7
樫村があの手紙を知っている。樫村が私を千佳子の恋人と勘違いする証拠はあれしかないのだから。
私はこのとき、どういう態度に出るべきか決めかねていた。暫く、テーブルの下に視線を落としていた。
沈黙が続いた。私は決心して言葉を発した。
「どうして私を千佳子さんの恋人だと思われているのか分かりません。残念ながら私は千佳子の恋人ではありません。千佳子さんを愛していたことは認めます。でも、フラれたんです」私は強く言った。間違ったことは言ってなかった。
「千佳子がふった?でも、千佳子はあなたの手紙を大事にとっていましたよ。千佳子が残したもので、私が彼女を認められる代物はたったそれだけ。あとは捨てたいものばかりでした。殺される原因となった政治ビラばかり。日記すら残っていなかった。私は太田さんに感謝しているのですよ。少なくとも、普通の幸せを千佳子にあげてくれたのですから。できれば、千佳子を奪ってほしかった」
樫村は唇を噛んだ。
「私の手紙……。千佳子さんは捨てたと思っていました。樫村さんが私を知っているのは千佳子さんが私のことを樫村さんに言ったからと思っていました。読まれたんですか。いや、お恥ずかしい限りです。私はあの頃どうかしていました。いえ、千佳子さんを愛していたのは本当です。しかし、片思いだということは分かっていました。分かっていたのに……。何度も手紙を出して……。千佳子さんは私のことをしつこいと思ったに違いないと……。その手紙が今も残されている。今もその手紙があるなんて……。信じられません」と私は言った。
「結局、千佳子はあなたに会わなかった?」
「ええ。千佳子さんにしてみたら、当然です。そんな関係ではなかったですから。私は数回しか会っていないんです。それも、千佳子さんにとってはオルグの対象でしかなかったんです。だから、私の一方的な片思いだったんです。今だったら、典型的なストーカーですね」私は自嘲した。
「そうですか。でも、千佳子はどうだったのでしょう。全くその気がなければ、手紙を残すでしょうか。それに、それだけではない。太田さんは千佳子にレコードも贈っていますよね。そのレコードが2枚あるんです。奇妙な絵が描かれたアルバムです。1枚はあなたが贈ったものでしょう。開けてなくて、新品なままです。もう一枚は千佳子が買ったものでしょう。それは千佳子が聴くために買ったものです。あなたから貰ったレコードはそのまま大事に保存したのです。千佳子にとってあなたがどういう存在であったか分かります。私は嬉しいんです。太田さんは千佳子を気に入ってくれた。千佳子もあなたの、その気持ちを知り、嬉しかったのに違いないんです。だから、大事に手紙を……」
千佳子に贈ったアルバム。「チープ・スリル」というアルバムだ。1960年代後半に発売されたこのアルバムは何週にもわたって全米NO.1に輝き、1年以上もチャートに留まる大ヒットを記録した。強烈無比なロック・ヴォーカルで圧倒的な存在を誇ったジャニス。千佳子に聞いてほしかったアルバム……。その中に収められた「ボール・アンド・チェーン」。ジャニスの叫びが脳裏に響いた。贈った記憶はあった。しかし、時期が思い浮かばない……。
私の動揺は続いた。私は話題を転じなければと思った。聞かなければならないことが幾つもある。この話題はここで切らなければならない。
しかし、樫村はレコードの話を続けた。
「To I no wa ってどういう意味なんですか?」と樫村はジャケットを左手で持ち、下の方を指さして言った。
凝視すると、樫村は下部裏表の4隅に黒マジックで書かれた単語をゆっくり指さした。
「いえ、分かりません」
「えっ、あなたが書いたものではないのですか」
樫村は驚いていた。
「私が書いたものではありません」
「そうですか。そうなるとこれは千佳子が書いたということになりますね。それでは、うーむ、一層、意味が分からなくなりました」
樫村はお手上げというように軽く両手を開いておどけた。
話を転じる機会を私は漸く得た。
「でも、樫村さんはどうして千佳子さんを知っているのですか。若しかしたら千佳子さんもここの学園の卒業生なのですか」
