第10話 桔梗の花
あの柿崎という男は、すぐにまた今住んでいる和歌山に帰って行った。
その柿崎が酒盛りの席で、和歌山県は合気道の開祖、植芝守平の生誕の地なので、合気道を稽古できる道場がたくさんあるのだと話していた。
興味があったら訪ねて来いと連絡先を置いていったのだった。
なかなか気さくな感じの男だったので、機会があれば行ってみようと三人は先の話をしたのだった。
少し日が長くなり、春の気配が見えて来た三月。
この季節は武道をしている者にとって、体の動かしやすい時期だと言えた。
最近になって大島は、内弟子たちと出掛けることが多くなった。
毎年この時期に、大島はあちこちの講習会などに招かれていて、忙しく各地を回っている様子だった。
内弟子がいない時、信一郎たちはいわば、留守番を仰せつかっていると言えた。
三人の大学生が相変わらず稽古に明け暮れている。
そして可憐な静江が一つ屋根の下にいる。
三人はこういう時、大島や兄弟子たちの目を気にせず、いつもより少し静江と話せる時間が増えることを歓迎していた。
そして夕食の時間を楽しみにしていたのだったが……。
ルルルルル。
電話が鳴っている。
信一郎は太一に、太一は謙三に、謙三は信一郎にお前が電話に出ろと無言で促す。
結局信一郎が受話器を取った。
「もしもし、私です」
「あ、静江さん」
信一郎の明るい声に、俺が電話に出るべきだったと二人は口惜しがる。
「すみません。今日少し遅くなりそうなんです。夕飯作る時間無さそうなんでお弁当買って帰ります。もう少し待っていてくださいね」
「わざわざそのことで電話して下さったんですか? 僕たちのことはいいんでお気をつけてお帰り下さい。あ、もし良かったら駅まで迎えに行きますよ。もう結構暗いですし」
「あ、いえ、お気遣いなく。じゃあ失礼します」
なんだか急いでいるかのように、静江は電話を切った。
「何だって?」
早速太一が話の内容を聞いてきた。
「ああ、夕食作る時間無さそうだから弁当を買って帰るって」
「静江さん、今日自転車じゃなかっただろ。重たいんじゃないかな」
謙三が言ったように、玄関先に自転車は停まったままだった。
三人はお互いを見る。
「俺が行く」
「いや俺だ」
「お前は留守番してろ」
静江を迎えに行くのに立候補した三人だったが、いつものように揉め始めた。
結局ジャンケンで太一が勝った。
「よっしゃー! 行ってくる」
「お前、もし静江さんにちょっかい出したら、俺と謙三でボコボコにしてやるからな」
「分かってるよ。でもいい雰囲気になったりして……」
「静江さんを見るな。口を開くな。ついでに息もするな」
「馬鹿、死んじゃうだろ。つまらん冗談言うなよ」
「俺は本気だ」
信一郎の殺気を感じ取り、太一はさっさと静江を迎えに出て行ったのだった。
「あれ?」
太一が出て行ってからしばらくすると、静江が帰って来た。
玄関まで出迎えると、静江は両手に重たそうな弁当の包みを提げていた。
二人はすぐに弁当の包みを静江から受け取り、そのあと尋ねた。
「太一とは会いませんでしたか? あいつ静江さんを駅まで迎えに行ったんですけど」
「え? そうなんですか? あの、実は私、今日は車で送ってもらったので……」
「そうだったんですか、じゃあお弁当をずっと持って歩いて帰らなくって良かったわけですね」
「ええ、まあ……」
静江は少し言葉を濁した。
信一郎はまるで気付かなかったが、謙三は少し首をひねった。
「おい信一郎、ところで太一はどうするんだ?」
「あいつか、ほっとくわけにもいかないし、困ったな」
そして今度は太一を迎えに行くかどうかでジャンケンをした。
「クソ。仕方ない迎えに行ってくる」
「へへへ。ゆっくり行ってこい」
ジャンケンに勝った信一郎が、嬉しそうに謙三を送り出した。
「静江さん、まあゆっくりしてください。お疲れでしょう」
「いえ、高木さんこそお腹すいたでしょう。お待たせしてごめんなさい」
「俺たちのことはいいんですよ。たまには静江さんも羽を伸ばしてきてください。いつも俺たちが世話をかけて、静江さんの自由にできる時間を潰してしまって申し訳ない」
「私、道場のことを色々お手伝いするの好きなんです。気になさらないでね」
静江はそうして微笑んだ。
静江さんと二人きりだ……。
信一郎はふと一つ屋根の下のこの状況が頭に浮かんだ。
そして勝手に緊張しだした。
「あ、ええと、今日はどちらに行かれていたんですか?」
信一郎の何気ない問いかけに、何故か静江は黙り込んでしまった。
「あ、すみません。立ち入ったことを聞いてしまったみたいですね。忘れて下さい」
「いいんです。誘われて少し甘いものを食べに行ってきただけですから」
「そうでしたか。やっぱり女性は洋菓子とか好きですよね。静江さんはよく行かれるんですか?」
「いいえ、そんなには。私、洋菓子よりも和菓子の方が好きなんです」
「あ、俺もです。気が合いますね」
信一郎が嬉しそうにそう言うと、静江もつられて笑顔を見せた。
「うふふ。和菓子がお好きでしたら近くにあるんですよ名店が」
「あ、先生が時々食べてるあれですか?」
「ええ。大鵬堂のどら焼き。すごい甘くって美味しいんです」
「そうなんですか、美味そうだとは思っていたんですが、まだ食べたことはないんです」
「今度一緒に食べませんか?」
「ええ是非」
こたえてから信一郎の顔がだんだん紅くなってきた。
一緒に? 静江さんと? 二人で?
