Time to Haven (タイム・トゥ・ヘイヴン)
暇とは発想の宝庫である。何か思いつくときは往々にして暇なときである。
しかし宝庫にもゴミはある。廃棄された試作品や錆びたガラクタも混じっている。
暇なときに嫌な体験を思い出して、身体をジタバタと動かしたり、奇声を上げたりしたくなることがある。時間を戻してやり直したい。自分を殴ってやりたい。そんな過去の記憶に対して怒りを覚えるということは実益のない無駄なことである。
人々に何千何万何億回と空想されることがある。時代が変わろうとも夢見ることがある。世界中の人々が考えるクロスボーダーな空想がある。
それは、そんな『時間を戻したい』という時間遡行についての空想である。
時間を戻せたら。その願いは今現在、残念なことに、実現可能性が低いとされている。どれだけ望んでも時間を戻すことは叶わない。しかし、もしかしたら。自分の知らないところで。そう考えてしまう。
空想において、時間遡行は簡単に採用されるくらいに思考の選択肢としては支配的である。というのも他の実現可能性との比較検討を放棄して、人は簡単に時間を戻せたらと考えるのだから。
似たような空想にお金持ちになりたいというのがある。そこにはそれぞれにどこからがお金持ちかというような基準の差が生まれるが『時を戻したい』にはそんな基準の差は無く、各々の目的が違うという違いになる。
時間遡行について、世に出ているかは問わないで空想の数だけ物語があるとするならば、何千何万何億個もの物語が存在することになる。そう、それは目的が違うからである。
たった一人の空想の中であろうが、世に出た小説であろうが、時間遡行は共通の人々の好物として多くの支持を集めている。だから空想が広がる。小説が読まれる。物語が紡がれる。世界は伸長拡大していく。
タイムマシン。それは時間遡行を可能とする機械。私達は物語の途中に時を越える機械が登場したところで大して驚かない。慣れてしまっている。
私達はタイムマシンを新鮮味のない異常を物語の活性剤として当然に受け入れている。人が自らの力で空を飛ぶよりも難しいというのに。
その便利な機械装置は最も簡単に物語に取り込まれる。それが一度持ち出されれば、積み上げてきた事象や緻密な目論みを簡単に破壊することができる。時間遡行にはタイムマシンや不可思議現象という漠然とした過程以外に根拠は必要ないのである。
けれど読み手は納得する。そこにタイムマシンがあるということを受け入れる。タイムマシンは破壊装置である。
そして、ここにも。とある物語に一つのタイムマシンが確かに存在する。物語の登場人物は博士の偉大な発明に歓喜する。そのタイムマシンに疑いの目が向けられることはない。
「博士、入りますよ。」
扉を開ける。キィと錆びついた金属が擦れる音がした。施錠なんてされていない。不用心なこと極まりない。
「毎回思うのですが、博士。鍵は閉めた方が。」
廊下の奥から住人が珈琲を啜りながらやってきた。博士だ。
「金庫は頑丈だ。金庫に入っている高価な物が盗まれたとしよう。がっかりしないかい?それは何故か。金庫が頑丈だからだよ。」
「物が盗まれたからじゃないんですか?」
「対価に見合わない事象が起きることのほうが私にとってはがっかりだな。だから開けっ放しの方が良い。」
「盗まれる方が対価に見合いませんよ。それがただの紙袋に入っていたとしても、金庫に入っていたとしても。開けっ放しなのは博士が面倒だからでしょ。」
「むぅ。一理あるな。」
博士の口癖は『一理ある』だ。この世で最も便利な言葉だと何回も言っていた。部屋までの通路の床には言語不明の本やよく分からない部品やバラバラにされた機械の残骸が散乱している。そして、特徴的なのは積み上げられた本のタワー。博士の存在はこの塔か壁か分からない本で構成された構築物越しに確認できる。
「まあ入れ。」
それらを踏まないようにして通路をゆっくりと歩く。
博士は面倒くさがりだけれど何か興味があるものに出会うと熱中しやすい。年齢は分からないがそれほど変わらない気がする。君みたいな奴は助手に丁度いい。そう言われて博士の家に行ったのが始まりだ。金曜日には必ず博士の家に来るようになった。
その博士の一言でついていった自分も自分だ。変人同士は惹かれ合うか対立する。どちらかしかない。とも博士は言っていた。前者であっても後者であっても自分が変人になってしまうなら、前者でありたい。まあ、他にも理由はあったけれど。
