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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
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 2010年1月23日

 河井由紀子と千佳子の墓参に行くことになった。墓地は町田と接している横浜市青葉区O町のFという寺にあった。その寺の近くに樫村は住んでいる。樫村家の先祖代々之墓に千佳子が納骨されている。樫村がどれだけ千佳子を愛していたかが分かる。

 私は喪服を着た。

 由紀子は茶系統の落ち着いた着物に薄紫の羽織を羽織っていた。運転するからだろう、草履ではなく、運動靴を履いていた。

「正反対ね。太田さんは喪服なの。どうして?」と由紀子は訊いてきた。

「そういう気分だから」と私は答えた。由紀子も私も千佳子にのみ会いに行くのではない。そこに河井もいると思っている。

「私が運転しますから、由紀子さんは草履を履いてください。その靴はおかしいでしょう」と笑いながら私は言った。由紀子はこくりと頷いて笑顔を返した。


 ナビが町田を越えたことを示している。

 ここは以前通った道だった。由紀子の運転で青葉台の料亭に向かう途中に通った道だった。

 緩やかな坂が尽きたあたりでナビは左折を指示した。急な上り坂だ。この坂の上に住宅地が広がり、そこに樫村は住んでいる。坂を上り始めてすぐに、F寺への案内板が右手にあった。

 案内板を越え、道なりに進むと、左手に寺の駐車場があった。8台ほどがやっと止められるくらいの小さな駐車場だ。右手の墓地は広い。これで駐車場は間に合っているかなどと考えた。

「二人で歩くのは変だわ。格好があまりに違いすぎるものね。私は先に行くから、少し遅れて車から降りてくれる?」と由紀子はいたずらっぽい目をしながら、言った。私はすぐに同意した。

 F寺に入ると左手に売店があった。供花と線香をそこで買った。ライターは私が用意した。

「樫村さんのお墓ですか。ええ、よく知っていますよ。ほれ、このまんなかの道を通って、一番奥から2列目の一番左奥に樫村家のお墓があります。先祖代々之墓って書いてあるから、間違えないようにしてください。一番奥ですよ。ああ、そのお墓にはお地蔵さんがあるから、それが目印になります。でも、急にどうしたのかねえ。去年からおかしいんですよね。何かあったんですかねえ。樫村さんもすっかり変わっちゃって……。以前は全くお墓に無関心だったんですよ。それでお墓は草ぼうぼうで、ずっと私が掃除していたくらいなんです。それが去年の夏の終わり頃だったかしら、急に墓参に来るようになって……。それも毎週ですよ。おかげで掃除しなくてすむので嬉しいんですが。そのうえ、こうして新たな人が来られるんだから。ほんと、何かあったんですかねえ」と売店の女は供花をはさみで適度な長さに切りながら言った。そして切り終わると不思議そうに私を見た。明らかに喪服も彼女の不信感を増幅させていた。私は何も言わずに売店を離れた。

 由紀子は墓地の入り口で待っていた。


 墓地は閑散としていた。供花も多くは枯れていた。

 売店で教えられたことを確認しながら、墓所に向かった。目的の墓所に迷わなかった。

「このお地蔵さんは志穂なのかしら?」

 墓所に着くとすぐに由紀子は言った。

「先祖代々之墓」と彫られた墓石の左手前に小さな地蔵が建っていた。

「千佳子さんが寂しがらないように……。でも、このお地蔵さんは男の子だから、志穂ではないか?」由紀子は独り言のようにつぶやいた。

「でも、女の子と考えることもできるよ。坊主頭を気にしなければ、表情は女の子だよ」と私は言った。

「樫村さんは千佳子さんのためにこのお墓を建てた。十分、千佳子さんに尽くしている」由紀子はそう言うと、その場にしゃがんで、手を合わせた。

 私は持っていた供花を合掌を終えた由紀子に渡した。由紀子はそれを三束に分け、墓石と地蔵に供えた。その間に、私は持参したライターで線香に火をつけた。そして、由紀子に渡した。


