002 幼馴染な姉、妹
巧自身、綾奈にどんな表情を向けているかはわからない。
罪悪感に蓋をし、見て見ぬ振りを続けた結果なのだろうか。胸の奥深くが強く締めつけられていた。
瞬間、脳裏を過ったのは、太陽みたいに明るい少女の姿。
どこに行くときでも巧の後ろをついて歩く、そんな姿を覚えている。とても大切な、親友とも、家族とも言える幼馴染だった。
それが、今はどうだ。目の前に現れた少女――姫乃綾奈の姿に、巧は言葉を失っていた。
「綾奈、この男の子は椎名巧くん。昔ね、綾奈がよく一緒に遊んでいた"幼馴染"なんだけれど……その、何か思い出せそう?」
「……私の知り合い?」
「そうだよ。綾奈は、"巧くん"って呼んでいたんだよ」
瑠璃が優しい口調で話すと、綾奈は数秒間考え込むように黙り込む。そして、申し訳なさそうに首を左右に振った。
「ごめんなさい、何も思い出せなくて」
「……いいんだよ、綾奈。別に、謝る必要なんてないんだから」
「でも……いえ、ごめんなさい」
伸びるに任せた前髪で顔色はわかりにくいが、声は困ったように震えている。瑠璃への話し方も、どこか遠慮がちだった。
「本当に、俺のことがわからない?」
"綾奈ね、記憶喪失になったんだ"――瑠璃の言葉が思い起こされる。
目の前の事実を認めたくない。ただ、否定の言葉が聞きたかった。
『わからない、わからない、わからない――』
レンズに文字が浮かび、その内容を肯定するように綾奈が顔を俯かせていく。嫌でもスマートグラスの機能とやらを察してしまった。
「私、貴方のことは……知りません」
綾奈の震え声が聞こえると同時に、頭を金槌で殴られるような衝撃を受ける。思わず息をすることも忘れていた。
「巧くん」
ポン、と優しく背中が叩かれる。巧は何も言えなかった。瑠璃もそれ以上の言葉は告げず、綾奈に向かって歩いて行った。
「突然、変なことを聞いてごめんね。それで、綾奈はどうしたの?」
「えっと、喉が渇いちゃったから……」
「そういうこと。準備をしてあげるから、一緒に行こう」
「でも、お客さんがいるのに……」
「俺のことなら、お構いなく」
「ほら、巧くんも、ああ言っているし。それに、私もお茶を出すのを忘れていたから、綾奈の分と一緒に用意しておきたいんだ」
戸惑う綾奈の手を掴み、瑠璃が連れて行ってしまう。
『本当に、ごめんなさい』
短い謝罪の言葉がレンズに浮かび上がっていた。
◆
苦しい。リビングに一人残された巧は思考を巡らせていた。綾奈が記憶喪失であることを疑う気はなくなっていた。
「巧くん、綾奈が記憶喪失だと理解できた?」
綾奈を部屋に送り届けた後、瑠璃が再びリビングに戻って来た。お盆に乗せたコップを二個、ローテーブルに置き、ソファーに座る。巧と瑠璃は隣り合った。
「俺のこと、本当に覚えていないみたいですね。名前を聞いても、何の引っ掛かりも感じてはいないようでした」
「それにも、綾奈の気持ちが書いてあった?」
「ええ、書いてありましたよ」
掛けたままだったスマートグラスを外してたたむ。電源スイッチをOFFに切り替え、そのレンズを凝視してしまう。
「でも、綾奈の気持ちを勝手に覗き見るなんて……」
「倫理的に間違っている、と言いたいの? 巧くんの考えは正しいと思うよ」
予想していたかのように答えた後、瑠璃は大きく息を吐き出した。
「綾奈が記憶以外も失っている、と話したら信じてくれる?」
「……それは、本当ですか?」
「本当だよ。このスマートグラスは医療用だって言ったよね? 綾奈の治療のために、必要なツールだったんだよ」
巧の手元からスマートグラスを抜き取る。しばらく眺めた後、瑠璃はそっと身につける。
「交通事故の後、綾奈は会話もできなくなったの。"あ~"とか、"う~"とか、声を出すのが精一杯でね、何が言いたいのかも、よくわからない時期があったんだ」
「……今は、回復していますよね?」
「回復、とは言わないかな。"元の状態に近づけた"が正しい表現だと思う。手術をしてね、機械の力で会話ができるようになったんだ――」
場所を示すように、瑠璃は巧のうなじに触れる。そして、坦々と説明し始めた。
綾奈は事故後、体内に生体デバイスを組み込む手術を受けたらしい。そのデバイスが脳の働きをサポートするらしく、脳に代わって身体に電気刺激を送ることで発声を可能としている。しかし、言葉として認識できる声を出すためには、年単位でのリハビリが必要となる。
