでもらい、描き上げた絵を見せてもらっていた。
描いた絵を見せている時、静江はとても嬉しそうだった。
「すみません。僕、本当に絵のこと分からなくて。大したこと言えませんので退屈でしょう」
信一郎は場違いな汗臭い道着で、清潔感のある静江の部屋にいるだけでいたたまれなかった。
「そんなことないです。私退屈なんてしていません」
静江は急須からお茶を注ぎ、信一郎に差し出す。
「どうぞ」
「すみません。いただきます」
信一郎は静江の些細なしぐさに胸が高鳴る。
「もう一年ですね」
静江は湯気の立つ椀に、目を落としながらそう口にした。
「何がですか?」
「高木さんがここに来てから」
静江の頬が少し紅くなった。
信一郎はそのことに気付かない。
「早いものですね」
信一郎もそう言って一口お茶を飲む。
「お稽古のほうは捗っているんですか?」
静江は信一郎の湯気の立つ椀に目を落として尋ねた。
「がんばってます。でも僕なんかまだまだです。正直言うとここに来た時より自信を無くしたぐらいです」
「どうして?」
信一郎は笑顔を見せて明るくこたえた。
「ここの人たちが強すぎて。特に静江さんのお父さんにいつもこっぴどくやられていますから」
「まあ。お父さんひどいのね」
静江はとびきりの笑顔を見せる。
ほんのつかの間の他愛ないお喋り、それでも信一郎にとってかけがえのない時間だった。