第14話 ちょっとした拷問
木枯らしの吹くある日。
信一郎にとっては、やっと念願の稽古に復帰できた少し肌寒い日だった。
怪我明けで体力が落ちた体に悪戦苦闘しながら、いつもの三人は基本的な技を丁寧になぞるかのように黙々と繰り返していた。
「ふーーー」
一時間みっちり体を動かした後、深い息を吐いて三人は畳の上にへたりこんだ。
「こんなにきつかったか?」
多分独り言なのだろう。謙三が汗を滴らせながらブツブツと呟いた。
「えげつなくしんどいな」
「これは先が思いやられるな」
太一と信一郎も大汗をかきながら、謙三の独り言に共感した。
一時間の稽古後、内弟子四人が涼しい顔で始めだした自主稽古を横目に、三人はしばらく畳の上でへたり込んでいた。
「皆さん怪我明けですので無理なさらないで」
何とも心地良い静江の声に、三人は一斉に振り返る。
静江は大きなヤカンとコップを持って道場へと入って来た。
すかさず信一郎が手を貸そうと跳ね起きる。
「すみません。重かったでしょう。後は僕が持ちます」
「お疲れなのにすみません」
ほんのつかの間、信一郎は静江と目を合わせて微笑んだ。
「太一、謙三、お前ら早くコップを運べ。だらしない奴等だ」
「なんだよ。お前もついさっきまでへたばってたじゃないか」
急に元気になった信一郎にぼやいた後、二人も静江を手伝った。
「いただきます」
ヤカンから冷たいお茶をコップに注いでグイと一気に飲み干すと、信一郎はさらに元気になった。
「おかげで生き返りました。これでまた頑張れそうです」
「無理なさらないで下さいね。でも元気そうで良かった」
「もう元気が余ってるくらいです。さあもうちょっとやろうかな」
なんだかちょっとだらしない笑顔を浮かべながら、信一郎は稽古に戻って行く。
静江はそんな信一郎を見つめている。
水分補給を終えた謙三と太一は、内弟子の稽古に元気よく参加していった信一郎に、やれやれといった顔だ。
「なあ謙三、なんかちょっとあいつ張り切り過ぎじゃないか」
「静江さんの前で自分だけいい格好しようとしてるな。俺たちもいくぞ」
信一郎に負けじと二人も後に続いたのだった。
「いててて」
就寝の時間、四畳半の部屋に無理やり三枚の布団を敷いて三人は小さく悲鳴を上げていた。
「か、体中が痛い」
「俺もだ。信一郎、お前のせいだからな」
「何言ってんだ。勝手にお前らが張り合ったからだろ」
ブツブツ文句を言い合いながら、三人は疲労困憊の筈なのになかなか寝付けないでいた。
しっかりと稽古をした時というのは、こういうことが時々ある。
体力は残っていないが、気力が上がったままの頭の中で興奮状態が続き、簡単に眠れなくなるのだ。
久しぶりに稽古で汗を流した三人はまさに今その状態だった。
「なあ信一郎」
謙三が消灯後の暗闇の中で声を掛けた。
「おまえ静江さんと何かあったか?」
ガサガサガサ。
何となく布団の中でうろたえている様な感じだ。
「何だよ信一郎、何とか言えよ」
太一が暗闇の中、返事のない信一郎を小突く。
「ふぁあー。寝かけてた。じゃあお休み」
「お前何か隠してるな!」
「俺たちに抜け駆けしたのか? ふてえ奴だ!」
太一は立ちあがって照明を点けた。
信一郎は布団にくるまって芋虫の様になっている。
「太一!」
「よし!」
二人に布団を剥がされ信一郎は、あっという間に柔道の抑え込みを謙三に掛けられた。
「太一、やれ!」
謙三の号令で太一は信一郎をくすぐりだした。
「や、やめろ。ヒヒヒ。何しやがるんだ。ヒヒヒ」
