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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
マイ ファニー 
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 証拠はすぐに見つかった。パソコンの右横に大きな黒塗りの木箱が置かれていた。まるで、ここに証拠があると告げているかのようだった。その中には意外なものが入っていた。二つ折りした、黄変した1枚の藁半紙(わらばんし)だ。


 政治ビラだった。「全学連第34回定期大会の総括 S・T」。

 そのガリ版刷りの、独特の癖字で書かれた文章。そしてS・T。記憶は直ぐによみがえった。


「女性差別問題に関する我が地平-私の自己批判 S・T」。それが、私がS・Tから受け取ったビラだった。一部だけだが、目の前にあるビラと内容は酷似していた。


 大学に通い始めたころ、大学は前年の紛争の余波が残っていた。校門には大きな立て看板が常に置いてあり、集会への参加を呼び掛けていた。

 時折、党派の名前が書かれたヘルメットを被った学生とすれ違うこともあった。校内にはいくつかの集団があり、それぞれ対立がありながら、相互に表面上はぶつかることもなく、活動していた。最大の党派でも20人に満たない数だったからだろう。

 私が所属する社会学科の先輩の中にも、今も活動している学生はいた。しかし、先輩の多くはすでに活動から離れていて、気怠けだるい雰囲気を教室に漂わせていた。既に使うことのないいろいろな種類のヘルメットが一番端の学生用ロッカーに幾つも積み重なっていた。邪魔だと誰もが思っていたが、誰も捨てようとはしなかった。「これだけの種類があるんだから、どの党派の集会も参加可能だね」と不謹慎な話題にする者もいた。

「活動から離れても、社会に抵抗する気持ちを捨てたわけではないわ。今の社会に満足しているわけではないでしょう。私たちは社会を前に進める義務も責任もあるの。過去生きた人がしてきたように。傍観者でいることは許されないと思わない?」佐宗千佳子は言った。

 彼女に私は何度オルグ(注3)を受けただろうか。何回かのオルグの後、彼女は目の前から消えた。

 内ゲバが起きて、本学の学生が殺された。

 その加害者側の党派に彼女は属していた。

 彼らは皆、学内から消えた。

 そして、被害者側の党派が学内の主力の党派となった。


 同級生に随分ずいぶん揶揄(からか)われたものだ。何度、オルグを受けているんだい。何か下心でもあるんじゃないの。

 私は学内でオルグを受けるのに抵抗を感じて、茗荷谷(みょうがだに)の駅そばにある喫茶店を提案した。そこは社会学科の先輩も同級生も利用しない喫茶店だった。

 千佳子は不審そうな顔をしたが、了承してくれた。私は正直にその理由を告げた。「何度もオルグを受けているので、同級生から止めたほうがいいと言われている」

 千佳子は少し微笑みながら「いろいろ大変なのね。彼らもあなたにとっては先輩みたいなものでしょう。現役で入学したのはオオタクンだけでしょう。心配してもらえてありがたいと思わなくちゃね」と言った。

 その後、数回会った。

 大学を追われてから、千佳子は私の住む上板橋の大学寮に、連絡してきた。

 最後は突然やってきた。翌年の秋のことだ。

 池袋で会った。それが彼女に会う最後になった。

 そのときの彼女はいつもと違っていた。

 いつもは弱弱しい女性の一面があったが、それを微塵(みじん)も感じさせない。

「これからは、もう会わないと思う。党派に加わらなくてもいいけど、社会と妥協することだけはだめよ。一度三里塚に行くといいわ。いろいろなことが学べると思う。これが今の私よ。時間があったら読んでくれる?」

 一枚のガリ版刷りの藁半紙だった。B4用紙裏表に、余白を惜しむようにぎっしりと印刷されていた。そこには「女性差別問題に関する我が地平-私の自己批判 S・T」と書かれていた。

 何度私はそれを読み返しただろう。彼女の独特の字が鮮明に記憶に残った。


 目の前にある、黒塗りの木箱に入っていた用紙。

「第34回全学連定期大会の総括 S・T」

 河井が知らせたかったのは千佳子のことなのか。何故、私に知らせたかったのか。まさか、私と千佳子の関係を河井が知っていた?ならば、何故、それを河井は言わなかったのか。次から次に疑問が湧いてきた。


「何か、見つかりましたか?」と言って、細君は応接室に入ってきた。

 私はビラを見ていた。

「それは何ですの?」細君が訊いた。

「どうも、河井が大学時代に手に入れたビラみたいです」

 私は細君にそのビラを渡した。細君は大事そうにそれを手にもって、読み始めた。

「このS・Tって女性ですね」と細君は言った。

「そのようです。ここに入っていたのです。パソコンの横に置いてあって、まるで見つけてくれって言っているみたいに」

「河井にとって大事な人だった、ということですね。でも、何のために、見せたいの?」

「それは分かりません。少し、考えてみたいと思います。このころは、奥様はまだ河井を知りませんよね」細君の年齢は掴み兼ねた。

「私が河井を知ったのは私が大学1年生の時、K学園に来ていた河井を園長先生に紹介されました。その時、河井はY市役所に勤めていました」

「そうですか?それでは知りませんね。ちょっと考えてみます。このビラ、お預かりしてもいいですか?」

 成算があるわけではなかった。

「いいですが……」と細君が言ったとき、応接室のドアを叩く音が聞こえた。

「娘ですわ。ちょっと、いいですか?」と言って、細君は立ち上がった。

 ドア越しで、二人は少し会話を交わした。そして、河井の娘が部屋に入って、私に挨拶した。


 注3 組織に勧誘すること。 



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