007 小さな劣等感と、ささやかな優越感
「……巧くん、なんだか順調みたい」
毎晩の連絡会、そこで文芸部復活を伝えた瞬間から瑠璃は拗ねていた。スマートフォン越しに聞こえる声もどこか弱々しく、言葉だけで喜んでいるように思えた。
「瑠璃さんは、綾奈が部活動することに反対ですか?」
「反対なんてしないよ……むしろ、大賛成。その中村さんが誘ってくれなかったから、綾奈はきっと帰宅部だったと思うし」
「……すみません、俺は帰宅部でもいいと思ってました」
「いいんだよ、巧くんは間違ってないし、私も同じ考えだったから。"今の"綾奈はすごく臆病だから、無理して部活動をしろなんて、私も言えなかったと思う」
瑠璃は大きなため息を吐き出す。数秒間、巧は何も言えずにいた。
「綾奈は、どんどん変わっていくね」
ポツリと瑠璃が言葉を漏らす。寂しいとも悔しいとも聞こえる、複雑な声色で、瑠璃本来の明るさは失われていた。
「俺は良いことだと思います」
「私もそう思うよ。……だけどさ、綾奈が自信を失っていることに気づいてから、私だって一生懸命に頑張ったんだよ。でも、変えてあげられなかった」
「……瑠璃さん」
「ごめんね、巧くん。本当は、愚痴なんて言いたくないんだ。綾奈が前向きになるなら、喜ばないといけないって、わかっているんだよ」
瑠璃の声は涙混じりに変わっていく。
「それでも、悔しいよ。私、引っ込みがちな綾奈を、前向きにしてあげられなかった。二日しか会ってない、クラスメートに負けちゃった……」
そこで、瑠璃は言葉を途切れさせる。しゃくり上げる音が聞こえた瞬間、涙を流す瑠璃の顔が思い浮かんでしまう。
「こんな、嫌なお姉ちゃんになるつもりはなかったんだけど……ごめんね、今日はもう切るよ。巧くん、綾奈のことはお願いしたから」
一方的に話し終えると、ツーツーツーと電子音が響く。瑠璃の声はもう聞こえなかった。
「瑠璃さん……」
やるせなさを覚えたのは、決して瑠璃一人ではない。香澄に敗北感を覚えたのは、巧も同じだった。
◆
翌日、巧が登校したとき、香澄は自席で読書をしていた。それは、昨日と全く同じ光景だった。
「おはよう、椎名くん」
声を掛ける香澄に挨拶を返し、巧も自分の席に座った。すると、昨日の巻き戻しのように香澄は椅子を寄せてくる。
にやけ顔を抑えらずに失敗した、そんな奇妙な顔で香澄は笑い、ピースサインを巧に送った。
「三人での部活動、楽しみだね。今日から始動だから、忘れないでよ」
「それは、わかっているけれど……俺、小説なんて書いたことないんだけど」
「詩や短歌、読んだ小説のレビュー記事でもいいんだし、そこは気楽に考えればいいんじゃない? 私も、きっと綾奈も、小説は読む専門だろうし」
香澄は笑い、パンパンと閉じた文庫本の表紙を叩いて見せる。巧もつられて小さく笑った。
「運動部みたいにハードな練習をするわけでもないし、それくらい軽い気持ちの方が楽しいかもな?」
「年一回の文芸部誌を作ればいいだけだし、そんなもんだよ」
「文芸部誌、か。年一回とは言え、大変そうだけどね」
「でも、電子ファイルでの保管だから冊子としては残らないし、部誌って感じはしないよ。昨日、綾奈と一緒に過去の部誌をいくつか見たんだけどさ、部員が好き勝手に書いているだけで、特別レベルが高いわけでもなかったんだ。誤字脱字も結構多かったし」
昨日読んだ部誌を思い出したのか、香澄はクスクスと笑いを噴き出している。
将来、巧たちが書いた小説も、未来の後輩たちに笑われるかもしれない。ふと巧は思ったが、楽しげな香澄へ水を差す気にはならなかった。
「それにしても、姫乃さんと一気に仲良くなったんだな」
思わず漏れた本音は、巧が油断していた証拠だった。瞬間、香澄の笑い声は止まっていた。