信一郎は動揺してしまい、全く次の言葉が出てこなくなった。
「今度絵にお誘いした時に用意しておきますね」
ほんのり頬を染めた静江に、信一郎の心臓は飛び出そうになった。
「ただいまー」
ガラリと引き戸を開けて帰って来た太一に、再び心臓が飛び出そうなほどうろたえた信一郎だった。
ある日、信一郎が松の木の周りを掃除していると、誰もいなかった部屋に静江が戻って来るのが見えた。
その姿をつい目で追ってしまう。
えっ?
そしてそのあとに続いて、見覚えのない青年が静江の部屋に入ってくるのが見えた。
信一郎はその二人の姿に呆然としながら立ち尽くす。
何かを話しているが、その内容は信一郎のところまでは聞こえてこない。
どうしても気になり、その様子を見ていた時だった。
静江は信一郎に少しだけ目を向けた。そして少し寂しそうな顔をして、信一郎の視線を遮るようにカーテンをそっと引いたのだった。
信一郎はその引かれたカーテンに目を向けたまま、呆然と立ち尽くしていた。
後で道場内で噂になっているのを信一郎は聞いた。
町の有力者の御曹司。美しい静江を町で見染めて結婚を申し込んだのだそうだ。
道場を立ち上げるときに世話になったその有力者の息子に、大島は静江がいいというならと認めたのだという。
信じたくはなかったが、実際この目で見てしまった信一郎は、何もできずただ黙って現実を受け入れるしかなかった。
ある日また静江に窓越しに呼ばれて、信一郎は久しぶりに静江の部屋に通されたのだった。
「この間言ってた大鵬堂のどら焼き、今日はご用意できなかったんです。お約束していたのにすみません」
「いえ、そんな、覚えて下さってただけで十分です」
信一郎はあの噂のことで頭がいっぱいで、どら焼きのことをすっかり忘れていた。
「ご結婚されるんですか?」
絵を見せてもらいながらも、頭の中に居座り続ける引っ掛かりに、信一郎はたまらず訊いたのだった。
静江は目を伏せて黙っている。
信一郎は静江の描いた一輪の花の絵に目をやる。
青い花。とても瑞々しい。しかしどこか悲しげに見えた。
「桔梗の花です」
静江は静かにその花の名を口にした。
信一郎はキャンバスの青い花をじっと見つめる。
しばらく黙ったまま絵を見ていた信一郎は、やがてその時感じたことを静江に伝えた。
「とてもきれいな花ですね。でも……」
静江は言葉を続けようとする信一郎に目を向ける。
「とても悲しそうだ……」
その言葉を聞いた刹那、静江の表情が変わった。
「高木さんは……私が結婚した方がいいと思いますか?」
静江がなぜそんな質問を自分に投げかけたのか、信一郎は理解できず戸惑った。
「僕は……」
その先を口にしようとして、信一郎は躊躇った。
そして、どうしても自分の気持ちを口に出すことができずに、別の言葉を選んだのだった。
「僕は……静江さんが幸せになれるのなら、そうなさったらいいと思います」
信一郎は胸の痛みをこらえながら言葉を絞り出した。
「すみません。出過ぎたことを言ってしまって」
静江はうつむいて何も話さない。
「じゃあ稽古がありますので」
いたたまれなくなり、信一郎は部屋を出て行こうとした。
その後を追うように、静江が信一郎の背中に声を掛けた。
「この絵、あなたに差し上げます」
振り返った信一郎は、静江の申し出に少し戸惑っていた。
「まだ乾いてないけど、乾いたらあなたが持っていてください」
「僕が……いいんですか?」
信一郎はそう言ったあと、もう一度キャンバスに目を向けた。
美しくて悲しい絵。
静江に目を戻すと、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「何でもないんです」
すぐに涙を拭いて静江ははにかんだ。
信一郎はその静江の涙の意味も分からず、重い気持ちで部屋を後にしたのだった。