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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
この素晴らしき世界
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 永禄12年(1569年)、年が明けて寒さは一層厳しくなった。


 いとがこの村に来てから8年が経った。

 忠勝は25歳、いとは19歳になっていた。

 忠勝は時間の経過と共に、ある種の諦めに支配された。

 大悟が元気なうちは自分が小林の家に入る必要が無い。兄たちも表向き反対はしないが、働き手として忠勝を役立つと思っている。誰も変わることを望んではいない……。

 今は事態が動くとは思えなかった。だが、いつか変わる。その時はいつか来る。忠勝はそう信じるしかなかった。

 その年の、ようやく寒さが遠のき始めた4月のよく晴れた日の昼、忠勝は大悟の家にいた。

 大悟に呼び出されたのだ。大悟に向かい合う形で忠勝は正座した。大悟に命じられたわけではない。大悟の尋常でない様子が忠勝を自然と正座にさせた。いとは大悟の横に座った。

 いとは大きな眼をさらに大きくして忠勝を見た。強い眼だった。いとは今日の目的を知っているようだった。

「闇の時代に入った。これから何が起きるか分からない」と大悟は言った。

 武田と北条の同盟が崩れたこと、両者の間で大きな戦争が起きるのは確実であること、最悪の場合、この村も何らかの形で戦争に巻き込まれるだろうということを大悟はゆっくり自ら確認するように言った。既に大悟が「最悪の何か」を覚悟しているように見えた。

「わしは甲斐のために働いた覚えは無い。甲斐と相模のために働いただけだ。北条は今川との義理のために、甲斐との戦いを続けている。全く益の無い戦いだ。まさか、本気で甲斐と戦うと北条が決意するとは思わなかった。これでは相模の民を見捨てるのと同じだ」と大悟は言って、唇をかんだ。

「最悪のために、準備はしておかなくてはならない。いとには短刀を渡した。それで何をするかはいとが決めればいい」

 いとは胸元から短刀を取り、自分の前に丁寧に置いた。

 いとにとっての最悪とは何なのか。殺されるかもしれなかったり、自ら命を絶たなければならなかったり、ということなのか。忠勝の心は騒がしくなった。

「わしは武田側だと思われている。ここに刺客が来るかもしれない。まさかいとにまで手を出すとは思わんが……。短刀を持たせたのはそのためだ」と大悟は言った。

 忠勝はただ黙っていた。十分理解できなかったこともあるが、いとに短刀を渡した大悟を理解できなかった。いとをここから逃がすこともできる、と忠勝は思った。

「明日朝、八菅はすげに行く。新しい情報が入るだろう。きっとその情報はもっと悪いものになっている……」と大悟は言った。


 翌日、日が射してから小半時して、忠勝は大悟の家に向かった。どうしてもいとに確認しておきたいことがあった。大悟がいては、聞きにくいことだった。今日しかないと忠勝は思った。大悟が八菅に向かったに違いない時間を待って、忠勝は大悟の家に向かったつもりだった。

 しかし、大悟はまだ出立してはいなかった。

 忠勝が大悟の家の板戸の前に立つと同時に板戸は開いた。大悟も忠勝も驚いた。

「今から出立だ」と大悟は言った。

「気をつけてください」と忠勝は言った。

 いとと忠勝は大悟を見送った。今まで、見たことが無いほど、大悟の背中を小さく感じた。


 忠勝は無言でいつも大悟が座る場所に移った。そこに座るのは初めてだった。


 何かの決意をいとは感じた。いとは向かいあった。いとは忠勝の眼に強い光を感じた。


「昨日の話でどうしても確認しておきたいことがある」と忠勝は言った。

「短刀は何のために使えと言っているんだ」

 いとは即座に答えた。

「何のためとも言っていません。でも、これは命を絶つためのもの。そうしなければならないときに覚悟のためにいただいたものだと思っています」といとは言った。

「そんなことは分かっている。それでは、いとはそれをどう使うつもりか」と忠勝は言った。

 いとは暫く何も答えなかった。忠勝が何を言いたいのかを考えているふうだった。そして、言った。

「使うつもりはありません。人を殺したくありませんし、死ぬつもりもありません」

「それなら、預かってもいいか」と忠勝は言った。

「それはできません」といとは即座に答えた。「父上を裏切ることは出来ません」

 忠勝はたじろいだ。

「私は一度死んだ身です。それを父上やあなた様に助けていただいた。私は父と母の殺されるところも見ています。死はもうたくさんです。何があっても死ぬことはありえません」といとは言った。

