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愛さずにはいられない  作者: 松澤 康廣
この素晴らしき世界
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 いとが小林大悟に引き取られてから2年が経過した。


 忠勝は機会があれば、小林家に出入りした。

 小林大悟は留守にしていることが多かった。居ないときには、いとの手伝いをしなさい、と大悟は言った。

 大悟はいつか忠勝を養子にし、いとと夫婦にすると決めていた。忠勝もいとも時間がたてばその気になると見通しを立てた。


 その年の秋、小林家の僅かな田からの収穫を終え、小林家でも宴が行われた。そこに忠勝は招かれた。

 高齢になった大悟が酔うのにそう時間はかからなかった。


 忠勝の杯に酒を注ぐいとを見ながら、大悟は言った。忠勝は驚いた。

「いとは承知しているから、あとは忠勝次第だ」と続けた。

 いとは何も言わなかった。ただ黙って、今度は大悟の杯に酒を注いだ。忠勝はどう反応してよいものか迷っていた。

「ずっと先の話だ。お前のお父上も必ず承知するはずだ。何しろ、いとは寿々さんに瓜二つだ」

 いとは赤い小袖を着ていた。その赤い小袖は忠勝の父が随分前に与えたものだった。


 太田の家に大悟がいとを連れてやってきたのは、忠勝にいとを嫁にやると言った日から何日も経っていなかった。

 大悟は、「小林の家を絶やしたくない、出来れば、忠勝をいとの婿養子に迎えたい。養子の件は、前回はゆくゆくは、という話でご承知いただいていることではありますが、今回は正式にということでお願いいたす」と、忠親に伝えた。忠親は黙って頷いた。

 大悟の表情が和らいだ。やや間をおいて、大悟はいとの方に目を向けて、感じ入ったようにゆっくり話を繋いだ。

「いとは先代のお母様、寿々さんに実によく似ている」

 忠親の反応はなかった。

 忠勝は母から寿々という名の祖母の話を聞いたことがあった。しかし、記憶にあるのは、大雨の後のがけ崩れで幼子とともに亡くなったという話ぐらいで、他の記憶はあまりない。父が祖母を知らないことも聞いていた。

 父は祖母を知らないのだから、当然の反応だ、と忠勝は思った。

 忠親は、忠勝の気持ちを聞いた。

 忠勝は「小林の家を守りたい」と言った。

 これで、話はついた。忠勝は三男なので、いずれ外に出なければならなかった。

 大悟は言った。

 「それはありがたい、自分も年を取った、ゆっくり休みたい」


 大悟は帰った。

 帰るときに、忠親は、大悟を待たせ、どこかから木箱を持ってきて、「これ」と言って、大悟に渡した。

「これは先代の母上様が子どもの頃に着ていたものです。いとさんに着させてください」


 いつ、大悟がいととの結婚を認めるのか分からなかった。大きくなったらとはいつのことなのか。それまで、いととどういうふうに関わるのか、忠勝は想像もつかなかった。いとは承知しているという大悟の言葉が頭の中をかけめぐった。


 その後、大悟が忠勝にいととのことを話すことはなかった。忠勝は今までと変わらず、大悟の家に出入りしたが、いとに何の変化も起きなかった。忠勝からの言葉を、大悟もいとも待っているのではないかと思うこともあったが、自分から動き出す勇気を忠勝は持つことができなかった。


 ある日、いつものように忠勝は大悟の家に向かった。丘の上で、いとが家から出てくるのが見えた。

 いとは歩き始めた。のんびりと。長閑な光景だった。

 どこに行くのだろう。まだ、日が昇り始めたばかりだ。ゆるやかな風が吹く、おだやかな日だった。

 忠勝は後を追った。ただ、いとを見ていたかった。

 いとは幸田川に通じる小道を歩いた。薄桃色の花をつけたなずなや、黄色の花をつけはじめたかたばみが道端に咲いていたが、いとは無関心だった。

 あとわずかで幸田川に出る。

 いとは立ち止まった。そして、座って、手を動かし始めた。忠勝に背を向けているので、何をしているのかは分からなかった。

 暫くして、あざみの王冠がいとの頭に載せられた。いとは花を摘んでいたのだ。そして、立ち上がると、忠勝の方に振り向いた。

 忠勝は身を隠した。気づかれないで済んだかどうか自信がなかった。

 いとは気づいたかもしれない。忠勝は身震いした。

 いとはまた歩き始めた。

 気づいているはずだ。隠れていることの方がおかしい。どこかで声をかけねばと思いながら、忠勝はいととの距離を狭めていった。

 しかし、そのうちに疑問がひろがっていく。なぜ、いとは気づかないふりをしているのだ。いとがそうなら、自分も気づかれていないふりをしていていいのではないか。いや、そのほうがいい……。


 穏やかな陽の光がいとを照らしている。

 川沿いに近づくと、いとは周囲を見回し始めた。忠勝は背後に回り、気配を必死に消した。

 いとは明らかに川に入る場所を探していた。そして、土手が崩れ、鬱蒼と立ち並ぶ葦の波が切れたところを下り、川に入り、川上に向かって歩き始めた。

 忠勝は腰を低くし、身を隠しながら、自身も川に入った。

 幸田川の水量は上流に行けばいくほど減っていく。

 各所で川底から水が湧いていた。川底の土砂の動きでそれが分かる。それが幸田川の水量を決めていた。

 川はところどころで中州ができていて、川の流れを分けていた。深いところでも膝のあたりまでの水量になった。川底は拳大の小石だったり、砂地だったりに変わった。

 いとは川の中央部の土や石がむき出しになったところを選んで歩いた。

 忠勝はいととの距離を縮めた。もう、隠れることは不可能だった。そう思った瞬間、水面が大きく揺れた。


 ウグイだった。それも何匹もの婚姻色に赤変したウグイだ。

 上流に顔を向け、押し合うように並び、同じように、双方が体をぶつけ合っている。産卵をするのだろうか。忠勝は我を忘れて見入った。

 どれほどの時間が流れたか。忠勝はウグイの列に流れ込む赤いあざみで我に帰った。赤いあざみの花は一瞬水に呑み込まれ、そして浮き上がると薄紫に変わった。

 忠勝は上流の水を追った。あざみの赤い花が何本か続いていた。その向こうにいとがいた。

 忠勝がいとを見たとき、確かにいとも忠勝を見ていたと思った。

 しかし、目の前のいとはこちらに背を向けて、表情は見えない。

 いとは少し腰を落として、小袖の裾を両手で持ち上げていた。

 白い腿が血で赤黒く汚れていた。

 いとは動かない。気付いていないふりどころではなかった。忠勝の存在を拒んでいるように、忠勝は感じた。


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