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若き獅子は目覚めてからも夢を見る  作者: ひなたひより
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第1話 誠真館

 バシッ。

 バシッ。バシッ。


 畳の上で受け身を取る音が広い柔道場に鳴り響く。

 独特の臭いの充満するこの一角では誰も口を開く者はいない。

 ただ荒い息遣いと、投げられる人の重みを畳が受け止める音だけが響いていた。

 まだ高度経済成長の只中にあった昭和の時代。活気ある世の中の空気に浮かれることなく大学の柔道場で汗を流す若者たちがここにいた。

 先日行われた大きな大会で、表彰台に立つことも無いまま試合を終えたこの大学柔道部の部員たちは、今日も黙々と稽古に打ち込んでいた。

 その中でとりわけ険しい顔をして稽古に打ち込んでいる者がいる。

 短髪で無駄のないしまった体つきのその学生は、自分の体を苛め抜くようにただひたすら目の前にいるがっちりとした体格の相手に向かって行く。

 何度投げられてもすぐに立ち上がって、先輩らしき相手に挑んでいくその姿は鬼気迫る感すらあった。


「そこまで!」


 監督の号令で学生たちは動きを止める。

 大きく肩で息をしながら一礼した先ほどの学生よりも、投げ飛ばしていた先輩の方が疲労しているように見えた。

 

 「ふうー」


 丁度桜の花びらも散ってしまったまだ肌寒い春の日。大量に汗を吸った学生の柔道着からは、少し湯気が立ち昇っている様だった。

 

 部員の中でもとりわけ熱心に稽古に打ち込んでいた青年、高木信一郎たかぎしんいちろうは大学二回生になったばかりだった。

 高校の時からひたすら柔道を続けている。

 上背の有る信一郎は鍛え上げられたごつい体つきをしていた。そして二枚目からは少し外れた無骨な顔立ちをしていたが、目元に愛嬌があってなんだか憎めない感じの男だった。

 先輩たちが肩で息をしている中、信一郎は汗ぼとぼとでありながらもまだやる気をみなぎらせていた。

 信一郎にそうさせるのは憤りと焦りがあるからなのだろう。

 三つ上の代までは強豪で名をはせた大学柔道部だったが、このところの何年かはライバル校に苦い負けを喫していた。

 当時信一郎は、同じ柔道部二回生の松田謙三まつだけんぞうと、同じく二回生の相馬太一そうまたいちと、勉強そっちのけでひたすら稽古に明け暮れていた。

 寮生活の三人は仲が良く、何をするにも一緒だった。

 ある時、信一郎よりもごつい体格の松田謙三が、寮で三人が夕飯を食べているときに一枚のビラを見せた。


「これ、どう思う?」


 信一郎と太一はその一度丸めて伸ばしたような皺だらけのビラを見て、なんだこれと口をそろえて尋ねた。

 そこには誠真館と太字で大きく刷られており、合気道、道場生募集と書かれていた。


「なんだ? 合気道って?」


 少し小柄だが、がっちりした体格の太一は、聞いたこともない武道だと首を傾げた。


「俺は聞いたことがある。講道館とつながりがあるんだろ」


 信一郎はうろ覚えだったが耳にしたことが有った。

 柔道の開祖、加納治五郎が興した講道館柔道は、合気道と何かしらの縁があると聞いたことがあった。

 そして隅っこに描かれてある簡単な地図に目をやる。


「場所は龍泉寺のあたりだな。ちょっと待てそれって」


 信一郎には思い当ることが有った。

 龍泉寺横の地獄道場。

 稽古がきつ過ぎて逃げ出す者が後を絶たないと言われる、悪名高い道場だった。


「一度行ってみないか?」


 謙三は真剣だった。


「今のままじゃ俺たちあの大学に勝てないと思うんだ」


 謙三が言ったように、他の二人も同じことを感じていた。

 とかく悪い噂しか聞かない道場だったが、このままじっとしていても仕方が無いと、取り敢えず見学に行くことにしたのだった。



 大学の講義を終えて、電車に揺られて三人がやって来た先は、閑静な住宅地だった。

 目印の龍泉寺はすぐに見つかり、寺に隣接するように建っていた道場にも簡単に行きついた。

 そうして三人は龍泉寺横の地獄道場、誠真館の門をくぐった。

 当時の誠真館の敷地には、道場の他に内弟子たちが寝泊まりしている施設と、師範が生活している母屋があった。

 とりあえず母屋に挨拶しようと玄関口から信一郎が代表して声をかける。


「すみません。どなたかおられませんか」


 すりガラス越しにこちらに来る白い人影が映る。

 そして引き戸ががらりと音を立てて開くと、一人の女性が姿を現した。

 その姿を一目見た瞬間に三人とも呆然となった。

 そこには白いワンピースを着た、黒髪の美しい、切れ長の瞳の女性が立っていた。

 自分たちよりも少し歳下だろうか、少女のようでもあり、それでいて落ち着いた大人の雰囲気のある女性だった。

 三人ともこんな綺麗な人に会ったことがなかった。


「ご用件は?」


 そう聞かれて信一郎は我に返った。


「僕たちはT大学の柔道部のものです。このビラを見てこちらに伺いました。」


 信一郎は皺だらけのビラを見せた。


「そうでしたか。少しお待ちください」


 そう言って奥に戻っていった。

 そして次に現れたのが当時の師範、大島誠太郎(おおしませいたろう)だった。のちの誠司の祖父である。

 白い道着に濃紺の袴を身に着けた大島は50代くらいに見えた。武道家としては小柄な体格だったが、三人を見るその目の鋭さにただならぬものがあった。


「こちらへ」


 そう言われて、今はまだ稽古が始まっていない道場に案内された。

 道場に入ろうとすると大島は綺麗な所作で正座をして二度ほど正面を向いて礼をした。

 三人も真似をして道場に入る。

 そして大島はそこへお座りなさいと三人に言い、自分は畳一つ分を空けて向かい合って正座した。


「大島です」


 先に頭を下げられて、慌てて信一郎たちもそれに倣った。

 そして深く頭を下げたときに、ポンと頭をたたかれた。

 

