紅葉を語り継ぐ
此れは私が爺様から聞いたお話です。
私の爺様よりさらにずっと昔の、ある一人の爺様の遺言により代々語り継がれることとなった一本の木のお話。
ほら、窓の外に目を向ければ揺れる綺麗な紅葉の葉が見えるでしょう。とても美しい赤色を纏うあの木のことですよ。庭に植わる紅葉の木は私達家系の歴史なんです。
『紅葉を語り継ぐ』
このお話の彼、私のずっと昔の祖先にあたる方は名を"煤竹"と言いました。彼は一つの小さな集落のある山の外れに一人ひっそりと暮らしていたそうです。畑を耕し山で木々を集め川で魚を獲りながらその日その日を細々と生きていました。
山の集落にも度々顔を出しては集めた木々や魚、時には山菜などを置いていったそうです。生きることは助け合いだと言っていた彼は自分の生活に事足りる以上の物は全て譲っていました。そんな彼に集落の人も大変感謝しており、着物や穀物など彼が手に入れ難いものを譲っていました。その都度「集落で一緒に住まないか。」と打診するものの、彼は「山の方が性に合っているから。」と断るのでした。
そんな彼は季節の中で秋を一等好いていました。麗らかな春の陽気や生命の息吹が強い夏、深々とした美しい冬のどれも愛しいものでしたが実りある温かくも落ち着いた秋は彼にとってとても好ましく過ごしやすい季節でした。彼の耕す畑の横には一本の美しい紅葉の木が植わっており、毎年秋になると一日中眺める日もありました。
ある日のこと。彼の住むあばら家に一人の女性が訪ねてきたそうです。
「ごめんください、お初にお目にかかります。突然の訪問をお許しください。私は名を"露"と申します。どうか貴方のお嫁にしてはいただけないでしょうか。仕事も家事も精一杯努めます、–––––だからどうか。」
その女性は大層美しく、彼はぼうっとしながらもその突拍子もない言葉に慌てて返事を返しました。
「っ、そいつは願ってもない申し出だが随分と別嬪なあんたは俺には勿体ねえ。山の集落に同じ年代で俺より断然良い奴がいるから紹介しよう。」
山の集落は身寄りのない者の集まりでできた場所だったので、時たま彼女の様に住まう場所を探し訪ねて来る者がいたそうです。ただ嫁の申し出をしてきた者は今までいなかったので、いったい何があったのか不審に思いつつも彼女を集落へ案内しようと足を動かしました。
すると彼女は咄嗟に彼の着物の裾を掴むと緩く首を横に振りました。
「––––––いいえ。貴方様が良いのです。どうか貰ってはくださいませんか。」
そう少し切な気に言うものですから、彼は集落へ向けていた足を止めその理由を尋ねることにしました。
「話はわかった。だが先ずは理由を聞かせてもらいたい。二つ返事で了承できるほどあんたの人生は安くない。」
その上で返答しようと言った彼に安堵の息を吐いた彼女を一先ず家にあげ、お互いが腰を下ろしたところで彼女はぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めました。
「私の故郷は此処よりずっと北の方にあります。両親を早くに亡くし親類もおりませんでしたが、住んでいた村の方々がとても良くしてくださったので貧しいながらも幸せな毎日を過ごしていました。
ある冬のこと、その村を治める長者様が代替わりをしました。今まで治めていらした長者様には世継ぎが居りませんでしたので、遠い親戚にあたる方をお呼びになったようです。その新しい長者様はとても賢く立派な方でした。先代の長者様に倣い皆に分け隔てなく接してくださり、村の者からの信頼も直ぐに厚いものへとなりました。ただ、新しい長者様は神様への信仰がとても篤い方でした。
代替わりして数年後、村に一つだけある神社に勤めていた神使の方が朝早く長者様に面会に行かれました。
–––––––神からのお告げがありました、と
神使の方によりますとその前の晩、神社で祀る神棚が光り輝き乳白色の球体が現れたそうです。驚き腰を抜かした神使の方に向かいそれは自分が神であると言い、「もう直ぐこの地に災いが起こるから儂は力を使い信仰してくれる民を守りたい。だが大きな厄災なので力が足りない。よって村の中で身寄りのない娘を一人生贄に差し出してほしい。」と告げたそうです。