 由紀子も見えているだろうか。

 墓石の向こうに、千佳子と河井はいた。千佳子はあの時のままだった。

 河井は笑っていた。

「どうしたの?ぼんやりして」由紀子は言った。それで我に返った。


 私も線香を供えて合掌した。

 千佳子の墓の前に立つと由紀子が一層惨めに感じた。どうしても言いたかったことが口に出た。

「これで、本当に良かったのかな?由紀子さんにとって」

 私は背中に重みを感じて、危うく倒れそうになった。かろうじて何とか踏みとどまった。

 由紀子が私の背中に顔を埋めてきた。

 由紀子は赤子のように泣いた。


 売店の手前まで二人は一言も話さなかった。そこで、急に由紀子は立ち止まり、決心したように、私を見ながら言った。

「私たち、河井の自殺の理由ばかりを考えていた。どうも釈然としないわ。いつもそう感じた。大事なことを忘れている。河井がどうして千佳子さんのために志穂を引き取るような人になったのか。あなたと最後に別れてから、ずっと、考えた。そして調べたの。過去の痕跡を。それで分かったことがあるの」

 予想していないことだった。

「1971年.その時に何かがあったのよ。河井は絶対に成田に行ったわ。そこで千佳子さんと知り合ったのかもしれない」

 由紀子の話は突飛だが、そのこと自体は私も考えていたことだった。

 千佳子が話した右翼青年、彼が河井壮夫だったのではないか、と私は思っている。

 過去の千佳子との関わりを思い出すなかで得た結論だ。千佳子の書いたビラを河井の書斎で発見したことがきっかけになった。


 あの右翼青年が河井であれば、河井が千佳子に会いに行く決定的な動機になる。

 河井は樫村に千佳子の知り合いだと言っている。知り合うとすれば、成田以外に考えられない。

 樫村への知り合いだという説明は嘘で、河井が志穂を引き取る理由を樫村に納得させるためについた方便と考えることもできるが、知り合いでないとすると、千佳子のビラを読んで感動したから会いに行ったということになる。しかし、これではいかにも動機が希薄だ。

 また、それだけの動機で会いに行ったとして、初対面の男に千佳子が志穂を抱かせるとは考えにくい。

 千佳子が語った右翼青年の特徴も合っている。

 この男が河井壮夫。千佳子は成田で二度も河井と会っている……。


 彼がその時点で右翼だったか左翼だったかは分からない。彼の書架にある蔵書から、左翼というものに関心はあったのだろう。ただ、それは関心以上のものではなかった。

 河井の大学でも、成田に結集を呼び掛ける立看(注5)があったに違いない。それを見てきっと、現実に起きている世界を直に見たいというくらいの気持ちで河井は出かけたのだろう。だから、河井は傍観者として、まるで物見遊山のような格好で参加したのだ。


 しかし、由紀子の前で河井と千佳子の出会いを認めようとは思わなかった。認めれば、由紀子の話に弾みを与えるだけだからだ。聞きたい話ではなかった。私は長すぎたかもしれない沈黙を破り、反論の言葉を強く発した。

「成田?話が少しとんでないかい。それに、もし、千佳子さんを知っていたら、樫村さんにそう言っただろうと思うよ。でも、河井はそうは言わなかった。そう思う根拠はある?」

「あなたは成田に行かなかったの?私はテレビで見たわ。可哀想なお爺さんやお婆さんを。柵みたいなものに、必死でしがみついているお年寄りを警官が力づくで引きはがしている。今も、あの時のお年寄りの姿を思い出す。中学生の私には衝撃的だったわ。あの性格だもの、河井が行かないはずはないわ」

 由紀子も強い言葉を返した。

「書斎の河井の本ですね。由紀子さんをそう思わせているのは。だからといって、成田に行ったとか、千佳子さんに会ったとか……とは言えないと思うが」根拠の薄い話だった。明らかに由紀子はそう思いたいだけなのだ。

