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樫村はありえないと思った。
千佳子の主宰する研究会に参加していたという女性は、千佳子に男の影は現在ないと言い切った。あるとすれば、過去の人物で、偽装夫婦の相手か、勤めていたキャバレーの客しかいない、とまで言った。
一体、河井壮夫と名乗るこの男は千佳子とどういう関係だというのか。誰にも気付かれずに二人は付き合っていたというのか。
「どこの誰かも分からない人物に志穂を引き渡すなんてことはありえないでしょう。それとも、あなたは志穂の父親とでも言うんですか?」
「そうではありません。しかし、千佳子さんの無念な気持ちを考えると……、何としても志穂ちゃんを幸せにしたいんです。千佳子さんのためにも」と、男は言った。
「千佳子とどういう関係なんですか?千佳子がこうなることを予想してあなたに頼んだとでもいうのですか?」樫村は詰問した。
「千佳子さんの生き方に敬意を持っていました。話をさせていただいたこともあります。自分自身の考え方、感じ方といつも向き合っていて、彼女の言葉には紛れもない真実がありました。志穂ちゃんを育てるのだって、大変だったろうに、研究会を開いて、会員と議論して自分の思想を磨いていました。そんな彼女が命を落とす。こんな理不尽なことはない。それも志穂ちゃんを残して。どんなにか無念だったろうと思うと、何とか千佳子さんのためにできることをしたい。だから、僕にとって志穂ちゃんを引き取るのは必然なんです」
必然?
男の動機は薄すぎる。本当に父となるとはどういうことか、この男が分かっているようには見えなかった。
「動機は分かりました。しかし、志穂は私が引き取りました。千佳子を父親代わりとして育てた私には義務があります」樫村は冷静になった。この男は少なくとも千佳子に誠意を感じている。有難いことだと思った。
しかし、男は激しく反論した。
「私は義務があるとは思いません。千佳子さんは喜ぶでしょうか。父親として、沢山の恩義を感じている樫村さんに、更に娘の世話までさせる。それこそ、千佳子さんは無念に感じるはずです。それだけは認められません」
「いえ、そうだとしても私が育てます。千佳子が立派だったとあなたが言うのだったら、自信をもって言えます。まだ学生であるあなたが育てるよりも私が育てる方が志穂を幸せにできる」
「私もできます。どうか、千佳子さんのためにも私に引き取らせて下さい」尋常な言い方では引き下がりそうもないな、と樫村は観念した。
「非常識だ。独り者のあなたがどうやって育てると言うんです。よく聞いてください。そもそも、しかるべき施設が志穂を引き取ったとします。もし里親として引き取りたいとあなたが申し出たとする。それを認めると思いますか。母親がいないんですよ。思いだけで、子供は育てられない。それが結論です。帰ってください」
樫村は直ぐに立ち上がった。
応接室のドアを開け、手を開いて、帰るよう促した。
男は無言で去っていった。
しかし、男は、その後、何度もやってきた。
二年後、男は、「就職しました。これを志穂ちゃんのために使ってください」と言って、白い封筒を樫村に渡した。そこには二万円が入っていた。このころには樫村は男の覚悟だけは認めるようになっていた。
男は毎月、二万円の入った封筒を持ってやってきた。