どう千佳子を話させるか。事前に時間をかけて考えた。千佳子はK学園長である樫村に私のことを話した。だとしたら、千佳子はK学園の卒業生と考えるのは当然だった。だから、警察もこの学園に引き取らせたのだ。切り口をここに定めた。
「その通りです」と樫村はあっさり認めた。
「千佳子さんはどういう経緯でこの学園に入ったのですか。差し支えなければ教えていただきたいのですが」千佳子の過去を知りたかった。
樫村は千佳子が、この学園の入り口近くの銅像の前に捨てられていたこと、K学園で引き取って、学園の生徒を含めた関係者みんなで育てたこと。千佳子は優秀で、学園出身で初めての大学生になったことなどを淡々と話した。
「千佳子さんと樫村さんは親子だったんですよね?」私は学園で育てたという説明を覆すこと、その一点に戦略を絞った。
「いえ。後見人というところです。ここは千佳子と同様に親に見捨てられた子が幾らでもいるんです。千佳子だけ特別扱いには出来ないんです」と樫村は言った。千佳子はそれで幸せだったのだろうか、と私は思った。
「志穂さんは千佳子さんの娘さんですね」樫村は認めるしかない、と踏んだ。
「それで、引き取ったんですね」
「ええ」
「あなたは志穂さんにK学園の前に捨てられていたと言っていますよね。それは本当ではないんですね。嘘をついたということですね」私は畳みかけるように言った。そして樫村を睨んだ。
「その説明はします。その前に確認しておきたいことがあります。志穂が千佳子の子であることをどうして知ったのですか?本当に、河井さんに聞いたのではないのですね?」
「そうです。私が気付いたのは、彼の死後です。先ほど申しましたように、河井とは同い年で、家も近かったので幼い頃から仲良しでした。でも、小中は一緒の学校で仲が良かったのですが、高校入学後は、進路が違った関係もあって、次第に疎遠になったのです。河井と再び交流が始まったのは、50歳近くになってからのことでした。彼が市長になってからです。だから、河井の子の志穂さんのことを知ってはいましたが、関心はありませんでした。彼女が同じ市内の小学校の教員になったことは知っていました。でも、私は中学校なので、会うことはありませんでした。もっと早く会っていれば、気付いたかもしれません。何しろ、あれだけ千佳子さんに似ているのですから」
私は嘘をついた。何度か志穂に会っている。ても、気付かなかった。河井が残した千佳子のビラを発見して、初めて気づいたのだ。
私は淡々と話を続けた。
「志穂さんが養女だということは噂で聞いていました。しかし、どういう経緯で養女になったかは知りませんでした。実は河井の死後、奥様に頼まれまして、河井の遺品を調べたんです。そして、千佳子さんの署名の入ったビラをみつけたのです。私は大変驚きました。まさか、河井が千佳子さんのことを知っていた……。それも、大事に彼女の遺品として保存している。二人はどういう関係だったのだろう。どうやって知り合ったのだろう。恋人同士ではなかっただろうかとまで思いました。私はビラの中身を知りたくて、奥様に言って、預かり、去ろうとしたとき、志穂さんが帰ってきたのです。びっくりしました。千佳子さんにあまりにも似ていたからです。そっくりでした。そこで、志穂さんは千佳子さんの子だと私は確信しました。そして河井は志穂さんの父親。死の原因はこのことがどこかで関係しているかもしれない。そこで、二人の過去を知りたいと……。ここに来た次第です」
「そうですか。あなたには言わなかったのですね。志穂が千佳子の子であることを。河井さんがあなたの手紙を見た時を思い出します。大変、熱心に読んでいました。手紙を読み終わると、千佳子さんはこの人に好意をもっていたのでしょうね、それは救いですね、と言ったのです。だから、あの手紙の主のことはそれで終わったのです。全くの見ず知らずの他人のように彼は言ったから。あなたを子どもの頃から知っていたから熱心に読んだのですね。ようやく分かりました。でも、あなたのことは何も言いませんでした。その手紙の主のことは永遠に分からないと思っていました。だから、あなたから電話が来たと聞いたとき、大変驚きました。そうですか。あなたにも何も言わなかったのですか。さぞかし、あなたにだけは言いたかったでしょうに」