「そうね。会わなかったかもしれない。でも、会ったかもしれない。間違いなく、組織に属していた千佳子さんは成田に行ったはずだから」

 長い会話になりそうだった。立ち話でする話ではない。


 売店には誰もいなかった。入り口は鍵が閉まっていた。売店の隣は休憩所になっていた。そこは空いていた。私は由紀子をそこに促した。

 小さなテーブルに椅子が二つ置いてあった。

 椅子に座ると、すぐに由紀子は話し始めた。

「根拠はあるわ。1971年の10月8日に、河井は日本を離れた。大学を休学したの。だから、大学を卒業するのに5年かかっている」

「河井は留学したと聞いているけど」と私は反論した。母から聞いたことだった。

「留学はしていない。翌年の3月には帰国している。河井は何で大学に5年もかかったんですかって義父に訊いたことがあるの。河井はその頃のことは話したがらなかったから。義父は壮夫が疲れているみたいだったから、休学を進めた。それで、壮夫は海外に行くことになった。いろんな国を旅した、と言っていた。その時は特に疑問も感じなかった。でも、今は違う。私は日本を逃げたと思っている。成田は河井には耐えられなかった。テレビで見ただけでも私は悲しかった。きっと現実の成田はテレビで見るより、もっともっと悲惨だったと思う。死者も出ているでしょ。機動隊の人が三人も死んでいる。成田の青年も自殺している。その一週間後よ。河井が成田を離れたのは……。若しかしたら、三人死んだ、いや殺した集団に河井はいたのかもしれない。河井はどこの組織にも属していないから、適当な部隊に入れられた。それがたまたま、機動隊襲撃部隊だった。河井は父にそれを言った。悩んだ末、親子はこれを秘密にした。でも、河井の不安定は消えない。それで、両親は河井を休学させ、海外に行かせた。それで、立ち直った。でも、精神的に病んだ河井の記憶は消えない。幸せになってさえくれたら、それだけがご両親の願いになった。河井のご両親が志穂を連れての私たちの結婚をすんなり受け入れたこともこれで説明がつくわ。帰国後、河井は、読む本が全く変わってしまった。帰国後読んだと思われる書物では宮沢賢治全集が一番古くて、発行月は昭和51年、1976年よ。おかしいと思うでしょ。書斎に残っている、それらしい本は皆1971年10月以前に発行されたものばかりだったわ。これは根拠にならない?」

 由紀子は畳みかけるように言葉をつないだ。反論を許さない、強い口調だった。それが一層私を刺激した。

「どうして、理由なんか探すんだ。他人ひとからみたら些細に思えることでも本人にとっては人生を決定づける原因もとになることだってあるんだ。私はたった一枚の写真に心揺さぶられ行く末を決めた少女を知っている。君はただ自分を納得させたいいだけだろ。河井を穢しているのが分らないのか。河井が一番してほしくないことなんだよ。厭なんだよ。どうして理由なんか探すんだ。止めてくれ」

 震えが止まらなかった。憤りが治まらない。

 血の気が消えた由紀子の顔があった。突然、由紀子は言った。

「ごめんなさい。ごめんなさい。なんてひどいことを……」


 由紀子はただ謝った。理由も分からず、ただ怖くて、ただ謝った。いっぱい謝らなければと思った。


「この話はなかったことにしよう。おしまい。樫村さんの家に行きましょう。樫村さんをあのまま放っておけないからね」

 由紀子の興奮、自分の憤りが収まるまで待って私は言った。二人で予定していたことだった。

 由紀子はバッグから薄い水色のハンカチを取り出し涙を拭きながら頷いた。

 休憩所を出た。事務室には先ほどの女性が座っていた。怪訝(けげん)そうにこちらを見ていた。

 由紀子を蒼褪(あおざ)めさせるほどの私の突然の憤りを私はどう理解すればいいのだろう。

 随分と私は河井に近づいたものだ。つくづくそう思った。

 由紀子は河井が加害者側を書かなかったのは私に書いてほしいからだと思うと言った。加害者が被害者の立場で小説を書く、被害者が加害者の立場で小説を書く、それが一番ふさわしいと考えた……と言った。

 小説の真実への迫り方は逆になる。河井が右回りなら、私は左回り。私が右回りなら、河井は左回り。

 河井は小説を書き終え、死へ旅立った。それは時刻で言えばいつだったのだろう。

 私が由紀子の要請に応えて小説を書けば、同じ時刻に書き終えるのか。

 そこで、何が起きるのだろう。

 河井は千佳子を生かすために小説を書き、自らの死を捧げた。

 私にも何かが起きるのだろうか。それは、一体……。


「あなたも千佳子さんのこと知っていたんですね。今日のことを樫村さんに連絡したとき、樫村さんから聞いた。なんで教えてくださらなかったの?」

 樫村家に向かう車の中で、由紀子は言った。いつかは知れると思った。覚悟していたことでもあった。

「隠すつもりはないですよ。直接、関係あることでもないから、話さなかった。そういうことです」と私は言った。

「そうかしら。大いに関係あるでしょ。河井もあなたもおかしいわ。お互いに何も言わないなんて」

 由紀子は呟くように言った。私はただ黙っていた。


 樫村の家は住宅地のはずれにあった。

「カーポートに車を入れてくれ、と言っていたわ。樫村さんはもう乗っていないから空いているって」と由紀子は言った。

 カーポートの先は庭が続いていた。庭の住居側は芝生になっていた。庭の一番奥に梅と思われる樹木が立っていた。カーポートの左右は石塀になっていて、石塀の上に千両が顔をのぞかせていた。たくさんの赤い実をつけていた。

