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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
危険な関係
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6

 私が「太田家系譜」の存在を知ったのは、都内のT大学に進学した1970年の夏のことだ。

 大学に入学すると私はすぐに母のもとを離れ、板橋区にある大学寮に移った。

 母を一人にしてしまうことに心が揺れなかったわけではないが、結局、私は家を離れることを選んだ。家から通える範囲にある大学を選んだのに……。


 その年の8月の中ごろに一旦家に戻った。滞在は2、3日のつもりだった。

 母が寂しい思いをしているのは間違いない。それを考えると辛かった。

 母は「相も変わらず、つまらなそうな顔して」と言って、私を迎えた。


 帰宅した日の夕方、本家の叔父がやってきた。

 私はその1時間ほど前に家に着いたばかりだった。

 奥の部屋の自分のベッドで寝転がっていた。そして、母の呼ぶ声を聞いた。


「クニオ、見てほしいものがあるんだって」


 高校生になって以降、私は本家の叔父と滅多に会わなくなっていた。

 子どもの頃は本家にはよく行ったものだ。

 そこには理想の家族があった。

 私が行くと叔母はいつも歓待してくれて、季節の果物や手造りのおやつをくれた。叔父も優しく声をかけてくれた。

 理想の家族?いや、違う。これが普通の家族なのだ。


 本家はその頃、電器店を営んでいて、広間には何台ものテレビが置いてあり、我が家にはテレビが無かったので、夕方になると週に何回かは本家に行って、叔父の長男の、私より二つ年下の達夫とよく見たものだ。

 叔父は「いつでも見に来ていいよ。いくらでも見放題だ」と言って、ぱちぱちと何台ものテレビをけた。

 達夫も私も見たい番組が決まっていたので、今、夢中になって見ている番組以外は雑音であってうれしいことではなかった。

 叔父は、何かと、よく声を掛けてくれた。

 この頃良い印象しかなかった。


 引戸を開けると、居間のテーブルに座っている叔父が見えた。

 叔父は私を見ると、相好を崩した。

 意味ありげな、奇妙な笑顔だった。

 そして、言った。

「ちょっと見てもらいたいものがあるんだよ。オオタケケイフっていう我が一族の古い家系図なんだけどね。この前、これを調べに大学の先生が来たんだけど、その時、書いてあることを教えてほしいって頼んだんだ。そしたら、これを送ってきたんだよ。邦夫君は確か社会科に進んだんだよね。ちょっと、読んで、感想を言ってもらいたいんだ。大学の先生は貴重な資料だって言うんだけどね」

