008 始まり×2
横並びに歩く綾奈と香澄、その二歩後ろを巧が続く。三人の目的地は、文芸部の部室だった。放課後の校内には、生徒たちの活気ある声が響いている。それは、巧たち三人も変わらなかった。
「歴史小説なら、幕末が一番面白いと思いよ。時代の変遷に立ち向かう男たち、読んでて興奮しない? 綾奈もそう思うでしょ?」
「うん、私も幕末小説は好きだけど……一番は戦国時代の方かな?」
「戦国時代、ね。やっぱり、織田信長?」
「……えっと、私は徳川家康の方が好きかな。我慢して、我慢して、最後に勝つのがカッコいい。家臣団も特徴的な人が多くて、魅力的なんだ」
「う~ん、私は織田信長が好きかな。椎名くんは、誰か好き武将はいる?」
「真田幸村かな。小説と言うよりも、大河ドラマの影響だけどね」
香澄が会話をリードし、綾奈が言葉少なに意見する。巧は聞き役に徹しつつ、話題が振られれば回答する。三人の関係性は築かれつつあった。
そうして、取り留めのない会話を続けている内に、文芸部室へたどり着く。文化部部室棟三階の奥まった場所に部室はある。隔週隔日で活動する文化部が多いからか、三階フロアは驚くほどに静かだった。
「なんだか、わくわくしますね」
三人揃って部室を眺めている中、綾奈が弾んだ声で言う。
巧の予想とは裏腹に、綾奈は文芸部への参加に乗り気だった。香澄に無理やり参加させられたわけでもないらしく、負けず劣らずの熱意を見せている。
「私もそう思う。なんだか、三人だけの秘密基地ができたみたいで……小学生のころに戻ったような、懐かしい気持ちにならない?」
「…………ごめんなさい、香澄さん。そんなに、外では遊ばなかったから」
綾奈が嘘をついた、その事実に巧はすぐ気がついた。しかし、口を固く閉ざし、何も言わない。
巧と綾奈の二人だけで築いた秘密基地は、"過去の"綾奈の記憶にしかない。
そもそも、"今の"綾奈の記憶の中に、外で遊んだ記憶が残っているかどうかも怪しかった。
「椎名くんは、秘密基地ごっことかしてた?」
「……ああ、俺はしてたよ。仲の良い友達がいたからね」
巧が答えた後、香澄は「男の子だもんね」とわざとらしく声を上げる。綾奈の記憶喪失を思い出したのか、一瞬だけ表情を引きつらせていた。
パン、と一度大きく香澄は手を叩き、嫌な雰囲気を切り替える。ポケットから部室の鍵を取り出した。
「そろそろ、部室に入ろうか」
香澄は声を掛けながら、ドアの鍵穴へ鍵を差し込んでいく。カチャンと甲高い音が響き、香澄は部室内に足を踏み入れる。その後に、綾奈、巧の順で続いた。
整理整頓の行き届いた、こじんまりとした空間だった。長机が中央に鎮座し、囲むようにパイプ椅子が四個置かれている。壁沿いの書類棚には、電子化以前の活動記録を収めたキングファイルが並び、空きスペースにノートパソコンなどの備品が載せられていた。
長机の上に連絡用の小さなホワイトボードが置かれている。そこに書かれた文を読み、巧たち三人は自然と笑っていた。
『未来の後輩たちへ 下手糞な小説、詩、短歌……黒歴史を残すこと、先輩一同心から楽しみにしています。 P.S.私たちの駄作も参考にしてね』
三月で卒業した先輩は、女生徒三人だったのだろう。それぞれの名前がホワイトボードの右隅に書かれていた。
「これは、期待に応えないと……二人も、そう思わない?」
悪戯っぽい笑みで香澄は訊ねるが、最初から答えは決まっていた。
巧と綾奈が頷く姿を見るや、窓へと走って一気に開放する。瞬間、新鮮な空気が部室内を突き抜けていった。
「ここに、文芸部復活を宣言します!」
どこかの小説の受け入りか、両手を腰に当てて香澄はふんぞり返って宣言した。慌てて拍手を始めた綾奈に倣うように、巧も拍手し始める。
新入生三人による創作活動、どうなることかと不安は覚える。しかし、横目で見た綾奈は楽しそうに笑っていた。それで十分だった。なんとでもなる、と巧は楽観的に考えた。
窓から差し込む春の日差しは心地よく、自然と笑ってしまう
長机に座って談笑しながら作業をする――巧たち三人の姿が頭に思い浮かぶようだった。
◆
巧と瑠璃の連絡会も三回目となる。開幕と同時に、瑠璃が謝罪した。
「巧くん、昨日はごめんなさい。私がお願いしているのに……酷い、態度だったと思う。本当に、ごめんなさい」
スマートフォン越しに、ガバリと頭を下げる音が聞こえてきた。律儀な性格は昔と変わっていない。
「謝らないでください、瑠璃さん。……俺も、同罪ですから」
「巧くんも?」
「ええ、中村さんに嫉妬したんです。俺や瑠璃さんと違って、"今の"綾奈しか知らないことに……」
数秒間の沈黙が流れた後、ボンボンと小さく跳ねる音が聞こえてくる。瑠璃がベッドの上に寝転がったのかもしれない。
「私にも、巧くんにも……"過去の"綾奈を忘れるなんて、きっとできないね」
巧にではなく、瑠璃自身に向かって言葉が放たれる。大きなため息が瑠璃から漏れ出していた。
「でも……私たちも"今の"綾奈を見つめていかないと、だね」
次いで紡がれた言葉は明るい。言い聞かせるような口調で瑠璃は言った。
「晩御飯を食べた後に、綾奈と少し話をしたんだよ。そうしたら、学校がすごく楽しいって、綾奈が本当にね、嬉しそうに笑うんだ」
「瑠璃さん……」
「綾奈が中学生のときは、二言三言で終わっていたんだよ? それが、一人で何分も話すんだから、私も驚いちゃった」
そう言って瑠璃はクスクスと笑い始める。
「久しぶりに、綾奈と会話をした気がするよ。巧くんに渡したスマートグラスを使わなくても、綾奈が本音で話しているって、そう信じられたんだ」
「わかる、気がします。中村さんが強引だからかな、綾奈は悩んでいる暇がないみたいで……」
「それ聞いたよ。香澄さん、て呼んでいるみたいだね」
「中村さんには、すっかり先を越されましたよ。俺は"姫乃さん"なのに、中村さんは"綾奈"と呼び捨てですから」
巧と香澄で状況が違うのだから、綾奈への接し方も違うのは当然だ。ただ、それを除いても性格による面が大きい気がする。香澄ほど強引に迫ることは、巧にはできそうもなかった。
「嫉妬しちゃう?」
「嫉妬しますよ」
どちらからともなく笑いが漏れる。お互いに冗談で笑えるほど、香澄に抱いてしまった劣等感への折り合いはついていた。
その後、数分間に渡って取り留めのない話をしていた。勉強や高校生活、内容は何でもありだ。そんな中、瑠璃が「忘れてた」と唐突に声を上げた。
「何をですか?」
「私と巧くんの関係。綾奈と話をしたときに聞かれたんだ」
「……俺は、仲の良い先輩だと説明しましたよ?」
巧は過去の会話を思い出す。"幼馴染ではない"と伝えている以上、巧と瑠璃の関係性を別の言葉で表さなければならない。すると、先輩後輩あたりが無難ではないだろうか。
「巧くん、ごめんなさい」
瑠璃が申し訳なさそうに言う。
「私と巧くんが……その、お付き合いしているからって、綾奈に話しちゃった」