村に住む娘で身寄りのない者は私しかおりません。そしてそれを聞いた長者様は直ぐに私をお呼びになりこう仰いました。
「お前も私の大切な民に代わりない。だが、神に必要とされることはお前にとって大変光栄なことだ。この先共に過ごしていくことが出来ず悲しいが神の元へ参れ。」
長者様はとてもお優しい方でしたが、同時に大変信心深い方でもありました。村の長である方からの厳命もあり私に断る術はありません。
その晩、私は神様の元へ行く決意を固め翌日にはお世話になった方々に挨拶をしてまわりました。身寄りのない私に良くしてくれた村へ恩返しの念も篭っていました。
そんな日々を数日過ごしいよいよ明日という晩、コンコンと小屋の戸口が控えめに叩かれる音に目を覚ましました。布団から身体を起こしそっと開けた戸の先、難しい顔をした村の大人達が数名いて驚きました。
「露ちゃん夜遅くにごめんね。大事な話があるからおばちゃんの家に来れるかい?」
いつも快活で元気に笑う向かいの家の奥さんが深刻そうにそう言いました。私は何事かと思いつつも二つ返事で了承し向かいの家へ行きました。
奥さんの家には私の小屋を訪ねた方以外の大人達も集まっており、彼等は私が来ると一様に痛ましげな遣る瀬無い顔をしました。
「露ちゃん夜分にすまねぇ。だが早急に対応したいことがあってな。悪いが聞いてほしい。」
そう切り出され始まった話は到底信じられないものでした。
「神からのお告げがあったって言うあの話は全部嘘だ。昨日あの神使が酒に酔って全部吐きやがった。露ちゃん前にあの神使から求婚されたことがあっただろ?あの時は露ちゃんにも気がなかったし神に使える者としてそいつぁいけねぇと村で反対して終わったが、彼奴は納得してなかったみてぇでな。それなら生贄として来た露ちゃんと神社で心中しようとしてたらしい。あの時反対した俺らがしっかり見てなかったせいだ、本当にすまねぇ!!」
「長者様には既に進言しましたが彼の方は信仰深すぎる。神使である彼奴の言葉を真っ向から否定できないんです。神使のやつも全部吐いた後取り押さえていましたが今朝方死んでいました。露ちゃんが生贄になることは覆らないとわかって、先に逝って待っているということのようです。本当に申し訳ない。」
「長者様を説得するだけの時間がないの。力不足で本当にごめんなさい。だからと言って貴女をみすみす死なせやしないわ。
–––––––––大爺様!」
その声に口々に説明と謝罪をしていた大人達の奥から年老いた一人の男性が現れました。彼は村一番の物知りで皆から大爺様と慕われている方です。大爺様は私の前に来ると私の両手を握り自分の額に祈るように掲げました。
「守れず申し訳ない。君は明日朝一番にこの村を出なさい。長者様にはうまく誤魔化すから心配いらないよ。
いいかい良くお聞き、君は朱色との相性が良いようだ。此処から三日三晩南の方角へ進みなさい。そうして山の中で初めに見つけた家のものに声を掛けるんだ。出てきた者が女性ならその人が信頼する男性を、出てきた者が男性ならその人に嫁に貰ってもらうと良いだろう。何か困ったら朱色の物を探すと良い。その近くにあるものほど君にとって助けになるからね。」
そう涙に濡れた声音を隠して言った大爺様に優しく笑い、翌朝私は村を去りました。」
「三日三晩の旅は安易なものではありませんでした。足腰には自信がありましたが心細さは拭えず、村の人達が用意してくれた旅の荷物を抱きしめ此処までやって参りました。
大爺様は私の将来も考え言葉をくださったのだと思います。ですからどうか、大爺様のお認めになった貴方に嫁がせてください。」
そう話し終えた彼女の顔にはよく見ると疲労が滲んでいました。そうして理由を知った彼は拳を握りこう言いました。
「よし、あんたを嫁にもらおう!」
「っ、宜しいのですか?」
「おう、男に二言はないからな、信じていい。それにこんな別嬪さんが来てくれるなんて嬉しいさ。
–––––––改めて。その大爺様に会ったことはないが認めてもらったからにはそれに応えたい。あんたを大切にする、こんな山奥に住むような泥臭い男だがそれでもよければ俺と添い遂げてくれ。」