「太一、もっとやれ」
「任せとけ」
太一はさらに執拗にくすぐりだす。
「や、やめろ。やめてくれ。ヒーヒー」
信一郎は必死で逃げようともがいたが、謙三からは逃げられなかった。
「さあ洗いざらい全部吐け」
「このまま笑い死にしたくなかったら観念しろ」
「や、やめろ。ウヒヒヒ。お、俺は何も……ヒヒヒ、隠してなんか、ヒーッヒッヒ」
そして10分後、本当に笑い死にしそうな状態で、信一郎はとうとう観念した。
それでもよく耐えた方だった。
信一郎はしわくちゃになった布団に正座させられ、まるで裁判中の被告人のような扱いを受けていた。
腕を組んで見下ろす二人の冷たい視線が、信一郎に突き刺さる。
「お、お前たち、酷い奴等だな……」
「隠し事をしたお前が悪いんだよ。さあ言ってみろ」
もう逃げられないと悟り、信一郎は一度大きく息を吐いた。
「分かったよ。まあそのうちに話そうとは思ってたんだよ。せっかちな奴等だ」
「前置きはいいから早くしろ」
謙三はイライラしながら急かした。
信一郎は乱れた布団の上に座り直し、ちょっとうつむき加減に口を開いた。
「まあ、あれだよ。春が来たってやつだよ」
「はあ?」
「だから俺は今満開なんだって」
「何言ってんだ? 暗号か?」
謙三も太一もピンと来ていない様で首をひねった。
「鈍い奴等だな。だから俺はお付き合いを始めたんだよ」
「おまえ、まさか……」
「そうだ。憧れの静江さんと……」
信一郎はうっとりと天井を見上げた。
「謙三、押さえろ!」
太一が叫んで謙三が信一郎に飛び掛かった。
そしてあっという間に押さえ込む。
「太一! やれ!」
「やめろ太一、謙三。俺は正直に言ったじゃないか」
謙三と太一の目には氷のような冷たさがあった。
「言うべきじゃなかったな。残念だよ」
謙三は慈悲の欠片もない声色で死刑宣告をした。
「やめろ! やめてくれ! ヒーーー」
そしてそれから信一郎は、生まれて初めてくすぐられて失神した。
「あら?」
静江が早朝、皆を起こそうと離れに来ると、信一郎が一人、布団を干していた。
周りに誰もいないことを確認して、静江は少し頬を紅く染めながら信一郎に声を掛ける。
「信一郎さん」
信一郎はその声に飛び上がった。
「し、静江さん。お、おはようございます」
「おはようございます。こんな朝早くからお布団を干されてたんですか?」
「え、あ、はい。やっぱり天日干しが最高ですね」
信一郎は不自然に布団を体で隠すように移動して、静江の視線を遮ろうとする。
「私、やっておきますよ。信一郎さんは朝稽古の準備おありですよね」
「いえ、静江さんの手を煩わせられないです。お構いなく」
そこに謙三と太一が姿を現した。
二人の口元には、悪魔さえも目を逸らしてしまうような笑みが張り付いていた。
「静江さん。おはようございます」
「皆さんおはようございます」
「いやーいい天気ですねー」
「そうですね。お洗濯日和ですわ」
信一郎は二人に向かって、しきりと首を横に振っている。
静江は怪訝な顔で、少し青ざめている信一郎の顔をじっと見る。
そして謙三が晴れ晴れとした顔で空を仰いだ。
「ほんと静江さんの言うとおりいい天気だ」
そして太一が、爽やかにひと言付け足した。
「信一郎の濡らしちまった布団も乾きそうだな。ハハハハ」
暴露されて信一郎は蒼白になった。
そして静江は真っ赤になった。
「私、朝ご飯の準備しなくちゃ」
静江は赤面しながら慌てて走り去っていった。
信一郎はその背中を涙目で追いながらたそがれるのだった。