004 高校生活の始まり①
巧と綾奈に向かって大きく手を振る瑠璃に見送られ、二人は横並びに廊下を歩き始める。学年が違えば、教室の場所も異なる。瑠璃とは階段前でお別れだった。
「姫乃さん、緊張している?」
沈黙を嫌い、巧から声を掛ける。会話の牽引役だった瑠璃が抜けると同時に、綾奈は口を閉ざして顔を俯かせていた。
教室に行きたくないのか、綾奈の足取りは重い。巧が意識してゆっくり歩かなければ、綾奈を置いて行ったことだろう。何人もの新入生たちが、巧と綾奈の横を通り過ぎていた。
「あの……はい、緊張はしています。……その、ごめんなさい」
綾奈の声には申し訳なさが溢れているが、巧は謝罪を受け取る気はなかった。
『瑠璃さんに言われたのかな? 椎名くんを、困らせているよね……』
否定したい気持ちをグッと堪え、巧は「謝ることはないよ」と微笑んだ。
「実を言うと、俺も緊張しているんだ。だから、姫乃さんと知り合いになれて良かったよ」
「……椎名くんも?」
「俺の場合は、無理をして進学校に入ったからさ、勉強についていけるか不安なんだ。姫乃さんは、勉強得意?」
「私、勉強以外にすることがなかったから」
自嘲的な声で綾奈は言う。長い入院生活に保健室登校、一般的な中学生活を送れなかったことを綾奈が卑下していると、巧はすぐに察した。しかし、口から衝いて出たのは、綾奈を慰める言葉ではなかった。
「姫乃さんは、集中力がすごいんだな」
"過去"と"今"、二人の綾奈を繋ぐ共通点かもしれない。巧の知る綾奈は、一度始めたことは最後までやり遂げる、そんな意地っぱりな性格だった。
「勉強しようと思っていても、どうしても遊んでしまうんだよな。姫乃さんは、どれくらい集中が続く?」
「えっと……考えたことないです。頑張れるだけ、頑張っていたから」
「本当に、すごいな。俺は一時間持つかどうかだよ……特に、数学は本当にダメなんだ。勉強をしていると、頭が痛くなってくるんだ」
「……数学はパズルみたいなものだから、あまり難しく考えない方が簡単に解けたりするんだよ」
綾奈は窺うように巧を見上げる。心なしか柔らかな声だった。
「数学はパズル、か……もし、授業がわからなかったら、姫乃さんに教えてもらってもいいかな?」
巧は何の気なしに訊ねる。まるで幼馴染の頃に戻ったような気安い態度だった。しかし、綾奈は急に足を止めた。
「……私でいいの?」
二歩、三歩、と進んだところで巧は振り返る。綾奈の身体は小さく震えていた。
「姫乃さんがいいんだよ」
瞬間、バッと綾奈が顔を上げる。その勢いに、綾奈へと踏み出そうとした巧の足は止まっていた。
『椎名くんは、本当に私でいいのかな? 私、何も覚えていないのに……』
レンズ越しに見えた綾奈の漠然とした不安。巧は答えを探したが、すぐに言葉を飲み込んでしまう。綾奈との思い出が全て失われていることに、悲しみや寂しさを覚えていたから――。
「もちろん、姫乃さんが嫌だったら、嫌と言ってくれてもいいからさ。少しだけ考えてみてくれる?」
心の痛みに蓋をし、巧は微笑みかける。数秒後、綾奈は小さく頷いていた。
◆
巧と綾奈が教室に着いたのは、始業二分前のことだ。手早く座席を確認し、別れて自席に座る。始業直前だからか、どこか緊張した空気が教室内を流れていた。
二分後、始業開始を告げる鐘の音が響く。間もなく教室のドアが開き、笑顔の女性が教卓へ歩いて行った。
「新入生の皆さん、おはようございます」
形式ばった挨拶をする担任教師に、生徒たちも挨拶を返す。それからの流れは決まり切ったものだった。
担任教師に促されるままに入学式へ出席し、何事もなく式典は終わる。教室に戻ってから行われたロングホームルーム、その中にある自己紹介も巧は卒なく終えていた。一年間を供に過ごすクラスメートの顔を覚えながらも、意識の大半は綾奈へ向かっていた。
『どうしよう、何を話したらいいんだろ。私、話すことなんて……』