 カーポートに車を入れている最中に、樫村は部屋から出てきて、我々に声をかけた。樫村は茶系統のズボンに、薄いクリーム色のセーターを着ていた。

「迷わなかったかい?お寺からは、分譲地の中ではここが一番遠いからねえ」

「大丈夫でした。お元気そうで、何よりです。このたびはご心配かけて……。今日はそのお詫びです」と由紀子は言った。私も頷いて応じた。

「太田さんもわざわざすいませんねえ。安心しました。太田さんがついていてくれるから、心配はしていない」と樫村は私を見て頭を何度も下げながら、由紀子に言った。

 樫村は洋間に我々を通した。そこにはパソコンが置かれていた。麻雀ゲームを画面は映していた。

「あら、パソコンでゲームしているんですか?若いですねえ」と由紀子は驚いた様子で言った。そしてややおいて更に続けた。「とても学園でお世話になった先生からは想像できない」

 樫村は白髪を掻きながら、ゲームを消した。

 樫村に向かい合って私と由紀子はソファに座った。

「由紀子さんはいつまでもお若いねえ。もう、いくつになったのかねえ。いや、年齢を聞くのはまずいか?」と樫村は笑顔で言った。由紀子は顔を隠すように、口に手を当て、少し下を向いた。

 ドアが開いた。小柄な女性が、盆を持って現れた。由紀子は当然、知っていた。お互いに笑顔を返した。

 紅茶をそれぞれの前に置いた。そして、「由紀子さん、いつまでも若いわねえ」と言って、立ち去った。

「妻です」と樫村は私に言った。

「太田さんから話を聞いて、本当に心配したんですよ。だから、絶対、会って話をしなくてはと思ったんです」

 由紀子はそう言うと、私を見た。私は同意した。

「先生は主人の死を誤解しているんです。主人は自分を責めて死んだのではないんです。最も身近な私が言うんですから、本当です」と由紀子は言った。

「私は河井さんの、二度殺すようなものだ、という言葉が頭から離れんのですよ。つくづく河井さんには申し訳ないことをしてしまった。それは否定しようもない。それで彼が苦しんだことは間違いない。これ以上の幸せは耐えられない……。河井さんの遺書の言葉は彼の苦しみが尋常なものではないことを示している。由紀子は気にしなくていい。私は大丈夫だ。彼の死を抱えて生きることは辛くはない」

「いえ、駄目です。だって、事実と違うんですもの。私は思うんです。これ以上の幸せに耐えられないって、そのままの意味なんです。千佳子さんに言っているんです。これ以上の幸せを一人で享受することに耐えられない。そういう意味なんじゃないかと。千佳子さんと一緒に喜び合いたかった。そのために死を選んだと。そうでないと、彼の満足そうな死に顔は説明がつきません。それは、それは、本当に幸せそうな笑顔だったんです」

 由紀子は目頭を押さえた。

「由紀子がそう思う、それでいい。きっとそれが真実。でもね、だから、私の罪が変わるわけではない。いいんだよ。由紀子は気にしないで。それぞれの真実がある。そういうものじゃないのかねえ」

 由紀子は分かろうとしない子供のように、左右に首を振った。

「そうだ。太田さんの手紙を見たいと言っていたね。今、持ってくるから」と言って、樫村は立ち上がった。

 何故、と私は思った。由紀子の意図が掴めなかった。由紀子が読む姿を想像して、私は不愉快になった。


 樫村は3通の手紙と二枚のレコードジャケットを持って戻ってきた。手紙を由紀子の前に置き、自分の前にレコードジャケットを置いた。 

 由紀子は手紙の消印の日付を確認しながら、古い順から3通、全てを読んだ。

「太田さんは何で教えてくれなかったの。手紙のことを」と由紀子は言った。

「別に隠すつもりはないけど。ちょっと、恥ずかしい手紙だから……」

 私は精一杯の笑顔で言った。

「随分と綺麗に残っているんですのね。千佳子さんは、本当に大事に保存していたのね」

 由紀子は私に同意を求めた。私はただ、由紀子の前に置かれた手紙を見つめた。

「やっぱり、おかしいわ。なんで会わなかったの?住所を知っているのに。ここまで自分の思いを書いても会ってくれなかったら、普通会いに行くんじゃない。会って返事を聞くんじゃない」

 黙って、手紙を読んでいた由紀子は、読み終わると、全く理解できないという表情で私を見た。

「私が会いたくても、会えるような関係じゃなかった。分からないかもしれないけど、自分にけじめをつけるために書いた手紙、嫌われるために書いた手紙だから。会おうなんてありえない」

