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005 高校生活の始まり②

「姫乃さん、一緒に帰らない?」


 帰り支度の終えた学生カバンを机に置き、綾奈はボンヤリと教室を眺めていた。学生カバンの上で両手を枕にし、顎先を引っつけている。その様子からは、何かを考えているとも思えなかった。


 巧の呼び声に反応したのか、綾奈はゆっくりと顔を動かす。そして、バッと身体を起こした。思わぬ反応に、巧の足は止まっていた。


「あの、ごめんなさい」


 数秒間、巧を見つめた後、綾奈がポツリとつぶやいた。瞬間、巧の心は凍りつくが、一秒も経たない内に浮上し始める。


『驚いちゃった……突然、声を掛けるから……』


 どうやら巧自身を拒絶したわけでもないらしい。レンズに映った綾奈の思考を見て、思いきり安堵してしまった。


「いきなり声を掛けて、ごめんね」


 両手を合わせ、巧は申し訳なさそうに謝る。綾奈は大きく首を左右に振った。


「椎名くんが謝る必要なんて……私の方こそ、謝らないといけないのに……」

「姫乃さんが謝ることなんて、何かあった?」


 思わず巧が訊ねると、綾奈はポケットに手を突っ込み、一枚のメモ帳を取り出す。見覚えのある文字を表に、綾奈はたたんでいたメモ帳を広げて見せた。


「これ、椎名くんが書いてくれたんだよね?」


 確信を持った声に、巧は頷くしかない。覗き見たレンズにも『中村さんの言うとおりだ』と表示されている。

 香澄が綾奈と話したのは、数十秒にも満たない時間だった。その時間の中で、香澄が何を言ったのか……知りたいような知りたくないような、なんとも言い難い気持ちになる。


「椎名くん、ありがとう」


 綾奈は立ち上がって頭を下げる。まさかお礼を言われるとは思っておらず、一瞬狼狽してしまった。

 心の中にあたたかな感情が広がっていくが、すぐにハッと思い出す。

 感謝を受けるべきは、巧だけではない。協力者――香澄の存在がなければ、どうすることもできなかっただろう。


「明日、中村さんにも言ってあげなよ。協力してくれたからこそ、そのメモ帳を渡すことができたんだからさ」

「うん、わかった」

「それで、話は戻るんだけど、途中まで一緒に帰らない?」

「……瑠璃さんに、お願いされたんですか?」

「いや、俺が一緒に帰りたいだけだよ」


 綾奈は表情を曇らせるが、巧はお構いなしに回答する。

 瑠璃は"過去の"綾奈を望んでいる、そんな思い込みに囚われる綾奈に、どんな言葉を掛けても無意味だろう。だから、無視をする。それは、巧と瑠璃が二人で決めた、対綾奈への約束事だった。