そう力強く言った彼に彼女は涙を流しながら漸く笑い頷きました。
彼女との夫婦生活はとても順風満帆でした。足腰に自信があると言っていた通り野良仕事にも意欲的で家事もそつなくこなしてくれました。また元来の性格か、時折訪れる集落の者にも直ぐに馴染みました。そうして此処での生活に慣れ始めた頃、集落の者に立ち会ってもらい夫婦の盃を交わしました。
彼女は大爺様の言葉通り朱色のものと相性が良いようでした。畑横の紅葉の木の下は彼女の特等席です。時間があればいつもそこに居るので、煤竹もまた秋以外の季節もこの木の下で過ごすようになりました。
突拍子もない不思議な出会いではありましたが、今ではお互いをとても愛し合う仲睦まじい夫婦となっていました。集落の者もそんな夫婦を温かく見守り幸せな時間が流れていました。
そしてあっという間に時は経ち、ある秋の日のこと。その日も二人は朱色の美しい紅葉の木の下で仲睦まじく過ごしていました。
「おい、聞いてくれ露!今日は山で栗を沢山拾ったぞ!夕餉に使おう!」
「あらまあこんなに沢山。ふふっ、そうしましょうか、楽しみですね。食べきれない分は明日 集落の皆さんに持っていかれますか?」
「そうだな!そうと決まれば早速夕餉の準備をしよう!」
「あらあら。まだ半刻前に昼餉を食べたばかりじゃないですか。」
可笑しそうにくすくすと笑う彼女と好物の秋の味覚を前に子供のようにはしゃぐ彼は幸福に満ちていました。
翌日、約束通り集落へ栗を届けに行った煤竹を見送り、露は一人家で繕い物をしていました。彼女は大変手先が器用で、服は勿論のこと草鞋や籠まで編んでしまうほどの技量を持っていました。そのどれもが昔住んでいた村で習ったものだったので、作業をしている間は彼等を近くに感じとても温かな気持ちになるのでした。
煤竹が集落へ顔を出す時は何時も必ず夕餉前に帰ってきます。それは二人の住むあばら家が山の中ということもあり暗くなると見つけにくくなってしまうからです。栗を届けに行ったその日も彼は元気に「夕餉前には戻る。」と言い出て行きました。
しかしその日はいつもと違ったのです。
「随分遅い。」
既に日が沈んでから一刻も経っています。流石に心配になってきた彼女は彼を迎えに行くことにしました。
暗闇の中四苦八苦して集落への道を辿ります。
漸く目的地が見えた頃、露は異変に気がつきました。
「いつもより随分と松明の数が多い––––?」
集落では夜警のため日が落ちると四方に火を灯しています。それがその日は昼間と見紛うほど多くの火が集落の至る所に灯されていました。
心なし足早になった彼女を待っていたのは悲惨な光景でした。
集落はどこもかしこも戦った跡が生々しく残っており、咽び泣く声や怒号が飛び交っています。彼女は顔を青くさせながらも必死に煤竹の名を呼び足を進めました。
探して探して、彼女はとうとう集落の1番奥にある一際大きな建物の前に辿り着きました。此処は集落の食料保管庫です。常ならばひっそりと静かな其処は、今や痛みに苦しむ呻き声で溢れていました。未だ状況を理解出来ない彼女は戸惑いつつも足を踏み入れました。
外に漏れ出ている声の通り其処には多くの怪我人が臥せっていました。体を震わせながらも彼女は煤竹の姿を探し歩きます。
するとそんな彼女に一人の女性が声をかけました。
「ああ良かった、露さん。ごめんね、使いを出そうと思ったんだが人手がなくて。旦那は奥の部屋だよ。」
早く行っておやりと急かす彼女に焦りを覚え、露は足早に奥の戸を開けました。
其処には彼女の探していた愛しい彼がいました。
–––––––全身に包帯を巻き血の滲む体で懸命に露の名を呼び探す変わり果てた姿で。
「っ、煤竹様っっ!!!!!」
転ぶように走り寄り近づいたことで彼の現状が嫌でも理解できました。彼は肌の色がわからないほど血で濡れており、傷を覆う包帯も意味をなしていません。正に満身創痍といった有様で、顔に目を向ければ包帯は煤竹の目にも巻かれていました。其処も例に漏れず真っ赤に染まっていました。
「旦那が俺のカミさんを守ってくれたんだ。」