綾奈の思考は緊張に満ちている。記憶喪失後、初めての学校生活ともなれば無理もないだろう。レンズに映る文字を読まなくとも、青白い表情を見れば嫌でも察してしまう。
幸いなことに、巧も綾奈も教室内で最後列に座っている。しかし、苗字の五十音順で並べられている以上、サ行の巧と、ハ行の綾奈は横並びにならなかった。二人の間には、女子生徒が一人挟まっていた。
「はじめして、中村香澄です」
綾奈に何か声を掛けるべきか巧が悩んでいる間にも、二人に挟まれて座る女子生徒――香澄の自己紹介は続く。真っすぐに背筋を伸ばし、理路整然と話す香澄の声には自信が溢れていた。
三十秒が過ぎる頃、生徒たちの拍手を浴びながら香澄は着席する。そして、巧に向かい、ニコリと微笑んだ。
香澄はペンケースを開き、中からメモ帳を取り出す。サラサラと文字を書くと、こっそりと巧に手渡した。
『隣の子が心配なら、何かお手紙でも書いたらどう? 私、渡してあげるよ』
受け取ったメモ帳を読み、巧は顔を向ける。照れ隠しをごまかすように、香澄は眼鏡フレームを両手で押し上げていた。
"ありがとう"、そう巧が口を動かすと、香澄は小さく頷く。追加で手渡されたメモ帳を受け取り、巧は何を書くべきか思考を巡らせる。数秒も経たない内に、ペン先は走り出していた。
「次、葉山くん」
担任教師の声が響き、綾奈の前に座っていた男子生徒が立ち上がる。
巧の書き終えたメモ帳は、香澄の手にある。自己紹介後にある拍手に紛れ、巧から香澄へ渡していた。綾奈は顔を俯かせたままで、巧と香澄のリレーに気づいた様子はなかった。
「姫乃さん、お願いします」
綾奈の肩が跳ねる。慌てて顔を上げるが、綾奈は教師の顔を見つめるだけで、椅子から立ち上がろうとしない。口をパクパクと動かすだけだった。
次第に、教室内がざわめき始める。担任教師も困ったような顔で「姫乃さん、どうしました?」と訊ねていた。
巧が思わず駆け寄ろうとする直前、香澄が動いていた。
「少しだけいい?」
そう言って香澄は椅子を寄せ、綾奈と小声で話し始める。あまりにも堂々した様子に、担任教師も話すのを止めろとは言わなかった。
不意に綾奈が顔を上げ、巧の方を見つめる。
瞬間、"頑張れ"、と巧は口を動かし、笑顔で頷いて見せる。すると、綾奈は応えるように頷き返した。
「姫乃さん、ファイトだよ」
自席に戻る香澄に遅れること数秒、綾奈は椅子から立ち上がる。
「はじめまして、姫乃綾奈です。あの、私は――」
顔は俯きがちで、話す声も決して大きくはなかった。それでも、綾奈が必死に話していることは十分に伝わる。
「――宜しくお願いします」
長い自己紹介タイムの最後だからか、クラスメートの拍手はまばらだった。だから、巧は強く両手を叩く。
拍手の大きさで順位づけるならば、巧が一番、香澄が二番に違いない。
綾奈もわかっているのか、顔を二人に向け、もう一度頭を下げる。長い前髪で隠れてわかりにくいが、巧には綾奈が笑ったように見えた。
キーンコーンカーンコーン、と終わりを告げる鐘の音が響く。担任教師がロングホームルームの終わりを告げ、教室内が騒々しさを増していった。
新入生は午前放課で、本格的な授業の開始は明日からとなっていた。だから、巧は綾奈を誘い、途中までは一緒に帰るつもりでいる……のだが、その前にするべきことがあった。
「中村さん」
帰り支度を終えた香澄に声を掛ける。
「ありがとう、姫乃さんを助けてくれて」
巧が深く頭を下げると、香澄は照れくさそうに顔を背ける。薄っすらと顔は赤らんでいた。キョロキョロと落ち着きなく視線を動かした後、香澄は頭を下げる巧の耳元に口を寄せる。
「"俺は応援しているから"……素敵な言葉だね。椎名くん、かっこよかった」
そう言って香澄は悪戯っぽく笑い、走り去っていく。遠ざかる背中を見つめ、巧は思わずつぶやいていた。
「本当にかっこいいのは……何の理由もなしに手を貸した、中村さんの方だよ」
パン、と巧は両手で両頬を叩いて気持ちを切り替える。踏み出す足は、綾奈へ向いていた。