・・・それにしても通りにくいな。先週よりも物が増えている気がする。
「はやくこい。赤い本の落ちているあたりに右足を入れられる筈だ。そうしたら、こっちに来れるだろう。」
大量の積まれた本の壁越しに、博士に急かされる。言われた通りにしてみると右足は安息の地を踏みしめた。
「・・・ねえ博士。左足はどこを踏めばいい?」
「ああ、そうだった。確かに左足は踏み場がなかったな。ほれ。」
本の壁を博士が蹴る。バラバラと本が降ってきて、壁は崩壊し、ようやく博士の姿が現れた。
博士は実に『博士』と呼びたくなるような白衣とボサボサの髪。
「・・・掃除。しませんか。」
「一理あるな。」
提案はいつもの口癖と彼・女・の可愛らしい笑顔によって断られてしまった。
薄暗い部屋まで辿り着けた。流石に培養液に浸された異形の生命体が入った装置の存在は確認出来ない。またしても本の山と何かの部品。通路の延長線上の部屋があるだけだ。
「よく来たな。コーヒーでも飲んだらどうだ。」
博士は手に持っていたマグカップをこちらに近づけてきた。
「博士。さっきまでそれ、飲んでたでしょ。」
「細かいやつだな。仕方ない。後で新しいの入れてやるさ。全く。助手としてやっていけないぞ。」
「助手として何かをしたことありましたっけ?」
博士の返答は無くゴミの山をゴソゴソとやっている。拒んだのを少しばかり残念なことをしたと思ってしまった。
「ついに完成したんだ。ちょっと待ってて。あれ。どれだ。」
博士は毎週何かを見せてくれる。収入源はどこにあるのだろうか。そんな野暮なことは聞かない。ただ、彼女が発明と呼ぶガラクタたちは日の目を浴びることは今のところ無かった。
ゴソゴソ、バキッ!あっ!と色んなバリエーションの音が聞こえる。不安だ。少ししてそんな音がピタと止まった。
「あった。まず一つはこれ。叡智の結晶と言えよう。」
「む。」
博士から渡されたものを訝しげに見つめていたのがバレてしまった。何故ならそれは見たことのある形をしていたからだ。ハサミが物を切る形をしているように、それは機能が明示されていた。そこで、一世一代の大芝居をすることにした。
「博士。また偉大な発明をしたのですか。これは何だろう。気になります。見当もつかないです。」
下手な芝居だった。さも興味があるふりをすると、博士はパァっと明るくなった。そして一呼吸して言った。
「勉強不足だな。それは。持ち歩ける扇風機だ!茹だる暑さの日。外出なんてしたくないな。そんな時には。持ち手を付けた小さな扇風機だ。スイッチ一つで中のモーターが回転し風を生む。つまり回転した羽根が空気を押し出す。この仕組みは大きさを問わない。だから最小化して持ち歩けるようにしたんだ。」
博士の解説はとても早口だった。
「あの、博士。」
「どうした。驚愕したのか。それとも仰天したのか。無理もない。目前にいるのは天才だから。私の生命の息吹が鉄の塊を生物に変える。」
「もうあります。」
扇風機の羽根の回転音だけが部屋を包む。博士は扇風機を取り上げてスイッチをオフにした。彼女の感情のスイッチまでオフになった。
「盲点だった。一理あるな。」
一理というか事実でしかない。
「聞かせてくれ。その市販のものとこれの相違点を。」
「・・・いいんですか?」
博士がコク、と首を下に振る。
「市販されているそれはもう少し音が静かです。そこは改良した方が。あと重いです。」
「そうか。これはもういいさ。・・・もう一個あるんだが。見てくれるか。」
「ええ。是非。」
博士の心情を察してもう一つあるという発明品を見ることにした。
「よし。奥の扉を開けてみてくれ。」
「奥の扉?そんなものこの部屋には・・・。」
部屋を見渡す。あった。かつてモーセが海を割ったように扉までの本の山は傍に退けられていた。部屋の端には確かに扉が存在した。
「さあ。私の自信作を君の手で扉を開けて。瞳に焼き付けて下さいな。」
博士が背中を押して誘導する。
「勿体ぶりますね。そんなに自信があるなら最初に見せてくれれば。」
「真打登場だ。デザートも最後の方が良いだろう?私はちなみにラズベリーやフランボワーズのケーキが好きだ。」
「へえ。意外ですね。」
ドアノブを回して扉を開ける。軽い気持ちで開けた扉。会話の途中で開けた扉。
そこには。
扇風機よりも培養液に浸された異形の生命体が入った装置よりも大きな何かの機械が部屋には収まっていた。驚愕したし、仰天もした。