そう、隣で同じく臥せっていた男性が声をあげました。
「すまなかった。情けないが俺じゃ太刀打ちできなくてな。嫁が危ないのに俺が動けず見ているしかできなかった時、旦那があいつを庇ってくれたんだ。」
「だからその怪我は俺のせいだ。」と謝る彼も全身に傷を負っているようでした。
露は逸る気持ちを抑え、兎にも角にもと愛しい彼の手当てと今自分にできる手伝いを買って出ました。
そうして慌しい時間はあっという間に過ぎていき、怒涛の一夜が明けました。
–––––––野盗の集団だったそうです。
西から襲来したそれは、煤竹が本来帰宅するはずの日が沈む前に突如現れたそうです。明るい時間帯で朗らかに過ごしていた集落の人達はあっという間に襲われました。集落の三分の一もの人が亡くなり、生き残った人も殆どが怪我を負いました。
幸いかどうかわかりませんが煤竹は生きていました。ただあの男性が言った通りその妻を庇っていたためか傷は全身に渡っていました。そして彼は目も傷つけられたようで視力を失っていました。薄ぼんやり色が映るものの、水に溶かした絵の具のように見えて物の識別はできません。
それでも露は只々、彼が生きていてくれたことに感謝しました。
あれから数十日経ち、傷の落ち着いた彼を連れて二人は山のあばら家へ戻ることになりました。
怪我のこともありそのまま集落で過ごすことを考えていた時、生き延びた人が少ないこと、また襲ってくる可能性があること、そして今尚怪我で苦しむ人々を療養させながら生きていくことが難しいことなどの点から集落の人達が少し先にある町に移り住むこととなりました。
けれど二人が共に行くことはできませんでした。
移り住む町は少し先と言えど此処から2日はかかります。怪我人に皆で手を貸しながら進むとしても、一番重症であった煤竹は其処へ行くまでの力がありません。この先傷が癒えたとしても望みは薄いでしょう。また、二人が出会った特別な場所を離れることに戸惑いがあったこともあり二人で暮らしていくことに決めました。
生活は楽ではありませんが苦しいということもありません。手先が器用な露に教わり内職を覚えていた煤竹は、幸いなことに目が見えずともそれらをこなす事ができたからです。野良仕事は規模を小さくし露が続けました。細々とした生活でもお互いがいるだけでとても幸せな毎日でした。
そうして季節は巡り、煤竹の傷が癒えてもなお二人はあばら家で過ごしていました。
体の傷が癒えた煤竹は目が見えずとも感覚で動けるようにまでなっており、家先の野良仕事も少しずつこなすようになりました。二人だけの生活ですから毎日の食事ができれば困ることは殆どありません。時たま元集落の住民が様子を見に来ると、昔のように山で採れた山菜を譲り代わりに着物や穀物を頂くこともありました。
「露、この生活が嫌ならいつでも言うんだぞ。町に住めばお前がこんなに野良仕事をすることもない。身体は厭えよ。」
「いいえいいえ。今の生活はとても幸せです。貴方と共に過ごせるこの日々が愛おしいのでどうかこのまま。」
煤竹は彼女を気遣いよくこんな質問をしていましたが、彼女はその度に首を横に降りました。
彼が話したわけではありませんが露は気づいていたのです。傷が癒えたとは言え町まで行けるほど元気なわけではないことを。もし彼女が町に住まうことになっても彼はここから動けないということを。
そんな心情を隠し、お互いがお互いを思いやる細々とした幸せな暮らしはそれから数年間続きました。
季節は巡り夏の終わり頃、露は自分の不調に気がつきました。
春頃から違和感はあったものの体力に自信のあった彼女はあまり気にすることなく過ごしていました。しかし最近は拭えない倦怠感や微熱が自覚できるほどになり、このままでは野良仕事もままならなくなりそうです。
何かあって煤竹に移すわけにはいかないと、彼女はよく家を開けるようになりました。彼には「町に用事を済ませに行きます。」と告げました。
日に日に症状は悪くなりとうとう血の混じった咳が出るようになりました。二人の暮らしは苦しくないと言え、薬を買えるほどの余裕はありません。それに彼女は自分の命があまり長くないことを悟っていました。それでも彼を一人残して逝くわけにはいきません。さてこれからの生活をどうしたものかと悩む彼女にある一報が届きました。