「姫乃さんは、一緒に帰るのは嫌?」


 重ねて訊ねると、綾奈は手の中にあるメモ帳を両手で胸に抱きしめた。


「ううん、私で構わないのなら喜んで」


 長い前髪で綾奈の表情はハッキリとはわからない。それでも、口元は嬉しそうに弧を描いている。

 幼馴染として振る舞うことを捨てる、その選択は正しかったのだろう。

 積み上げた思い出をリセットすることは、恐ろしくて堪らない。叶うのならば元の幼馴染に戻りたい、そう願う気持ちを胸の奥深くへ無理やりに沈ませた。


「良かった。姫乃さんとは、仲良くなりたいと思っているんだ」

「……でも、私は……椎名くんのこと、覚えていません。それでも――」

「――あれは、瑠璃さんがついた嘘だよ。姫乃さんのことは一週間前に初めて知ったから、俺は全然知らないんだ」


 瑠璃を悪役に仕立てる、本人の承諾を得ていても罪悪感が胸を締めつけた。

 平気な顔で嘘を吐く、そんな自分自身が嫌いになりそうだ。


「俺と瑠璃さんは、仲の良い先輩後輩ってだけだよ。それで、姫乃さんのことを相談されていたんだ。嘘をつくとは思ってなくて……あの時は、本当にごめん」


 深く頭を下げて謝る。綾奈と、瑠璃の二人に対して。


 一秒……二秒……三秒……。

 時間が過ぎていくが、綾奈は何も答えない。ただ、悲しんでいることだけは十分に伝わっていた。


『瑠璃さん……私のこと、やっぱり嫌なのかな……』


 "過去の"綾奈を全く望んでいない、そう言い切ることは巧にも瑠璃にもできない。それでも、"今の"綾奈を否定する気はない。受け入れるつもりでいる。

 やるせなさのあまり、巧は両こぶし強く握りしめる。綾奈の中で瑠璃への誤解が深まることも、嫌で堪らなかった。


 意識をして口元を動かし、強張った顔を解していく。心に仮面を被せ、下げたままだった頭を持ち上げた。


「姫乃さん、許してくれないかな?」

「あ、いえ……私は、別に怒ってはいないから……」


 もう一度訊ねると、綾奈は小さく否定する。この話題を深堀するつもりは欠片もない。軽い口調で「姫乃さん、早く帰ろう」と告げ、自席に置いたままの学生カバンを取りに行く。

 慌てた様子で綾奈は席から立ち上がる。椅子の引く音が大きく響いていた。



     ◆



「――それで、綾奈と一緒に帰ったんだ」


 スマートフォン越しに瑠璃の弾んだ声が聞こえてくる。入学式を終えた今日、巧と瑠璃の記念すべき第一回目の連絡会が行われていた。話題は当然のように、綾奈の様子に関してだった。

 机上の置時計は午後十一時を示している。巧は自室の椅子に座ったまま、約束通りに瑠璃へ電話を掛けていた。


「巧くんと綾奈が仲良くなれそうで、お姉さんは一安心だよ」


 冗談めかして瑠璃が笑う。綾奈の事故以降、瑠璃との関係は途絶えていたが、再会後の一週間で昔に戻ったような気安い関係となっていた。


「でも、瑠璃さんは本当に良かったんですか?」

「ん、何が?」

「瑠璃さんが綾奈の記憶を戻そうと嘘をついた話です。綾奈、完全に嫌われていると誤解していましたよ」

「……良くはないけれど、仕方ないよ」


 瑠璃は寂しそうにつぶやき、黙り込んでしまう。

 数秒間、沈黙が流れた後、瑠璃は何事もなかったように明るい声で言った。


「綾奈が元気に笑えるようになったら、巧くんは私と綾奈の関係修復にも協力するんだよ。お姉さんとの約束だから、ね」

「そんなの、当然じゃないですか」


 二人で協力すると決めたときに約束したことだ。瑠璃だけに貧乏くじを引かせる考えは念頭にない。瑠璃たち家族が悪いわけでも、綾奈自身が悪いわけでもないのだから――。


 家族であるが故に、家族は"過去の"綾奈と"今の"綾奈を繋げて考えてしまった。

 記憶を失った故に、綾奈は"過去の"自分を演じ、家族の期待に応えようとした。


 綾奈が笑顔を取り戻すためには、瑠璃たち家族との関係も変わらないといけないはずだ。しかし、事故後に没交渉となった巧には、家族の領域にまで踏み込む資格はないのだろう。

 家族関係の修復は、巧ではなく瑠璃が頑張るしかない。それでも、巧が取っ掛かりをつくることはできるはずだ。


 "今の"綾奈を受け入れる場所をつくる。

 巧、瑠璃、そして家族……少しずつ広げていけば、綾奈も"綾奈"自身を受け入れられるようになる、そう巧と瑠璃は未来図を描いていた。


「明日から、もっと綾奈に話しかけますから」


 決意を込めて巧は宣言する。心の問題で巧自身にできることは少ない。

 それでも、できることはゼロでもない。そっと手を伸ばし、机に置いていたスマートグラスを持つ。


「頑張れ、巧くん。私も、頑張るから」


 瑠璃は手離しに応援する。それから、二言三言と言葉を交わして通話を切った。

 手に持ったスマートフォンとスマートグラスを机に置き、椅子から立ち上がる。ベッドに向かい、思いきり身体を投げ捨てていた。


 仰向けに寝転がった後、巧は目を閉じ、明日からの高校生活に思いを馳せる。


「まずは、知人から友人にならないとだよな」


 さあ、どうするか。思考を巡らせていく中で、浮かんだのは眼鏡をかけた委員長気質の香澄の姿だった。

 綾奈には同性の友人が必要だろう。その点、香澄は問題ないように思えた。

 明日、香澄と話をする。巧は心のメモ帳に予定を書き込み、ゆっくりと微睡みに落ちていった。

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