 この答えに忠勝は安心した。短刀を預かりたかったが、父を裏切りたくないという、いとの気持ちはよく分かった。

 忠勝はそれ以上は何も訊かなかった。いとが死を選ぶかもしれないという不安は消えた。いとへのいとしさが限りなく広がった。

 忠勝は立ち上がり、いとに近づいた。いとも立ち上がった。忠勝はいとを引き寄せた。いとは眼をつむった。いとの柔らかい唇が忠勝を誘っていた。


 八菅に出かけていた大悟が村に戻ると、直ぐにいとが忠勝を迎えに来た。

 大悟は板の間のむしろに横たわっていたが、忠勝を迎えると、起き上がり、目の前に忠勝を座らせた。


「事態はこの前に話したことと変わらない。いや、深刻になっている」と大悟は言った。

「北条殿が武田との同盟を再度結ぶ可能性はなさそうだ。そうなれば、私の命はない。私は武田側と思われているからな」

 大悟は唇を噛んで、項垂うなだれた。

「誰かに命を狙われるのですか?」と忠勝は聞いた。にわかに信じがたかった。武田との同盟を北条が破棄したからといって、どうしてそれが大悟の命と関わるのか、分からなかった。忠勝は大悟が演じている役割を理解してはいなかった。大悟も教えたりはしなかった。

「馬鹿げたことだ。北条殿はいつまで今川に義理立てするつもりなのか。このままでは、武田も北条殿も共倒れになるだけだ」

 大悟は悔しがった。忠勝は勘助を思い出した。あの時、敵は上杉だった。勘助は武田と北条を強固に結ぶためにわざわざ相模まで来た。その案内を大悟はした。そのことが大悟を武田に組みするものと見られる理由となっているのかもしれない。

「あらざらむことのみ多かりき」と大悟は言った。

「どういうことですか?」と忠勝は聞いた。

「まさしく、そういうことだ」と大悟は言った。

「どういう意味ですか?」もう一度忠勝は聞いた。

「まさしく、そういうことだ。あらざらむことのみ多かりき」遠くを見る眼で、大悟は同じことを繰り返した。

 大悟の眼から涙が零れた。

 見たことのない、気弱な大悟の姿に、忠勝は尋常ではない事態が間近に迫っているのを感じて、寒気が走った。しかし、尋常ではない事態が一体何なのかは想像できなかった

 

「いとの身が心配だ。この家にいたら危ない。いとはお前の家で預かってもらえないか。いとはお前の許婚(いいなずけ)だ。そのまま一緒に住めばいい。これから、お前の父上に頼みに行く」

 いとは大悟の隣で下を向いていた。いとの表情は見て取れなかった。

 三人で忠勝の家に向かった。いとは二人の後ろを歩いた。下を向いたままだった。


 大悟は太田家の主人である太田忠親に次のように話した。

「暫くこの村を離れなくてはいけない。そこで、いとはここで預かってもらいたい」

 忠親は預かるのはかまわないが、いつまでになるか、と訊いた。大悟は「暫くだ。そんなに長くはない」と言った。忠親はこれ以上聞かなかった。

 預かることが決まった。

 いとは忠勝の家の一番奥の部屋に寝泊りした。忠勝の母の部屋だ。

 その翌日から、日が昇ると、いとは毎日大悟の家に通った。いとの身が心配で忠勝も一緒に通った。そこでいとは食事を作り、掃除をした。忠勝は、庭の畑を耕作したり、わずかばかりの野菜の収穫をしたりした。そして、夕方になると一緒に帰った。


 大悟が村を離れることは無かった。そのことを知っても、忠親はいとを預かり続けた。大悟の真意は分からないが、それが大悟の願いだからだ。


 数か月、何も起こらなかった。

 このまま平穏な日が続くことを誰もが願った。


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