003 セカンドコンタクト
見上げた空は雲ひとつない晴天だった。高校生活のスタートを祝福するような、神様からの贈り物とさえ思えてくる。瑠璃の前で誓いを立ててから一週間が経過し、高校の入学式を迎えていた。
真新しい学生服に袖を通し、瑠璃から託されたスマートグラスを掛けている。巧の視力は1.0だが、高校からは眼鏡男子として生活するつもりだった。
県内有数の名門校らしく厳かな校門を抜け、新入生のクラス掲示を確認しに行く。祈るような気持ちで、クラス掲示から名前を探していた。
1年1組……1年2組……1年3組……。
上から下へ目を皿にして探していく中、『椎名巧』の文字を見つける。慌ててハ行にある名前を探していた。
「――あった、同じクラスだ!」
綾奈の名前を見つけ、思わず安堵のため息が漏れた。
スマートフォンを取り出し、LIMEで瑠璃へ手短に連絡する。
『綾奈と同じクラスになりました。1年4組です』
『良かった! 巧くん、綾奈のことはお願いしたからね!』
メッセージを送ってから十秒も経たない内に、返信が返ってくる。巧は『もちろんです』と迷わうことなく返していた。
巧と瑠璃で役割分担をすると、休みの間に二人で決めていた。
家担当が瑠璃、学校担当は巧だ。それぞれの場所で、綾奈へアタックするつもりだった。毎晩の連絡会も予定している。
巧と再会してから、瑠璃は綾奈への接し方を変えていた。
"過去の"綾奈を一度忘れて、"今の"綾奈だけと向き合う。それは、巧と瑠璃の二人が相談して決めたことだった。
腕時計を見れば、午前八時を示している。入学式の受付時間が終わるまでに、まだ三十分も残っていた。
クラス掲示で一喜一憂する新入生の輪から少し離れ、綾奈と瑠璃の到着を待つ。
LIMEを確認すれば、瑠璃から『もうすぐ着くから、予定通りに』とメッセージが届いていた。
大きく深呼吸をし、手櫛で何度も髪を整える。
どうにも緊張していた。綾奈と顔を合わせるのは、一週間ぶりだった。
◆
五分が経過する頃、綾奈と瑠璃の二人が校門を通って姿を現す。二人は手を繋いで歩いているが、瑠璃の身体へ隠れるように、綾奈は身体をくっつけていた。
どこか怯えた小動物を思わせるが、それも無理のないことだろう。
中学時代の綾奈は保健室で過ごし、クラスに顔を出すことは全くなかったらしい。記憶喪失後では、初めて家族以外の人間と一日を過ごすことになる。
瑠璃は片手にスマートフォンを握り、キョロキョロと視線を動かしている。何を探しているかは、すぐにわかった。
『瑠璃さんから見て、右側にいます』
メッセージを送った瞬間、瑠璃はスマートフォンを見つめる。巧がわかりやすいように大きく右手を挙げると、巧の場所を把握したのか、瑠璃はすぐに大きく頷き返した。
これで、瑠璃が綾奈を連れて来てくれるはずだ。
「綾奈、ごめんな」
小さくつぶやき、スマートグラスの電源をONにする。瞬間、レンズの先に綾奈の思考が羅列されていった。
『こんなに人が多いなんて、聞いてないよ。帰りたい……』
不安に満ちた言葉が重なっていく。だが、巧が一番に気になったのは『瑠璃さんに迷惑をかけたくない』の一言だった。
"過去の"綾奈と重ねたりしない、そう瑠璃と約束している。それでも、どうにもならない寂しさを覚えてしまう。もう"瑠璃お姉ちゃん"と綾奈が呼ぶことはないのかもしれない。
パンパン、と巧は両頬を強く叩き、落ち込みそうな心を切り替える。そして、胸の前に手を置き、もう一度深呼吸をする。
結局、一週間前の再会以降、巧が綾奈と直接会話をする機会はなかった。だから、綾奈との会話は数年ぶりとなる。それでなくとも、綾奈には過去の記憶がないのだ。幼馴染ではなく初対面の他人である、それを認識した上で綾奈と関わるべきなのだろう。
「まずは、綾奈の友人にならないと……」
物心がつく頃には、綾奈と一緒に過ごすことは当たり前だと思っていた。それは、巧と綾奈が家族ぐるみの付き合いをしていたからに他ならない。二人は出会った瞬間から、家族同然の友人だったのだ。
だから、巧は綾奈を友人にする方法を知らない。ゼロから探していかなければならなかった。
「巧くん」
唐突に瑠璃の声が響く。近づく瑠璃の後ろには、綾奈が続いている。その顔は明らかに強張っていた。
『前に、瑠璃さんが連れて来ていた人……』
やはり綾奈は何も覚えていないらしい。姿を隠すように、身体を瑠璃に寄せている。しかし、瑠璃よりも綾奈の方が身長が高いからか、完全には身体を隠せていなかった。
一方で、瑠璃の顔には"綾奈を連れて来たから、今度は巧くんの番だよ"と描いてある。悪戯っぽく微笑んでいた。
そんな瑠璃の笑顔に、巧の肩から力が抜けていく。そして、綾奈に向けて優しく笑った――。
「はじめまして、椎名巧です。綾……いえ、姫乃さん、これからの一年間、宜しくお願いします」
巧が軽く頭を下げると、澄んだ瞳に動揺が走った。
『はじめまして、で……本当に、いいのかな? 私と、幼馴染なのに……』
綾奈は救いを求めるように、瑠璃の手をギュッと強く握る。しかし、瑠璃は握り返すだけで、何も言わない。巧に一任する、それは事前に約束していたことだ。
「姫乃さん」
綾奈の思考を勝手に覗き見ているからか、罪悪感がチクチクと胸を刺すが、巧は無視を決め込んでいた。
「はじめまして、で正解だよ。俺たち、今日が初対面みたいなもんだろ?」
姫乃さん、そう呼ぶことが辛い。傷つく心に蓋をし、揶揄うような口調で話す。
「前に会ったときは、大した会話もしていないのだから、知り合いとは言い難いと思わない?」
「それは……そうですね」
綾奈は小さく微笑む。レンズにも『はじめまして、でいいんだ』と安堵の言葉が表示されていた。
瑠璃と繋いでいた手を離し、綾奈はゆっくりと前に出る。そして、折り目正しく頭を下げた。
「はじめまして、姫乃綾奈です。椎名くん、宜しくお願いします」
どこか儚げな雰囲気を漂わせる、控えめで礼儀正しい少女。それが、"今の"綾奈の印象だった。幼少期の記憶によれば、瑠璃と綾奈の顔立ちは似ている。双子姉妹と誤解されることもあった。
もし目を隠すほどに前髪を伸ばしていなければ、新入生男子たちの注目を浴びていたかもしれない。事実、瑠璃を覗き見ている男子は何人もいた。
「巧くん、綾奈のことは任せても大丈夫?」
心配そうに訊ねる瑠璃に、巧は「大丈夫」と笑顔で答える。綾奈と開いた心の距離に、辛いと泣きつくわけにはいかないだろう。
「巧くんも綾奈も、そろそろ教室に行った方がいいかも。入学式から遅刻なんて、二人ともしたくないでしょ?」
巧の気持ちを察したのか、瑠璃がことさら大きな声で言う。
腕時計を見れば、受付時間が終わるまで十五分も残っていなかった。
「受付までは、私も一緒に行くから……ほら、二人とも急ぐよ!」
そう言って瑠璃は再び綾奈と手を繋ぎ、先導するように歩き出す。巧は慌てて瑠璃たちの背中を追いかけていた。