[秋頃、集落に拠点を移す。]
それは町へ出た元集落の人達からの一報でした。
傷も癒え自警の手段を町の人から学んだ彼等は、自分達の故郷であるあの集落へ戻ることに決めたようです。
この一報を受けた彼女はある決意をしました。
「––––––村へ戻る?」
ある晩、彼女は床につこうとした煤竹に声を掛けました。
「ええ、急で申し訳ありません。私の育った村の大爺様からお呼びがかかりました。集落の皆さんが此方へ戻られる頃、私は村へ向かおうと思います。どのくらいかかるかわかりません。ですから煤竹様は集落でお過ごしになってください。集落の皆さんにはお伝えしてあります。」
それを聞いた彼は顔を顰め聞きました。
「村へ戻るのは構わない。だが、お前は大丈夫なのか?」
恐らく煤竹の元に来た経緯のことを心配しているのでしょう。露は笑って答えました。
「はい、大爺様からその事については心配いらないと。なんでも長者様が流行病でお亡くなりになり、また代替わりされたそうです。」
「そうか、なら良いが・・・。久し振りの故郷だ、俺のことは忘れてゆっくりしてくると良い。道中くれぐれも気をつけてな。」
そう言い彼は、無骨で大きく、けれどとても優しい掌で彼女の頬をそっと撫でました。その手に愛おしげに擦り寄った彼女は心の中でそっと悲しみに蓋をしました。
どうかその時までは、愛しいあなたの腕の中幸福な夢を見ていたい–––––––––––。
とめどなく流れる水のように、その年も容赦なく季節は秋へと移り変わり始めていました。
日の出が遅くなりまだ少し薄暗いある朝のこと、露はひっそりとあばら家から身を出しました。小屋の中を見やれば煤竹が静かに寝息を立てています。それにくすりと微笑んだ彼女は戸をそっと閉め、庭先に向かって歩き始めました。
昨日とうとう集落の者が戻ってきました。二人は存分に皆との再会を喜び、重ねて煤竹の今後の生活についてもお願いしてあります。これでもう心配はいらないでしょう。些か急ではあるものの決心が鈍る前にと、彼女は煤竹が起きる前に出立することを決めました。
そうして歩き通り過ぎようとした庭先にはまだ色づいていない紅葉の葉がさわさわと揺れています。彼女は最後に一目見ようとその木の下へ向かいました。
思えばここに来た時はこんなに穏やかで幸せな日常が送れるとは思っていませんでした。
村を出て独りぼっちで山を越え、寂しい気持ちを押し込めて大爺様のお言葉を胸にただひたすら歩を進めたあの時。辿り着いた先で見つけたあばら家には煤竹様が居て、私の突拍子もない話に真摯に耳を傾けてくれました。共に過ごすようになってからも彼の言葉の端々からは思いやりが見てとれ、その度にずっと胸の内にあった不安や寂しさが薄らいでいきました。辛く悲しいこともありましたが、それでもやっぱり彼と過ごす毎日は尊くて愛おしいものでした。
こんな穏やかな気持ちで最後を迎えられるのなら、私の人生はなんて幸せなものだったのでしょう。
そう思考を巡らせながら、儚く口元に笑みを浮かべた彼女はそっと目前の紅葉の葉をひと撫でしました。
彼女が煤竹に伝えた内容は全くの出鱈目でした。もちろんこれから向かう先はかつての故郷ではなく、何処かひっそりと最後を迎えられるところ。それ程までに彼女の身体はもう随分と弱っていました。
集落の者が戻ってくると知った時、彼女は煤竹と離れる決意をしました。不調を悟られないよう気丈に振舞うことも難しく、これ以上側にいて病気を移したくもありません。自分の症状から見ても一刻も早く側を離れる必要があると感じていました。
只、そのまま煤竹に伝えては必ず否という返答があると予想されたため、心苦しくあるもののこの嘘をつくことにしました。
それでもどうしても最後の我儘だとでも言うように、彼を待たせるような「村へ戻る」と言う嘘しかつけませんでした。
「–––––––煤竹様、ずっとずっとお慕いしております。私には勿体ない、部不相応な程の多くの幸せをありがとうございました。っ、大好きです。大好きです、煤竹様っっ。」
