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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
マイ ファニー 
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 ただ落胆する自分がいた。樫村は一向に私が何も言わないのを不審に思ったに違いない。しかし、そう思っても、私は言葉を発することが出来なかった。無言が続いた。樫村は諦めたのか、話を続けた。

 河井のあまりの熱心さに、その善意に賭けるのもいいのではと思うようになったこと。しかし、両親が揃うのは絶対条件だ。それもただ揃えばいいのではない。河井の相手の女性が河井と同意見でなければ志穂は幸せになれない。普通に考えればそんな日は来ない。養子をもらう条件で結婚しようと思う女性は現れるはずがない。

 そして樫村は河井の細君の話をした。K学園の卒業生で、大学生の藤堂由紀子。彼女だったら、河井と添い遂げることもありうると考えたこと。

 樫村は由紀子が河井と結婚するに至った経過を詳細に話した。私は聞く気持ちは失せていた。失礼にならないよう、樫村を正視することだけが出来得る全てだった。

 樫村の長い話が終わった。誰に言うともなく、私はぽつりと言った。

「良かったですねえ。本当に良かった」


「ところで、河井さんはどうして自殺したんですか?」樫村は話を変えた。

「新聞に載った遺書では、これ以上の幸せは私には耐えられない、が自殺の理由です。これもまた、信じがたいことですが……」と私は言った。

「私は由紀子を河井さんに会わせる時、事前に由紀子の事を話しました。そして、一つ約束させました。結婚前にももう一度確認しました。千佳子のことは封印するのが条件だと。由紀子も志穂も千佳子を知らずに生きてきた。私の願いを聞き入れて、協力してくれた人もいる。協力してくれた人に迷惑はかけられない。君がどう思おうと勝手だが、このことだけは守ると約束してくれ。それでなければ、志穂を渡せないと言いました。河井さんは分かったと言った。そういうしかないからだ。あのときの河井さんのつらそうな顔は今も忘れない。千佳子の戸籍を捨てたことを伝えたときの河井さんの叫びも忘れない。千佳子を二度殺すことと同じだ……」

 樫村は、当時を思い出すように顔をあげ、口を強く結んだ。暫く沈黙があった。そして、静かに言った。

「自殺の理由は千佳子の、二度目の殺人に関わった自分を許せなかったということではないのでしょうか。彼は千佳子を封印したことに、ずっと、苦しんでいたに違いありません。幸せになる資格は自分にはない。それにも拘わらず、彼の人生は幸せに満ちていた。幸せな家族、世間での名声。そして、待ちに待った志穂の結婚。これ以上の幸せは耐えられない、とはそういう意味ではないでしょうか。多くの人はこの遺書の意味は分からないと思います。しかし、私には分かるんです。千佳子を二度殺すのと同じだと言った河井さんのあの時の苦渋に満ちた顔を忘れられないから。そこに追い込んだのは私だ。彼は千佳子の封印を認めたくはなかった。しかし、それを認めた。彼にとってあまりに重い罪に、彼は苦しみ続けた。幸せを感じるたびに罪の意識は増幅した。千佳子の不憫さが更に募る。その落差が耐えがたい大きさに広がってしまった。それが彼の死の真相だと思うんです。そして、そこに追い込んだのは私だ。死ぬべき者がいるとしたらそれは私なんです」

 そう言いながら、樫村は私をにらんだ。その目は私も共犯だとでも言っているように見えた。いや、それは錯覚だろう。私がそう思ったのは、私自身がそう思っているからだろう。しかし、私は最後の力を振り絞って反論した。

「幸せすぎる死、そんな死の理由が存在するとは思えません。今日聞いたお話は驚くことばかりです。私には死の真相を探るためには整理する時間が必要です。でも、樫村さんが思っているような理由で彼が自殺したとは思えません」

 三島由紀夫について河井が語った言葉、自死を罪を悔いての自らに課した懺悔の罰、そう考えて自死したと思われたら、自死者にとって、これほどの屈辱はない、を伝えれば樫村も考え直すだろうとも思った。しかし、私にはこれ以上話す力はなかった。私が話せる精一杯の言葉だった。本心でもあった。しかし、私の言葉は樫村に届きはしなかった。

 私は最後の言葉を言った。

「長い時間ありがとうございました。これで今まで疑問に思っていたことの多くが分かりました。あとは河井の死の真相を探すことだけです。自分なりに考えてみます」

「由紀子と志穂をお願いします。ご親戚になられるのですね。きっと二人は心強く思っていると思います。よろしくお願いします」

 樫村は立ち上がって何度も頭を下げた。白髪が揺れた。


 百日紅が並ぶ道を私は下った。

 不思議なことが起きた。ここに来たときは百日紅の花は無かった。しかし、今は違う。紅白の花がまぶしいほど一面に咲き誇っているのだ。

 私は足がもつれた。不快な気分になった。

 共犯者のように見た男の目が浮かぶ。

 千佳子の顔が浮かぶ。河井の顔が浮かぶ。私に何かを言っている。

 足が動かなくなった。銅像の前で私は一歩も動けなくなった。

 私は銅像に顔をつけて、泣いた。


 その夜、私は夢を見た。かつて、私を何度も苦しめた夢だ。

 駅前の定食屋から二人の男女が出てきた。180センチを超す長身の男と150センチに満たない女。この上ない不釣り合いなアベックだと思った。

 千佳子のアパートに行った、その帰りだった。

 千佳子の部屋、1号室に出入りする数人の若い女を見た。これで何度目か。千佳子に会うつもりはなかった。ただ、どうしているかは知りたかった。千佳子は今も活動家だった。それを知ることができただけでも十分だった。若し、千佳子に変化が起きたら、その時に、会いたいと思った。


 長身の男は河井だった。そして、女は千佳子だった。河井は志穂を抱いていた。ありえない光景だった。


 人の出入りがなくなった。

 千佳子は一人になった。

 千佳子の部屋は入り口に一番近い部屋だ。ノックした。返事はなかった。ノブを回した。鍵はかかってなかった。千佳子は熟睡していた。私は手にしていたバールを千佳子の後頭部に振り下ろした。


 どうしたの、という声に私は目覚めた。妻は言った。どうしたの、やだよう、まさか自殺でもしないでしょうね。あなた、うなされていたよ。何度も河井、ごめんって……。



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