 いつの間に……。


 大島は座ったままの姿勢で、いつの間にか間合いを詰めて三人の頭を同じように叩いていた。

 三人とも目の前の男が自分たちの間合いに入っていたことに、まるで気付かなかったのだ。


「お前さんたち、礼の仕方も知らんのか」


 大島の口調は厳しいものではなかった。

 まるで子供に何か教えている父親のようであった。


「俺がもし危険な奴だったら、今頃三人とも頭を割られて死んでるだろうな」

「いや、今のは油断してましたから」


 太一がそう言うと大島の目の色が変わった。

 目の前にいた小柄な男は影も形もなくなり、大きな威圧感を持った静かに獲物を狙う肉食獣に変貌したと信一郎は感じた。


「油断をしていなければよけれると」


 大島は静かに訊いた。

 信一郎はその眼を見て、本能的に危険だと感じた。


「よけれると思います」


 引っ込みのつかなくなった太一は、冷たい汗を流しながらこたえた。


「そうか」


 大島は短く言った。

 そして器用に正座の姿勢のまま少し下がると、もう一度姿勢を正し、相馬太一に向かって一礼した。

 太一も警戒しつつ一礼する。


「立ちなさい」


 大島は太一に立つように指示する。大島は座ったままだ。


「突きでも、蹴りでもええ。何でもええから仕掛けてこい」


 大島は少し膝と膝の間隔を空けて正座している。いや、袴で分かりにくいがつま先が立っている。起座と言われる姿勢だった。

 太一はしばらく立ったまま、その威圧感に動けずにいた。


「どうした。早くせんと日が暮れるぞ」


 次の瞬間、鋭く息を吐きながら、太一は大島に掴みかかっていた。


 そして……。


 信一郎と謙三の目の前で太一の体は宙に浮いていた。

 信一郎はその瞬間を現実感を伴わない心地で目にしていた。大島は立つこともなく、そのままの姿勢のまま太一の側面に回り込み、見たこともない技をかけて太一を宙に舞わせていた。

 そして大きな音を立てて、太一は受け身を取り切れないまま畳の上に仰向けにされてしまっていた。

 そしてまた大島は太一の頭をポンと叩いた。


「もう一度やるか?」


 大島は少し歯を見せて笑った。

 そして信一郎たちはその場で入門した。



 それから三人は毎日のように稽古に励んだ。

 道場には内弟子と呼ばれる一体普段何をしているのか分からない男たちが数人住み込んでいて、学生の信一郎たちよりかなりの時間、稽古に打ち込んでいるようだった。

 そしてその内弟子と呼ばれる男たちはとんでもなく強かった。

 三人とも稽古はいくら辛くても休まず続けていたが、内弟子と呼ばれる男たちとの差は縮まることはなかった。



 誠真館に出入りしはじめて半年、稽古を終えての帰り道、信一郎は謙三と太一にあることを打ち明けた。


「俺、大学の寮を出てこっちに住み込もうかと思ってる」


 意外だったみたいで、健三がすかさず聞いてきた。


「なんだって? 大学はどうするんだ?」

「こっから通うよ。無理な距離じゃない」


 太一は呆れ顔で、頭半分背の高い信一郎を見上げる。


「あの内弟子みたいになるってことか?」

「ああ。もっと強くなりたいんだ」


 もともと柔道の肥やしになればと始めた合気道に、信一郎は完全にのめり込んでしまっていた。


 内弟子のように、誠真館に住み込んで稽古する。

 そう公言した信一郎の決意は固かった。

 そして信一郎にはもう一つそうしたい理由があった。

 それは大島の娘、静江(しずえ)の存在だった。

 静江は信一郎より一つ歳下の、女子大に通う女学生だった。

 時々稽古の合間に西瓜を差し入れてくれたり、掃除をしたりと、道場のことをなにかと静江は手伝っていた。

 特に親しく話したことなどなかったが、静江の物静かな美しさに信一郎はずっと好意を抱いていたのだった。

 師範である大島の了解をもらい、信一郎は寮を引き払って、内弟子と同じ離れの部屋の一つに寝泊まりするようになった。

 信一郎が一番驚いたのは家賃が無料だったことだった。

 しかも静江が作ってくれる飯付きだった。

 信一郎は毎日ぼろ雑巾になるぐらい稽古に明け暮れたが、そのせいで単位をたくさん落とした。

 そのことが大島に露見しどやされたが、信一郎はそれでも稽古にのめり込んでいった。

 そのうちに謙三も太一も家賃無料と静江目当てに、狭い信一郎の部屋に越してきた。

 そして四畳半の部屋に、汗臭い三人の男が寝起きを共にする生活が始まったのだった。

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