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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
この素晴らしき世界
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12(3)

 武田軍の主力部隊は上野原に向かった。相模川沿いに帰るのだ。大悟から聞いていた甲斐へのルートだった。

 小山田隊だけが別の道を使った。青根から()せ参じた、忠勝が加わった農民隊はこの小山田隊に加わった。小山田隊は道志みちを使って郡内に入るのだろう。その途中に青根はある。この隊に加わるのは、配慮があったということだろう。


 忠勝ら青根隊に命じられた仕事は再び小荷駄を守ることだった。

 小荷駄といっても食糧は全て主力部隊の小荷駄隊に移されていた。また、今後必要な食糧を残して、それ以外は武田軍に加わった愛川の農民に与えられた。三増の戦闘で武田軍も多くの兵を失い、その屍を残すことになった。その供養を頼んだからである。

 忠勝らが守るべき荷駄は、恐らく敵から奪った武具だろう。馬の左右にいびつに膨れた袋が下げられていた。何が入っているか不明の長細い袋もあった。馬の頭数は30に満たない数だった。その馬をひく足軽の数の方が倍多かった。

 足軽たちは粗末だったが武具を(まと)い、陣笠を被っていた。荷も担いでいなかった。この足軽たちもきっと甲斐のどこかの農民なのだろうと忠勝は思った。

 忠勝らには旗指物(はたさしもの)と長槍と甲冑を与えられた。旗指物以外は全て北条の兵から剥ぎ取ったものだ。立派な甲冑だった。本当はこれを運ぶのが仕事だな、と忠勝は思った。報酬である筈がない。青根についたら剥ぎ取られる……。

 小山田隊の草薙佐平と呼ばれる武士の指示で動くことになった。指示と言っても、敵がきたら、槍を倒して、槍衾やりぶすまをつくれ、だけだった。そのあとどうするかはなかった。戦闘が起きると思っていないからに違いなかった。

 帰路では小荷駄隊は先頭を歩く。重い荷を運ぶので、落伍する危険があるからだ。が、小山田隊では、一番後ろに廻された。これでは落伍してしまう、と忠勝は思った。

 落伍してもかまわない。だらだら歩くのはたまらないと考えているのか。

 戦闘は起きないからだろう、「安全」の証明だと忠勝は思った。八菅はすげで聞いた話は失念しつねんしていた。

 道志川沿いの道は狭く、左の山側からしか敵が襲ってくる心配はない。その山側も大半は背丈の有る枯れた雑草がひろがっていて隠れるところもなく、傾斜もきつく大量の兵に襲われる心配はない。右側は崖でその向こうは道志川が流れている。

 山を越えると、谷がある。そしてまた山を登る。その繰り返しだ。

 沢の水は有難かった。渇いたのどを潤してくれた。


 青野原を越えたあたりで、青根隊の先頭を歩いていた髭面の男が小荷駄隊の隊長と思われる草薙佐平に「この山を越えると青根です。そこで酒が用意してあります。ごゆるりとなさってください」と言った。佐平は頷いた。

 ただでさえ、遅れているのに……、と忠勝は思った。落伍するのは許されるのか。休憩も許されるのか。不思議なことだと思った。

 青根に通じる山道は今までで一番長く、険しい道だった。

 長かった坂道を越えると一気に視界が広がった。

 右側の山は切り立った崖のように傾斜の強い山だった。枯れ草ばかりで、頂上付近に木が僅かあるだけだった。しかし、目の前に広がる道は次第に広くなり、集落が近いことを知らせていた。正面にまた高い山が見えるが、その間のどこかに青根の集落があるのだろう。右側の崖は反対になだらかだった。歩きやすい道になった。

 沢に下りる手前の道で敵の襲撃を受けた。沢に下りる道とは別に左手に道があったのだ。そこから敵が飛び出してきた。

 指揮をとる男は落ち着いていた。

 敵は山伏だった。

 青根隊は男の合図で槍衾をつくる。

 敵も槍衾で応じた。

 動きが止まった。

 派手な甲冑を身に纏った馬上の山伏が、槍衾の間から進み出た。そして、叫んだ。

「青根の衆ではないか。そこをどくのだ。お主らを斬りとうない」

 青根隊に動揺がひろがった。

 髭面の男はやはり青根隊の代表だった。男は言った。

「どくわけにはいきません。もう、戦いは武田の勝利で終わっています。無駄なことは止めてください。法印様を死なせるわけにはいきません。だから、どくわけにはいきません」