 由紀子は納得がいかないという顔をした。

「会うべきだった。千佳子さんは会ってくれたはず。こんなに大事に手紙を保存しているんだから。大体、こんな情熱的な手紙を貰って、嬉しくない女性なんていない。もし、会っていたら、千佳子さんの運命は変わっていたかもしれない」

 強く反論したかった。由紀子は「時代」を理解していない。恋とか愛とかそんな個人の幸せより、如何に生きるべきかを優先する、一部かもしれないが、そんな生き方を選んだ女性がいる。そういう時代を千佳子は生きたのだ。千佳子はまさしくそういう女性だった。言っても無駄なことが脳内を駆け巡った。

「そうは残念ながら、ならない」私は虚偽の笑いを浮かべながら言った。そして、続けた。

「主人のことを一番知っていると由紀子さんは言いましたよね。それと同じです。あの時の千佳子さんを一番知っている自分が言うのですから、残念ながら、私の考えで間違いありません」

 私は由紀子に頭を下げ、精一杯のおどけ顔で言った。


 別れ際に樫村は思いもかけないことを突然言った。

「太田さんに会ってからいろいろ千佳子のことを思いますことがあって、一つ太田さんに言い忘れたことがありました。千佳子が神田川という曲だ好きだったという話です。千佳子のことを知らせてくれた女性が言っていました。太田さんが千佳子に贈ったあのアルバムは失礼なんですけど、とってもうるさくて私には出来なかった。千佳子もどこまで理解できたか……、千佳子がここにいた頃口ずさんでいた曲などを想いますとそう思うんです。何度も千佳子が聴いたのは事実だと思いますが、それは太田さんを思い出すためだったのではないかと思うんです。このことを教えてくれた女性は神田川が好きなのは、きっと好きな人が千佳子さんにいた、忘れられない人がいたと思うと言っていました。私もそう思いますね、それは間違いなく太田さんです。あと、あのジャケットに書かれた4つの文字、由紀子は暗号じゃないかと言ったけど、その暗号何とか解いてくださいね。」と樫村は最後は満面の笑顔で言った。


 樫村家を後にし、自動車くるまは横浜市から町田市に入った。

「最後は樫村さんに失礼になったかもしれないわね」と、助手席の由紀子が話しかけてきた。私の手紙のことで、由紀子と私とで会話が続いた場面を言っていた。

「そうそう、それもそれぞれの真実でいいんですよ」と樫村は老練に纏めた。それで、手紙の話は終わった。その後、最近の樫村の生活の様子を由紀子が質問し、樫村が答え、「理想の生活ね」と由紀子が言って、話は終わった。

「そんなことはないでしょう。最後は樫村さんは笑顔だったんだから」間違いはなかった。

「レコードジャケットの文字、ずっと考えていたんだけど、To IのIだけど、私のIとLoveの愛をかけているんじゃないかしら。あとno

はそのままの意味で、waは樫村さんの読み間違いでweじゃないかと思うの。確認しないといけないけど。weだったら意味が通る。no we私たちではない。一緒になれないっていうこと。千佳子さんは自分の愛に言い聞かせていたんだわ。どんなに愛しても一緒にはなれないって。太田さんを自分の世界に巻き込んではいけないって自分に言い聞かせるためにきっと書いたんだわ。」

「レコードジャケットの文字、ずっと考えていたんだけど、To IのIだけど、私のIとLoveの愛をかけているんじゃないかしら。あとno

はそのままの意味で、waは樫村さんの読み間違いでweじゃないかと思うの。確認しないといけないけど。weだったら意味が通る。no we私たちではない。一緒になれないっていうこと。千佳子さんは自分の愛に言い聞かせていたんだわ。どんなに愛しても一緒にはなれないって。太田さんを自分の世界に巻き込んではいけないって自分に言い聞かせるためにきっと書いたんだわ。」


 由紀子はその後無言だった。話が尽きた後のような長い沈黙が続いた。


 マンションが近づいた。そこで、私は降りる。その間際で由紀子は言った。沈黙の中で由紀子は眠っていたのではなかった。全く意外なことを考えていた。

「ねえ。不思議だと思わない。私たち、千佳子さんを殺した犯人のことを1回も話題にしていない。許しているわけではないのに。今、犯人がどうしているかさえ、考えない。それって、どういうふうに考えればいいのかしら」

 由紀子は別れ際にこの言葉を捨て、去っていった。


  注5 立て看板のこと。この当時、大学内にはデモや集会への参加を呼び掛ける立て看板が幾つもあった。

 


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