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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
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 由紀子は,主菜が運ばれ、それを食べ終えるまで一言も話さなかった。私たちは黙々と食事を口に運んだ。

 デザートの、この店手製だという小さな淡い桃色の和菓子と抹茶が運ばれたとき、由紀子が食事を運んできた仲居に質問した。

「これで最後かしら。若しまだあるのでしたら、すぐに持ってきていただけませんか」

「これで、最後です」と、アルバイトの学生に違いない、若い仲居は答えた。由紀子は女に近づき、何かを言った。女は頷き、そして退いた。

 由紀子はこちらを向いて軽く微笑んだ。そして、言った。

「どうしても主人の言葉がひっかかるんです。河井はマスコミへの遺書には幸せすぎるのが自死の理由だと書いた。私や志穂宛の遺書には自死を受け入れてくれると信じていると書いた。そして、あの幸せそうな死に顔。苦しんだ末の自殺とはとても思えないんです」

「しかし、幸せすぎる死などというものがあるのでしょうか?他に理由があると考えるのが妥当だと思うのですが……」

「私は思うんです。確かに主人はあなたや樫村さんが言うように佐宗さんの存在を消したことに苦しんだのだと思います。だから、彼女のために、彼女の最愛の娘を幸せにするために心血を注いだ。でも、主人は私の遺書にこう書いたんです。志穂を初めて抱きしめたあの日、あの喜びが現在、そしてこれからに繋がっている。生死の違いで変わることはない、と。

 私もあの日のことは忘れられません。

 志穂は主人になかなかなつきませんでした。

 私は学園で、志穂を妹のように可愛がっていました。だから、志穂は私を信じて私たちの子になったんだと思います。主人への不安はきっとあった。それに、志穂ももう6歳になっていましたから、主人をすぐに受け入れられないのは仕方がない面もありました。私はなんとかその関係を変えたいと思いました。休みの日にはいつも三人で外出することにしました。志穂を真ん中にして、三人で手を繋いで歩く。それで随分と二人の関係は近づきました。あの日、多摩動物園に行った。いつものように私が志穂の右手を持ち、主人が志穂の左手を持つ。こうして三人で歩く。動物園は大当たりでした。志穂はとてもご機嫌でした。そして、私はとっさに考えたのです。二人で志穂の手をもって、「高い、高い」と高く志穂をあげた時、私は志穂を両手で抱え、主人に放り投げることを。そして実行した。主人は慌てて志穂を抱きしめました。こうしてはじめて、主人は志穂を抱きしめた。あの時の主人の顔が忘れられません。あの至福の表情。あの日から、主人が死を選ぶまで一直線なら、自殺の原因をなんと考えればいいのでしょう。苦しんで死んだとは考えられません」

「では、河井はどうして死を選んだのだと思うのですか。一直線なら死という結論にはなりません」私は由紀子の言う理屈が分からなかった。

「自殺の原因があるとすれば、志穂の結婚です。それが幸せすぎる、という意味だと思います。でも、普通、それは死にはつながらない。それをつなげたのが佐宗千佳子さんです。死を選んだのは千佳子さんを選んだと言うこと。どうしてもこの幸せを千佳子さんと共有したかったんだと思うんです。生死の境を超えて、千佳子さんに報告したかった。いや、生死の壁が河井には邪魔になったんだと思うんです。それで死を選んだ。向こうの世界を選んだ……」

 由紀子は遠くを見るように顔を上げた。そして、言った。

「今日、千佳子さんのお話を聞くまでは、あの小説が全く理解できなかった。今は違う。あの小説のいとは千佳子さん。いとは存在は消されなかったが、別人に造りかえられた。それがいかに残酷なことかを書いた。そして、小説で真実のいとを復活させた。小説にはもう一つの目的があった。千佳子さんの復活。自分は樫村さんとの約束があるから、千佳子さんのことをあなたに伝えることができない。そこで、あなたに近づき、小説を媒介に証拠を残すことでそれをあなたに願った。そして、河井の願いは叶った。そのとおりになった。そうお思いになりませんか。だから、あの小説はあなたへの遺書なんです」

 由紀子は確信に満ちた表情を浮かべて言った。

 由紀子の言うとおりだ。

 河井は「二度目の殺人」に関わった自分の罪に苦しんだ。しかし、その理由で自死を選んだのではない。

「千佳子を再び生かす。復活させる」それを実現させるのに自分の死が必要だった。それが死の理由だ。

 だから、あの手紙を必ず、見つけられるだろう、あの場所に置いた。そして、私は見つけた。

 私が必死に千佳子を追うことも河井の確信だった。そして、私は河井の目論見通り、動き、千佳子が現世に戻った。その河井の究極の願いは死を以てしか成り立たなかった。樫村との約束があったから……。それが、どんなに残酷なことだったか……。樫村は今後、ずっと苦しむことになる。私は……。


「そうかもしれませんね。私は河井の死に顔は見ていません。安らかな顔だったのですか。何もかも承知して死を選んだ。私の行動まで予測して、ですか。なるほど。あの小説は何度も読む必要がありそうですね」

 由紀子の気持ちを否定するわけにはいかなかった。

 由紀子は何度も頷いた。

「どうやら、あの小説をコピーする必要がありますね。太田さんも私もいつでも、読めるようにしないと……。帰ったら、すぐにコピーします。では、帰りましょうか」と由紀子は言った。

 由紀子は話し終わると、河井の位牌の置いてある座卓の前に正座した。

「まだまだ、いっぱい謎かけがあの小説にはありそうですね。あなたをいつまでも私たちのそばにいさせる河井の細工かしら」と由紀子は河井の写真に笑みを浮かべながら声をかけ、位牌と額を片付け始めた。無造作に。 



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