「博士。これは一体・・・?」
ニヤリと笑って博士は問いに答えた。
「私の好きなとても甘酸っぱいものさ。有り体に言えばこれは。タイムマシンだ。」
タイムマシン。誰もが夢見る過去に戻れる機械。それがこれだと博士は言う。彼女が発明品を説明することにおいて、嘘や誇張を用いないのは自分が一番知っている。
「どうやってこれがタイムマシンだと証明するんですか。」
博士は溜息を吐いた。
「はあ。疑っていなければ出てこない意見だな。だが、一理ある。答えもある。実際に使えばいい。それだけのことだ。何かあるだろう。やり直したい過去の一つや二つ・・・百つ。」
「そんなにないですよ。どれだけ失敗しているんですか。でもまあ、確かに一つや二つならありますよ。」
「じゃあ使えばいいじゃないか。」
「リスクがあるんじゃないですか?実は戻ってこれないとか。」
「・・・・・・・なぃょ。」
「声小さっ!博士は使わないんですか?若しくは使ったんですか?」
「テストプレイなんてできるものか。タイムマシンだぞ?時を遡る冒涜を一人でしろと?」
理なんて本当は一つもなかった。それは漠然とではあるがこの時間が好きだからだ。けれど一緒にリスクを侵すならばと許容できた。そんな時にこの言葉は便利だと思った。
「・・・成程、一理ありますね。」
機械に一歩近づいて言った。これからすることに自分でも笑ってしまう。馬鹿げた行為だと思う。断ったところで博士は証明を試みるだろう。その行動をする必要性などないのである。
「おっ。嬉しいねえ。それではさっそく押そうじゃないか。とりあえず昨日に行ってみようか。それならどうだ。」
「まあそれなら。でも、1億年前だろうが、一日前だろうが危険性は変わらないような気もしますが。」
「せーので押そうか。例に漏れず、言わずもがな私の作品はスイッチ式だ。」
博士のスイッチへのこだわりはどうでもいい。
「ええ。では。」
「せーので押すぞ。」
「「せー・・・。」」
「いや、待て。私の手の上に君の手を置いてくれ。スイッチを自ら押すのは酷だからな。もしこれが最後の時となったならば、君に謝罪をすることが不可能になる。」
「ふふ。面白いことをする。これじゃあ連帯責任だ。君がそれでいいなら、私もそれでいい。・・・違うな。私もそれが良い。じゃ、いくぞ。」
「「せーの。」」
二人はスイッチを押した。
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「助手。暇だろう。話を聞いてくれないか。」
「良いですけど。改まってどうしました?いつもしてるでしょう。」
「テーマはあるんだ。『倫理』。」
「博士が未修了の科目ですね。早く履修して下さい。」
「酷いな君は。ま、そのまま話すけど。君が法律に書かれていない行為をしたとしよう。ああ、なんて鬼畜なんだ。君にはそんな嗜好が。それはドン引きだぞ・・・という行為をした。さあ、どうなると思う?」
博士は胸ポケットに刺していたボールペンを向けてきた。
「どんな想像をしているんですか。まぁ、捕まらないんじゃないですか?」
「その可能性は大いにあるな。法律がなければ裁かれない。大原則だ。しかし、一方で。こんな考え方がある。人間には倫理がある。倫理を表現した形が法律だ。法律の隙間には倫理があると考えるんだ。」
「面白いですね。でもどうして今その話を?」
そう聞くと博士はボールペンを回して手遊びをしながら答えた。
「科学には倫理が及ぶのだろうか。及ぶだろうな。人間のいる世界ではな。私、そして君。人間なんていると思うな。獣ですらない。倫理なんて及ばないくらいに、何をされてもいいくらいに。君に時間も全て捧げよう。」
博士は後に語ってくれた。
彼女の行き着いた見解。
時間を遡ることは出来ない。時間は進みながら崩壊していく。過去とは崩壊して散った時間であり、それは二度と再現出来ない。何もない空間で停止した時が続いていくとのことだった。
博士のタイムマシンは完成していた。これがタイムマシン。博士よりも先に発明した人がいたのならばその人達も散った時間にいるのだろう。
しかし、破片と破片が交わることはない。
皆が例外。何にも属さずにいつまでも平行に続いていく。
左手に温もりを感じながら、理から外れた倫理の無い世界で自分が一人ではない、例外中の例外であることを実感した。
「博士。」
「なんだい。」
博士が微笑む。
壊れた時間は戻せない。