そこで、登場したのがスマートグラスだった。発声如何に限らず、生体デバイスを経由した情報を受信可能となったのだ。
声が不鮮明でもグラスに表示された文字を読むことで、言語能力に障害を残した患者とも円滑なコミュニケーションが図れる。綾奈も手術を受けてからの二年間は、スマートグラスに助けられていたそうだ。
「――綾奈が頑張ったから、この半年間、一度もスマートグラスは使わなかったの。だから、綾奈の気持ちに気づくのが遅くなったんだ」
まるで泣き出す直前のように、瑠璃の小さな身体は震える。暗い表情だった。
「綾奈はね、"今"の自分が間違いだと思っているの」
「……間違い?」
嫌な予感を覚えながら、おうむ返しに訊ねる。
巧に顔を向けた瑠璃は涙目だった。それも、今にも決壊しそうなほどに涙を溜め込んでいる。
「事故前の、記憶を失う前の"過去"が正しくて、"今"の綾奈が間違いだと思っているの。だから、自分に自信が持てないみたい……」
「記憶喪失になっても、綾奈は"綾奈"だと思いますが――」
「――巧くんは、忘れられたことを嫌だと思わなかった? 記憶を戻せたらいいって、少しでも思わなかった?」
矢継ぎ早に訊ねられ、巧は黙り込んでしまう。どちらも図星だった。
"過去"の綾奈に"今"の綾奈を重ねている――記憶喪失の前と後で、綾奈を区別して考えることはできなかった。
「記憶を戻そうとすることが、"今"の綾奈を否定することになる……」
酷い矛盾だった。"過去"と"今"、一方を大切に思えば、もう一方を蔑ろにすることになる。記憶喪失によって、綾奈自身の認識が分断されている以上、どちらか一方を選択しなければならない。さりとて、簡単にできるかと言えば、到底無理な話だった。
「今日だって、本当は巧くんを"幼馴染"と紹介する必要はなかったんだよ。でも、もしかしたら思い出すかもって……私、期待しちゃった……」
後悔の滲む声。瑠璃は言葉が続けられずに、顔を俯かせる。
どうにかして慰められないか、と巧は言葉を探すが簡単には見つからない。瑠璃が間違っていたとは、到底言えなかった。
「私、もうどうしたらいいのかが……わからないんだよ……」
数分間の沈黙後、瑠璃が苦しげな声でつぶやく。
「綾奈はどうしたら幸せになれる? どうしたら、自信を持ってくれる? ……私には、何ができる?」
瑠璃は質問を重ねていくが、巧にはどの質問にも明確な答えが出せなかった。
それでも、巧自身が何をしたいのかは決まっていた。綾奈の交通事故に、巧は無関係ではないのだから――。
「瑠璃さん」
名前を呼び、巧はソファーから立ち上がる。そして、足元で土下座していた。
「俺に、責任を取らせてください」
「――ちょ、ちょっと、何をしているの! 土下座なんて止めてよ!」
瑠璃は慌てて起こそうとするが、巧に土下座を止めるつもりはない。決意は固いと察したのか、二回、三回と挑戦した後、瑠璃は起こすのを止めていた。
一秒……二秒……三秒……。
巧も瑠璃も一言も話さない。沈黙だけが二人の間を流れていった。巧は瑠璃の許しが得られるまで、顔を上げるつもりは欠片もない。もし断られるならば、承諾が得られるまで毎日通い込むつもりでいた。
たっぷりと一分が経過する頃、瑠璃は巧の正面に正座していた。
「巧くんは、本気なの?」
真剣な、一切の嘘を許さない覚悟を問うような声が巧に降り注ぐ。
「本気です!」
「巧くんは……綾奈から、一度逃げているんだよ。本当に、わかっている?」
「わかっています……だから、俺はもう逃げたりしません!」
「……私が、綾奈のことで巧くんに八つ当たりしたから、だから、言っているんじゃないの? もしそうなら、その、ごめんなさ――」
「――違います! 瑠璃さんに言わされたわけじゃないです! 俺が……俺が綾奈の力になりたいんです!」
思わず巧は顔を上げ、瑠璃の瞳を真っすぐに見つめる。瑠璃も答えるように、巧の瞳を見つめ返していた。
「巧くん」
名前を呼ぶと同時に、瑠璃は背筋を伸ばす。そして、深く頭を下げた。
「力を貸してください」
巧が固まったのは一瞬で、すぐに深く頭を下げる。巧と瑠璃は、二人揃って正座したままお辞儀をしていた。