思い出の詰まった木の下で彼女は思いを吐露し頬を雫が静かに伝い落ちました。
「っ、ごほっっ、うっ。」
思わず咳き込んでしまった先、目前の紅葉の葉に、吐血した彼女の血がかかりました。これ以上は駄目だと悟った彼女は急いでこの場から去ろうと踵を返そうとし、
「露?」
「っっっ!?」
振り返った先にはいつの間に目を覚ましたのか煤竹の姿がありました。
動揺する露に気がつかないのか煤竹は安堵の溜息を吐きながら語りかけました。
「寝床に居ないから心配したぞ。なんだ紅葉を見ていたのか、お前は此れが本当に好きだなぁ。」
「それにしても今年は随分早く色づいたものだ」と呟きながら彼女のもとへ歩み寄ります。もののわからない煤竹の目には、彼女の吐いた血で染まった葉が美しい紅葉に映ったのでしょう。
彼とともに最後に見ることができた紅葉が自らの血とはなんと皮肉なことかと思いつつ、露はただ一言「ええ、そうですね。」と答えました。
「煤竹様、今日は皆と向こうで暮らし始めるために集落の方が迎えに来てくださいます。それまでまだ時間がありますからどうぞお休みになっていてください。」
「ははっ、なんだ釣れないことを言う。」
別れの決心が鈍る、と露は彼を小屋へ帰そうと試みますが煤竹は苦笑するばかりで此処から動く気はないようでした。
さて如何したものかとこのまま旅立とうとしている旨を話してしまおうか思案していると、ぽつりと煤竹が言葉を紡ぎました。
「俺は本当に果報者だった。
こんなえらい別嬪さんで働きものを嫁にもらって、俺がこんな形になっちまっても健気に寄り添い続けてくれる。作ってくれた飯は美味かったし教えてもらった内職はとても楽しい。何もしてやれないのに愛しいと視線をくれる。今はもう見えないがじんわりと暖かな笑顔は見ているだけで幸せだと感じた。」
「今から行くんだろう?」
そう彼女へ向き放った言葉に露は煤竹が偶然ここへ来たのではないということを悟りました。如何察したのか分かりませんが見送りに来てくれたのでしょう。
そうして彼女の嘘にどこまで気づいているのか沢山の想いを送ってくれました。
露は自分の胸の内が温かくなることを感じながら「はい。」と返事をしました。
「そうか。」
そう答えた煤竹は彼女の覚悟を知ってか知らずか、はたまた知っていても自らの現状では如何してやれもしないと理解してかただ穏やかに微笑み緩く彼女を抱きしめました。
暫し抱擁の後、露はそっと拘束を解き彼から離れました。
「煤竹様、ずっと変わらず、ただひたすらにお慕いしております。どうかお達者で。」
その言葉に煤竹はもう見えないはずの目で彼女をしっかりと見据え「行ってこい。」と言いました。
あれから煤竹は集落で皆と共に暮らしながら露の帰りを待ち続けています。自分に出来る範囲で、身寄りのない子供達を育てたり、集落の者に内職を教えたり、帰ってきた露が自分のもとへすぐ来れるよう手入れをした美しい紅葉の側で過ごしたりと穏やかな日々を過ごしました。
そうしてとうとう露と再び会うことはなく、育てた子供達や集落の者に見守られながら綺麗に色づいた一枝の紅葉を胸に天へと昇っていきました。
そうして大事に大事に育てられた紅葉が、煤竹の育てた子供達に受け継がれ今世まで私達の家系を見守り続けてくれました。
露があの後どうなったのか誰も知る由はありませんが、煤竹の胸に抱かれ共に天へ登った紅葉がきっとまたあの二人を出会わせてくれたことでしょう。
代々受け継がれるようになったこのお話は悲恋のように感じることがほとんどだと思います。けれど彼等は確かに幸せでした。お互いを想い続ける日々は決して寂しいものではなく暖かな気持ちを胸に宿らせ、そんな相手と出会えたことはとても素晴らしい生涯だったと感じさせます。
ほら、窓の外に目を向ければ揺れる綺麗な紅葉の葉が見えるでしょう。とても美しい赤色を纏うあの木はきっと今日も露と煤竹を繋ぎ、私達家系の歴史を見守り続けてくれているんですよ。
貴方もどうかこのお話を後世へと受け継いでいってくださいね。
おしまい
※読み通しありがとうございました。