「椎名くん、もしかして……私に嫉妬している?」
ニヤニヤと口元を緩め、香澄が下から見上げてくる。顔を近づける香澄に、思わず巧は大きく仰け反っていた。
「独占欲が強いんだ。ちょっと、意外かも」
「……あまり揶揄うなよ。他のクラスメートも見ているだろ」
「はいはい、ごめんなさい」
悪いと少しも感じていない、ぞんざいな謝罪をして香澄は身体を戻す。巧は後頭部をガリガリと搔き、香澄を睨みつけていた。
キューピッド役になる、そう宣言した通りに香澄は動いてくれた。綾奈との距離感に嫉妬はするが、感謝もしている。しかしそれは、巧自身を玩具にすることとは別問題だろう。容認するつもりはない。
「あの、そんなに怒ると思わなくて……ごめんなさい」
巧が本気で苛立っていると察したのか、香澄が急に表情を変える。深く頭を下げる姿は、先ほどまでとは別人のようだった。
虐める側と、虐められる側。
巧と香澄の立場が急に逆転していた。巧は大きく息を吐き出し、両頬を軽く指先で揉みしだいていく。
「中村さん」
巧が声を掛けると、香澄の身体がびくりと大きく跳ねる。行動的な印象を受けていたが、臆病な一面もあるのかもしれない。
「本当に怒っていないから、そんなに謝らないでよ」
恐るおそるに覗き見る香澄は「本当?」と短く訊ねる。叱られた子犬のように縮こまる香澄に、怒る気は少しも起きない。巧は「本当だよ」と返していた。
「中村さん、あまり怒られたことないんじゃない?」
「……怒られ慣れている方が変なんだよ」
巧が悪戯っぽく訊ねると、身体を起こした香澄は恥ずかしそうに顔を背ける。拗ねた幼子みたいに香澄は唇を尖らせていた。
「それもそうだね……うん、中村さんの言うとおりだ」
「……椎名くん、私をバカにしている?」
「してない、してないから。むしろ、可愛いと思ったくらい」
香澄の感情がストレートに顔に出るところは魅力的だった。いろんな表情を見せて欲しい、そう思わせるほどに見ていて楽しい。
事実、巧が少し褒めただけで、香澄の顔は真っ赤に色づいていく。
少し得意な気持ちになってしまう。香澄が綾奈に急接近して感じた敗北感が、ポロポロと崩れ落ちていくようだった。
「……あの、おはようございます」
「ん、おはよう」
綾奈に挨拶を返す。いつの間にか始業開始十分前になっていたらしく、綾奈が教室に入って来た。
「二人は、その……なんだか、すごく仲良くなったんだね」
喉に小骨が刺さったかのような、ハッキリしない口振りで綾奈は話す。その視線は、顔を赤らめた香澄に向けられていた。
「綾奈、違うから! ちょっと、二人で話そう!」
そう言って香澄が慌てた様子で立ち上がり、綾奈の腕を取って廊下に出る。学生カバンを机に置くこともできず、三十秒も経たない内に、再び綾奈は教室の外へ連れ出されて行った。ドタバタと慌ただしく、クラスメートからの視線がいくつも突き刺さる。
綾奈を助けに行くか、それとも静観するか――巧は一瞬だけ逡巡した。
「……始業までには、二人とも戻ってくるよな」
小さくつぶやいた後、香澄が置き去りにした文庫本を開く。それは、不器用な騎士と素直になれない令嬢、そんな二人の淡い恋物語だった。
パラパラと流し読みをすれば、香澄が読んでいた理由も理解できてしまう。
この物語は二人の視点で描かれている。一人は令嬢で、もう一人は令嬢付きのメイドだ。メイド視点では、じれったい恋を応援する様子が描かれている。香澄が誰に感情移入して読んでいるのか、嫌でも察してしまった。
「絶対に、誤解されているよな」
文庫本の目次からメイド視点のページを開き、何の気なしに読み始める。意外と面白いのが、なんとなく悔しかった。