 叔父は口元が気になるのか、片手で口を隠しながら、もぞもぞと言った。

 私が進んだのは社会科ではなく、社会学科だ。いわゆる歴史とは無関係だ。勿論全く無関係とはいえないが、叔父が期待する「歴史」ではない。

 しかし、訂正する気にはならなかった。母が間違えて伝えたのか、社会学と言っても叔父は分からないだろうから社会科と言ったのか。


 私が小学校の高学年に上がる頃から、叔父は滅多に笑わなくなった。いつも渋面だった。

 特に叔父より二つ上の姉である私の母や二つ下の弟の反対を押し切って電器屋をやめて呉服屋に業容を変えてから、その印象しかない。だから、この時の笑顔は忘れられない。

 渡されたのは1枚の便箋びんせんだった。

 楷書かいしょで書かれた、青インクの綺麗な字が並んでいた。

 内容は簡明だった。


 前略 太田家系譜の内容は以下の通りでした。ご報告します。


 太田家系譜

 太田出雲守忠良者(おおたいずみのかみただよしは永正四年卯八月十一日幸田村土着 年拾六歳

 忠良 出雲守 天文二拾二年丑八月十一日六拾二歳ニ而死てし

 男子 忠時 

 忠親

 女子

 忠親 出雲守 天正拾年午九月四日六拾七歳二而死、

 男子 忠継

 同  忠義 同村住 市右衛門と号

 同  忠勝

  女子

 忠勝 出雲守 永禄六年甲斐国兵乱出

 慶長五年子九月十四日、濃州青野合戦打死のうしゅうあおのかっせんうちじに、五拾六歳

 女子 伊都

 忠継 半左衛門尉 慶長九年辰四月十日六拾三歳二而死、

 男子 忠盛

 同  忠長 文禄三年午四月十日 沢柳さわやぎ村住

 同  時忠 文禄三年午十月四日 蓼川たでかわ村住

 女子 弐人

 忠盛 五郎左衛門

 男子 忠世

 男子 忠実

 女子 弐人


 以上です。なお、濃州青野合戦のうしゅうあおのかっせんとは関が原の合戦のことです。このことから、太田家が武士的身分であったことが分かります。

                        草々


「セキガハラノカッセンって、あの有名なやつだよね。まさか、ご先祖様がそんな合戦に参加しているとはねえ。それは、やっぱり、すごいことなんだろうね」と叔父は、未だ読み終わっていない私に声をかけた。明らかに、同意を求めていた。

 私は顔を上げて、叔父を見た。

 叔父は私の目を真っ直ぐ見ていた。その眼は反論を許さない、強い眼だった。

 私は社会学科を選んだが、社会学が何かを詳しく知っていたわけではない。もともと社会、特に歴史が好きで、得意でもあったし、社会学も歴史と無関係ではなかったし、歴史だけを学ぶことに抵抗もあったから選んだのだ。社会科の教員になろうと漠然と考えていたこともある。

 ただ、歴史は好きでも地方史には全く関心はなかった。だから、我が一族の系譜だと言われても、感じるものは無かった。しかし、反論する理由も無いし、叔父を落胆させるわけにもいかないので、精一杯の驚きの表情を装って、私は言った。

「それはすごいことですね。何しろ、セキガハラノカッセンなんだから」

 叔父は、薄くなった頭を右手で掻きながら、私の返答に満足そうに微笑んだ。隠れていた口元が見えた。前歯が一つ欠けていた。

「そういえば、大学合格して、何もお祝いしてなかったな。少ないけど、学業の足しにしてくんな。うちの達夫もなあ、邦夫君みたいに頭が良かったらなあ」と言って、お世辞にも似合っているとは言えない、真新しい濃紺のズボンのポケットから茶色の薄い、二つ折りした封筒を取り出した。それを私の右手を掴んで、掌に載せた。そこには、中太の黒マジックで「お祝い」と書かれていた。


 その日の夕食、母は多弁だった。

 私が居を移してからこの日までに起きた出来事を、些細ささいなことまで実に楽しげに話した。その多くがつまらないことだった。最後に今日の話をした。「太田家系譜」のことだ。

 昔は太田家も大したものだったんだねえ。系譜など残すぐらいなんだから。今度ね、市が市史を作ることになって、それでね、大学の先生が本家に「太田家系譜」を見に来たんだって。そんなものがあるなんて全然知らなかったよ。裕一(本家の叔父)は先祖から伝わる大事なものだからと父から言われて、それが入った木箱があることを知らされていたけど、大学の先生が調べに来るほど、貴重なものだとは思っていなかったそうだよ。どんなことが書かれているかと思ったけど、まさかねえ。セキガハラノカッセンとはねえ。すごいねえ。裕一はどうしてそのことを大学の先生が知っているのかと思って先生に聞いたら、河井さんから教えて貰ったんだって。河井さんは何でそんなことまで知っているのかねえ。さすが、代官だっただけのことはあるねえ。でもねえ、セキガハラノカッセンとはねえ。市史ができるのはずっと先らしいけど、楽しみだねえ……。

 この日、母は私の大好きな、茄子なすや薩摩芋の天ぷら、豚肉のたっぷり入った野菜炒め、それにお赤飯と、我が家にとっては最大級の馳走ちそうを用意した。大学寮の食事は質より量の、粗末なものだったから、久しぶりの母の手料理を、私は夢中になって口に運んだ。家に帰ろうと思った理由はこれなんだと思った。私が食べる、その姿を満足そうに母は見詰めながら、話し続けた。

 私は、もちろん「太田家系譜」のことは知らなかったが、昔のことを全く知らなかったわけではない。かつて祖先が太田出雲守おおたいずものかみと呼ばれ、河井家と同じく幸田村の草分けであることを知っていた。江戸時代から代官を務め、今もこの市の有力者である資産家の河井家の長男、河井壮夫かわいたけおが私を「出雲守」、そう呼んだからだ。


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