百八話【覚悟と挑戦】
すると、パレットが僕の胸ぐらを掴んできた。
「聞いてなかったのか!?もうそこまで来てんだ!姿を見られるのも時間の問題だぞ!」
見たところ、感情が昂っている。怒ってるんだろうな。
至極当然の返しだろう。僕だって分かる。あの存在感の前では、僕程度その影を見る間もなく殺される。
「……お願いッス、歌絲さん。言うこと聞いて欲しいッス。このままだと本当に死んじゃうかもしれないんスよ……!」
マキは必死に止めようとしてくれる。でも、それじゃダメなんだ。
「……分かってる。僕じゃ足でまといにしかならないって」
「分かってるなら何故コイツの指示に従わない!無駄死にしたいのか!」
「……そうだよ」
「なっ……てめぇ馬鹿か!!」
そう思うのも無理はない。これは、僕だけが知っている僕だけの秘密だ。誰にも教えていない。
「……たとえ死んだとしても、僕は後悔なんかしない。ここで逃げるくらいなら死んだ方がマシだ」
こんな結果になるなら、死んで螺旋階段を出たところからやり直す。そういう考えもあるだろう。
「何考えてるんスか!!もう時間が無いんス!!早くこっちに──」
マキは怒鳴り散らすように言う。
「……これは僕からの最後のお願いだ。呑み込んでくれ」
差し伸べられた手を振り払い、より強い存在感のする方へ進む。
右と左では感じる存在感が異なっていた。僕の感じ方では右の方が強い気がする。
しかし、左は捉え方によっては右より恐ろしい。正直どっちに行っても変わらないと思う。
「……直感だけどいいよね」
マストルを探していたら、いずれは出会うことになるだろう。
どうせなら、動きの癖のひとつくらい覚えておきたい。
「さぁ、出てこいよ」
身が引き締まるような冷たい視線を辿り、その存在感を見る。
その存在感は勘づいたのか、僕の前にその姿を現した。
その化け物は人型をしていたが、全身は黒で覆われ、背中からは刃がついた尾のようなものが垂れていた。
ついでに無口と来たものだ。
「……アル……」
化け物が何か喋っている。
どことなく、その姿は苦しそうに見える。これはチャンスだ。
全力で展開した異形質で化け物の目の前まで移動し、懐に備えていた短剣を突き出した。
「小手調べ……ってね!」
しかし、化け物はそれを易易と躱した。やはり格が違うということなのだろう。
「……ト……げろ」
また何か呟いている。戦いの最中に喋る余裕がある辺り、僕なんて眼中に無いのだろう。
「僕を甘く見るな!」
気配のする方に再度剣を振る。しかし、それはまた易易と躱される。
何度も太刀を振るい、何度もその気配を斬り続けたが、一向に当たらない。
「はぁ、はぁ、はぁ……本当になんなんだよ、この化け物……」
化け物は疲れひとつ見せない。恐ろしい程の身体能力だ。
まだ数分とはいえ、本気の状態を維持するのは相当の体力を要する。さすがに疲労が溜まってきた。
「……アル……んで……ない……!な……で!!」
化け物が僕に手を向けながら苦しそうに言う。しかし、それはよく聞いてみると、聞き覚えがあるような声だった。
しかし、敵であるのは変わりない。あの存在感、あの殺気、間違えなく僕を殺しに来ている。
なのに、何故かあの化け物からそれ以上は感じられなかった。
「……何か言いたいことでもあるの?」
声を潜め、問いかけてみる。
しかし、化け物はただ苦しそうにもがくだけ。何を言っても返しは同じだった。
敵とは言え、さすがに可哀想だと思った。せめてのこと、僕の手で殺してやる。
「まずは動きを封じる……」
手に紋章を出現させ、黒い糸で化け物を縛り付けた。
「……掴んで、縮小……!」
黒い糸は段々と短くなり、化け物もそれにつれて僕の方へ引き寄せられていく。完璧だ。
「ごめん。でも、これしか思いつかなかったんだ」
短剣に異形質を纏わせ、全力でそれを振る。たとえ外れても、これなら斬撃が追尾してくれる。
この攻撃だけは当たる。そう確信していた───
「いっけぇええ!」
風を切るような音とともに、斬撃は虚しく宙を切った。
化け物は素早く糸をひきちぎり、身を下に向けていた。避けられたのだ。
確信していた故、その反動は大きかった。隙が大きすぎる。
もうダメだ。殺される。そう思った瞬間だった。
「……なぜ邪魔をするの?」
後ろからの聞こえた冷たい声が耳を刺した。