2.レディエンスの少女
唸り声を上げてこちらを注視する熊の魔物――このあたりではそうそう見ないウールベアだろうか。
その姿を確認すると、キアは腰に下げていた剣を引き抜いた。
背後にいる少女が今どうしているかは見えないが、とにかくこのまま彼女と逃げても村まで来られてしまう。その時の被害を考えればここで倒してしまったほうが倍以上いいのである。
――勝てるかどうかは別として、だが。
「グルルァァァ……!」
よほど腹を空かせているのかもしれない、好戦的な唸り声を上げウールベアが突進してくる。
それをぎりぎりでかわし、突進している後ろ足の部分に思いっきり足を引っ掛ける。
「ギャウッ!?」
魔物というのは単純で助かる。難なく倒れたウールベアの背に剣を突き立てると、横幅でも自分の倍はある巨体がびくりと痙攣した。
――が、困ったことにこのウールベアという奴、心の蔵が三つあるとも言われているほどの耐久力を有している。この程度では、すぐに振り落されるのは必至だった。
すぐさま剣を抜いて飛びのけば、間一髪というべきだろう。怒り狂ったウールベアの鋭い爪が、それまでキアがいた場所で唸りを上げる。
あの爪に引き裂かれるのは流石に勘弁である。槍の穂先に加工されるほど鋭い上に、当たれば肉をごっそりえぐり取られる。その爪に体が触れないように暫し追いかけっこを続ければ、先に負傷していたウールベアの動きが遅くなっていく。
この流れ自体は、旅慣れた傭兵やそれなりに腕のたつ者ならば誰でも知っている。皮膚が厚く体力も満ち溢れているウールベアに対処するには、まず出来る限り大きな負傷をさせて怒らせ、逃げ回ればいいのである。
そろそろか――ウールベアがふらついてきたのを見計らい、キアは助走をつけて高く中空に跳ねる。
そのまま魔物の背後に着地し、うろたえるその背中へ剣を突き立てた――。
気絶していた少女を抱えて、キアは自宅のドアを蹴り破る。
「――母さん、手を貸してくれ」
入ってすぐのキッチンで水仕事をしていた母親に声をかけ、キアは腕の中の少女をソファに寝かせた。
「おや、まあ。どうしたんだい」
父親と同じく年老いた母親の質問に、キアは先ほどの事情を説明する。
怪我などは一切ないものの、ウールベアとの戦争の間に余程体力を消費していたらしい。少女の顔色はあまり良くなかった。
「おやおや、お医者もいない村なのに困ったものだね……。熱があるようだから、ベッドに連れて行っておやり。氷と、濡らしたタオルを用意してあげるよ」
一瞬だけ、母親の言葉に戸惑う。ベッドに、と言われて連れて行ける場所は、母親か父親か自分の部屋。まさか両親の部屋を使うわけにもいかないために、消去法として結局自分の部屋のベッドに寝かせるしかない――
一応、女の子なんですけど。良いんですかお母さん。
一瞬だけのその迷いを、母親の「さっさとおし!」という喝にかき消される。慌てて少女を抱き上げると、キアは複雑な思いで少女を自室に連れて行く。
起こさないよう、そっと軽い体を横たえる。改めてみれば、ほんの少し自分より押さないであろう彼女は相当な美少女である事が理解できる。
角度によってはほんの少し緑にも見える、糸のように細く柔らかい金髪。そこに細やかな作りの整った輪郭が収まっている。肌の色は随分と白く、透き通るように繊細で。
ほんの少し見惚れていれば、部屋のドアがノックされた。慌ててベッドから離れてドアを開ければ、氷水の入った洗面器とタオルを持って母親が入ってきた。
「それにしても、キアが女の子を連れてくるなんてねぇ」
「……母さん、ちょっとそういう言い方は違うんじゃないの」
開口一番、とんでもない事を言い出す母親に苦笑いを隠せない。
とはいえ両親の年齢を考えれば、彼らが自分にいい結婚相手を探したくなるのも理解できなくはない。
……先ほどの発言は少々、唐突すぎるものはあるが。
「かわいい子だけれど、神官さんかしらね。多分、レディエンスの方の宗派でしょうね」
「……レディエンスか」
少女の額に絞ったタオルをのせ、母親が呟く。
確かに、着ている服は僧服に類似したものだが、クライスト側ではあまり見ない衣装だ。
が、レディエンスという単語だけで人間の印象すらも左右されてしまうのには悲しいものを覚える。
ほぼ会話もしていなかった彼女は、一体どんな人物だろう――
願わくば、優しい子であることをキアは願った。