「戦わないわけにはいかない。敵をむざむざ通すわけにはいかないのだ」と法印は言った。暫く、沈黙が続いた後、突然、叫び声が聞こえた。

「伏せろ」

 青根隊は一斉に伏せた。

 山をも動かすほどの砲声が響き渡った。

 青根隊の後ろに、鉄砲を構えた、先ほどまで荷駄を引いていた「農民」が立っていた。彼らが一斉に山伏に発砲した。馬が運んでいた、あの、細長い荷は鉄砲だったのだ。

 目の前にいる山伏たちは次々に倒れた。鉄砲を撃ち終わると、足軽たちは青根隊の長槍を奪い、青根隊を踏み越えて、山伏たちに斬りかかった。

 山伏たちは、統率が乱れた。指揮をとる法印は、馬から落ち、既に事切れていた。

 戦うものもいたが、生き残った大半が逃げた。

 足軽たちがそれを追った。

 後に、青根隊が残された。

 皆、項垂うなだれていた。

 暫くすると、足軽たちが帰ってきた。そして、勝鬨かちどきをあげた。

 犠牲者は一人も出ない、武田隊の完全勝利だった。足軽たちは満面の笑みだったが、青根隊の表情は複雑だった。

 小荷駄隊の大将は言った。

「敵は日向薬師の山伏だ。襲ってくるのは分かっていた。だから、武田の本隊から鉄砲隊を派遣してもらったのだ。全て予定通りだ」


 青根の諏訪神社までの道々に山伏の死体がいくつも転がっていた。その多くは鼻が剥ぎ取られていた。首がないものもあった。ひと打ちで見事に切られていた。

 神社の境内には、茣蓙(ござ)が一面に敷かれていて、そこに足軽たちは座った。

 小荷駄隊の大将は舞台の上の床几(しょうぎ)に座った。

 そのそばに首が一つだけ置かれていた。法印の首だ。

 右目から血色の涙が流れていた。眉間には大きな傷があった。

 法印はかつて大悟の家で会った、あの島尾だった。

「あの男を知っている」と誰にいうともなく、ぽつりと忠勝は言った。忠勝は酒盛りをする武田隊を取り囲む青根の衆の中にいた。

 隣の男が応じた。

「馬鹿なことをいうもんじゃない。法印様はお前みたいな者が近づけるお方ではない。知っているわけがない」

 切り落とされた首は法印ではないのだ、法印の影武者にされた島尾なのだと、忠勝は悟った。島尾は大悟と同様に武田側の間者と思われている。だから、勝ち目のない戦の影武者になるしかなかったのか。

 島尾の表情は無念で、悲しげだった。

 大悟と同じ表情だ。

 他にも同様に、甲斐側だと思われた多くの者が不本意な死を迎えた……。

 いや、不本意でない死など、どこにもない。甲斐と相模が戦う理由など、そもそもどこにも存在しないのだから……。

 酒宴はいつまでも続いた。酒を注ぐ女たちに無礼を働く者も現れた。

「甲斐と戦うなんて、とんでもない。ずっと、仲間だった。我が村は皆、甲斐の村から嫁をもらい、時には婿ももらった。たくさんの娘が甲斐に嫁いだ。ここは、相模でも、甲斐でもない。どちらも味方で、どちらも敵だ」

 静かな声だ。

 隣で見ていた、長い白髭を生やした、年老いた先ほどの百姓が低い声で忠勝に言った。

 青根村も隊を二手に分け、双方に兵を送り込んだ。村をあげて、どう生き延びるか考えればそうするしかなかったのだろう。しかし、それは幸せでもあった。

 幸田村ではできないことだった。幸田村は武田を選ぶ道はなかった。

 忠勝は寒さを感じた。

 細かい雪粒が舞っていた。

 忠勝は空を見上げた。

 暗空にたくさんの星々が光り輝いていた。


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